第3話「分からない」
「直人君、ここ間違ってるわ」
「あ、ほんとだ。友美さんありがとう!」
今日は直人君の家で勉強会だ。夏休みと共に、一学期のまとめテストが近づいてきている。私達はいつものように、テストに備えて頭に知識を叩き込む。彼はウザいくらいにしつこく勉強会を頼んでくるけど、私はなぜか毎回その勢いに負け、引き受けてしまう。
元々、彼は勉強会の会場を私の家にしてくれと頼み込んできた。しかし、彼とはただ一緒に勉強をするのみの関係。あまりプライバシーな一面を見られたくない。私は「直人君の家じゃないと、付き合ってあげない」という条件を押し付けた。
「だいぶ進んだな~」
鉛筆を握った腕で、汗を拭う直人君。何とか彼の家で勉強会をするという条件は、受け入れてもらえた。しかし、更に向こうからも条件が返ってきた。
その条件とは、「家に上がったら、絶対に中を汚さないこと」と「帰る前に、誰かが来たという痕跡を綺麗に消すこと」だそうだ。彼も私をなるべく家に入れたくなかったらしい。親に友達を入れるなとでも言われているのだろうか。確かに、息子の指を折るような野蛮な親だものね。
「……」
とりあえず、私も条件を受け入れた。履いてきた靴は玄関に置かず、袋に入れて彼の部屋へと持っていった。勉強中もなるべく動き回らず、彼の部屋に留まった。彼も親がいない時間帯に、私を迎え入れた。何だか犯罪者になって
「あっ、もうこんな時間だ。そろそろ休憩しようか」
「休憩? そんな時間作るほど余裕なんてあるの?」
「無くても作るんだよ。適度に休まないと、脳がゾンビになる」
お菓子やジュースを用意しようとも思ったけど、量が減って家に客を招き入れたことを知られるのを恐れてやめた。トイレに行こうとすると、彼はトイレットペーパーの節約とスリッパの位置を所定の位置からずらさないようにすることを、念入りに警告してきた。
ほんとやりにくい……。
空が赤みがかってきた。彼の親が戻ってくる前に、私は帰ることにした。部屋を掃除し、私がやって来たという痕跡を、全て消して後にした。
キー
「ひぃっ!」
突然居間のドアが開いた。直人君が気色の悪い驚きの声を上げる。ずっと彼の家に彼と二人きりだと思っていたけど、まさか他に人がいたとは。もし親だったら、ゲームオーバーだ。
「……お兄ちゃん、誰その人」
姿を現したのは、小さな女の子だった。彼より濃い青髪ボブカットで、小学校低学年ほどの歳の見た目の、とても可愛らしい女の子だ。彼が説明しなくとも、彼の妹だということが分かる。
「なんだ……
「よ、よろしく……」
「よろしくおねがいします」
妹さんを紹介する直人君と、私に向かってぺこりとお辞儀をする妹さん。何よ、お兄さんよりしっかりしてるじゃない。アナタ、彼のお姉さんになってあげて。
「雫、友美さんは俺の……」
「彼女さん?」
「違うわ!!!」
雫ちゃんにとんでもないことを指摘され、私は思わず叫んだ。つい兄である彼より、早く口を開いてしまった。雫ちゃんはドアの裏に隠れて萎縮する。怖がらせてしまって申し訳ない。
「残念ながら違うんだよな~」
残念ながらって何よ。ヘラヘラしないでくれる? 直人君が彼氏になるくらいなら、テストで低い点数取る方がまだマシだわ。いや、それも嫌か……。
ていうか、こんなところで立ち話してる場合じゃないでしょ。早く帰らないと、先にアナタ達の親が帰ってくるわよ。私は自分の靴を玄関に落とす。今日はそわそわした勉強会だった。
「なんかごめんね。俺が誘ったのに色々注文多くて」
「……」
一応直人君も頭を下げて謝ってくる。何だか終わり方がスッキリしない。きっと彼も同じだろう。せっかく叩き込んだ知識が無駄になってしまいそうなくらい、つまらなくも楽しくもない微妙な空気が、私達の頭に流れ込む。
「あのさ!」
立ち上がって玄関ドアを開けようとした私に、彼は告げる。
「また一緒に勉強会しよう! 俺、もっともっと頭よくなりたい!」
「直人君……」
「だから友美さんも協力してほしい。俺、変わりたいんだ!」
彼はいつの間に真剣な顔ができるようになったのだろう。今までにないくらいの誠心誠意で、私に頼み込んできた。相変わらず一匹狼が好きな私は、頭の中で断る理由を探してしまった。
それでも、見つからなかった。断る理由の選択肢を、彼の誠意が一つずつ潰していくようだった。
そして、私はまた彼の心に押し負かされた。
「……いいわよ」
「やったぁ~! 雫、見てろよ! お兄ちゃん、天才になってやるからな!」
私がいいと言った瞬間、直人君は幼児退行したかのようにはしゃぐ。少しは落ち着きのある妹さんを見習いなさいよ。アナタには兄としての威厳はないの?
それでも、その態度が彼らしいとも思った。私のことを天才と慕うけれど、私にだって知らないことはたくさんある。
例えば、彼のことだ。彼は何をすると喜んで、何をすると落ち込むのか。彼はどういったものに興味があるのか。彼の行動を理由付けするものは、一体何なのか。彼のことを思い浮かべただけで、知らないことが湧水のように出てくる。
私は不覚にも彼に興味を持った。天才である私は、唯一知らない彼のことが、非常に気になっている。
分からない。本当に分からない。彼は一体何者なの?
「よく……頑張ったわね……」
「へへ~んだ♪」
もはや恒例となってきた算数の小テストの返却の時間。直人君は鼻唄混じりにスキップをしながら、先生から解答用紙を受け取り、自分の席に戻っていく。遠目でも確認できる。
彼の手に握られているのは、なんと100点満点の解答用紙だ。信じられない。私の教えがあったからとはいえ、彼は驚異的な成長スピードを見せ、ついに100点を取るまでに成長した。
「おぉぉ……」
「直人すげぇ!」
「いいな~」
クラスメイトが歓声を上げる。担任の先生も目を丸くしている。正直、私も驚いている。数週間前まで欠点だらけだった彼が、私のレベルに追い付くほどに、自身を成長させていくなんて思わなかった。私は余程彼を侮りすぎていたらしい。
「中川さん」
「は、はい」
私の名前が呼ばれた。直人君の勇姿に気を取られ、反応がやや遅れてしまった。驚きを抱えつつも、教壇まで向かう。どうしても彼が100点を取ったことが気になる。だが、私にはどうでもいいことだ。私は私の学習に目を向けなくては。
私は先生から解答用紙を受け取った。
「……え?」
時間が止まってしまったように感じた。クラスメイトの歓声も、外の鳥のさえずりも、何もかも聞こえなくなるほどに。私の前に差し出された、中川友美と記名された算数の小テストの解答用紙。
その結果は……94点だった。
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