第10話「死んだ初恋」



 いつしか私は、直人との交際に違和感を抱くようになっていた。恋人らしくカフェやレストラン、映画館や水族館に一緒に行った。彼も楽しいと言ってくれてるし、私も楽しいと感じてる。


 そのはずなのに、なんでだろう。いまいち直人との関係にしっくりこない。謎の物足りなさを感じる。ネットで恋人がするべきことを、片っ端から試した。彼の反応は満足してるからいいはずなのに、それを素直に受け止められない私がいる。

 私は本当に彼の恋人として、上手くやれているのだろうか。私のしていることは、彼女としての役割に相当するのだろうか。


 違和感を抱いているのは、彼女が私だから? 中川友美という人間が、誰かの彼女として生きているから?




「友美、おい友美」

「はっ!」


 我に返ると、目の前には真っ暗なスクリーンと、席を立つ大勢の客の姿。そうだ、私は直人と映画を見に来ていたのだった。


「もうスタッフクレジットも終わったぞ。そろそろ行こうぜ」

「え、えぇ……」


 暗い館内から外に出る。心なしか、まだ周りが暗く見える。多分私の視界だけだ。


「それにしても、刺し殺すのは流石にヤバイよな~。やっぱヤンデレ幼なじみは、二次元だけにしてほしいもんだ」

「そうね……」

「友美、ちょっと疲れたか? どっかで休憩がてらお茶でもするか?」

「うん……」


 活気のない返事に疑問を感じ、休息を提案する直人。優しいのは結構でも、逆に私の申し訳なさを加速させる。ダメだ、心がもたない。とにかく私は返事をして、彼の後を背後霊のように付いていく。






 そして直人との交際は、もうすぐで一ヶ月経つという頃まで続いた。私にとっては、たった一ヶ月でも続けば奇跡だ。結局、未だに彼女らしいことというか、付き合っている身としての本分を、全うできている気がしない。

 それでも、彼は変わらず私のことを受け入れてくれている。だが気遣いは十分でも、私の悩みには気づいていないんだろう。


「中川さん?」

「あっ、すみません……」


 エリン先生の声で、私は現実に意識を戻す。先生は私と共に自習室にこもり、私の個人的な自習の時間に付き添ってくれている。まぁ、私が頼んだんだけど。

 ちなみに、直人に頼むのは何だか気が引けた。おかしいな。付き合い始めたばかりの頃は平気だったのに。とにかく、私は意識をペン先に向けた。最低でも一時間は集中した。


「そろそろ休憩しましょうか」

「ですね」


 私はシャーペンをノートの上に寝かせる。直人はよく適度に休憩をしないと脳がゾンビになると、意味不明なことを言っていた。私が休憩をとることに抵抗を感じる理由は何だろうか。それほど私は、単に勉強することに毒されているのだろうか。


「大学はどうですか? もう慣れましたか?」

「まぁ、ぼちぼちと……」

「彼氏とかできちゃいました?」

「はい!?///」


 突然何を言い出すんだこの先生は。私の頬は、ペンキを染み込ませたように赤く染まっていく。


「一応……できました」

「あらおめでとう! 彼氏さん、大切にしてあげてね」

「なんでそんなにテンション高いんですか……」

「学生と友好的に関わるのは、教師の基本ですから!」


 無いようで実はそこそこある胸を張って、ドヤ顔を決めるエリン先生。ノリが完全に恋バナをしたがる女子高生だ。先生が恋バナしたがっているだけなのは明確である。なので、私は振ってやった。


「先生はどうなんですか? 好きな人とかいるんですか?」

「ふふっ、いましたよ♪」


 きっと先生も、自分の好きな人のことを話したくてたまらなかったんだろう。私が話題を振った瞬間、先生の口元が緩み始めた。休憩がてら、先生の恋バナを聞いてあげることにした。


「……って言っても、その人はもうこの世にはいないんだけどね」

「え?」

「彼ね……事故で亡くなったの。いや、事件と言うべきかな」

「どういうことですか?」


 早くも恋バナと呼ぶには重すぎる単語が登場してきた。しかし、エリン先生は長々と語り始めた。好きな人との残酷な思い出話を。


「確か5年くらい前だったかな。私が大学教授になりたてだった頃にね、アフガニスタンに国際ボランティアに行ったの。それが終わって、帰りの飛行機に乗ったら、そこで機内がハイジャックされたのよ」

「ハイジャック!?」

「私はハイジャック犯の隙をついて、警察に通報しようとしたの。そしたら見つかってね。危うく殺されそうになった。でも、偶然隣にいた彼は、私を助けてくれた。ハイジャック犯がナイフを突き刺そうとしてきたのを、彼は身を呈して庇ってくれたの」


 友美はその時の情景を、自分なりに思い浮かべる。エリン先生はハイジャックに遭って怖いはずなのに、危険を犯してまで警察に通報しようとした。隣にいた男の人も、とっさに先生を庇った。すごい……二人のような勇気は、私にはない。


「でもね、その後に飛行機がすごい音を出して揺れ始めた。そして、飛行機は墜落してしまったの」

「そうですか…………えっ!?」


 ちょっと待って。エリン先生の話が本当なら、その墜落した飛行機に先生は乗っていたということになる。だとしたら、なぜ今生きているのだろうか。


「じゃあ……先生は……」

「うん、私はその墜落から、奇跡的に生き残ったの」


 エリン先生は真っ直ぐ私を見つめながら、その時の情景を語り続ける。しかし、先生の視界に写っているのは私ではなく、絶望的なまでに脳裏に焼き付いた燃え盛る業火と、漆黒の噴煙だろう。


「残骸に埋もれて苦しむ人達のうめき声は、まるで地獄に苦しむ罪人のようだった。いえ、地獄そのものだったでしょうね。私は痛みを堪えながら、必死に瓦礫から這い出て、辺りを見渡したの。みんな血だらけで、焼け焦げてて、悲痛な声をあげていたわ」


 先程まで快適なフライトを楽しんでいた人々が、突然耐え難い地獄に落とされたのだから、それを眺めるのはひどく心を痛めただろう。私の乏しい想像力では、その苦しみの全てを理解することはできない。


「人生の全てを失ったような気がした。でもそれは違った。私は生き残ってしまったの。彼のおかげだと思ったわ。もしあの時ナイフで刺されていたら、墜落の衝撃に耐えられなかった。彼が庇ってくれなかったら、私は墜落した時に死んでいたでしょうね」

「……」

「私は彼を探した。薄れゆく意識の中、救助隊に担架で運ばれながらも、彼の姿を探したわ。でも見つからなかった。病院で治療を受けて、意識が戻ってからしばらくたった後に、教えてもらったの。生存者の中に男性はいないってことをね」


 生身で飛行機の墜落から生還せるのも奇跡的だが、ナイフで致命傷を負っていたとしたら、流石に死は免れそうにない。彼は死ぬ寸前に、エリン先生を延命させるという立派な役割を果たし、旅立っていったのだ。


「名前も知らない人だった。顔もその時に初めて見た赤の他人だった。たまたま機内で席が隣同士になったってだけだった。それは、彼にとっても同じ。なのに、赤の他人である私を、彼は助けてくれた。とっても優しい心の持ち主だったんでしょうね」


 いつの間にか、エリン先生の瞳から涙が流れ始めた。私はとっさにバッグからハンカチを取り出し、先生に手渡す。


「彼も助かってほしかった。生きてお礼が言いたかった。あんな優しい人が死んでしまうなんて、あってはならないのに……」


 エリン先生はハンカチで涙を吹きながら語り続ける。まるで命の尊さを説いているように聞こえてきて、私はすっかり聞き入ってしまう。今の彼女は教授という肩書きは関係なく、純粋に素敵な男性に思いを寄せる乙女だ。


「その日会ったばかりなのに、彼は私を大切な仲間のように助けてくれた。私、きっと彼に恋をしていたんだと思う。生まれて初めての恋だった。優しさだけで誰かをこんなに好きにさせてしまうなんて、彼は余程素敵な人なんでしょうね。もし彼ともう一度出会えるなら、あの時のお礼が言いたいわ」


 私の手にハンカチが返される。エリン先生の涙が止まり、それを思い出話の終了の合図と受け止める。


「ごめんなさい。すごく湿っぽい空気になっちゃったわね」

「いえ……」

「とにかく、大切な人の別れは、とても辛いことよ。友美さんは好きな人のことは、大事にしてあげてね」

「はい」




 キーンコーンカーンコーン

 校内にチャイムが鳴り響いた。気が付けば、窓から差し込む光も無くなり、太陽が既に沈んでいた。非常に短い感覚だったけど、だいぶ話し込んでしまっていたらしい。


「あら、もうこんな時間になっちゃった。本当にごめんなさいね……勉強見てあげるはずだったのに」

「大丈夫ですよ。だいぶ進んだので」

「気をつけて帰るのよ」

「はい」


 私は問題集とノートをバッグにしまい、自習室を後にした。自習室に残っていたのは、私とエリン先生だけだった。もう夜も遅い。早く帰って夕食を済ませなくては。


「……」


 バタンッ

 私は自習室のドアを閉めた。


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