第4話「約束」
「惜しかったわね。でも、これからも諦めずに頑張ってね!」
先生の励ましなんて、聞こえるわけもなかった。今までに100点以外は取ったことがない。私の中では失敗など許されないからだ。だとしても、こんな失敗なんか、次の成功への糧として割り切れたかもしれない。
彼と知り合わなければ……。
キーンコーンカーンコーン
「……」
まさか、この私が敗北感を味わうなんて思わなかった。しかも相手は、数週間前まで欠点ばかり取っていた凡人だ。そんな人に、テストの点数で負けてしまった。自分の実力を過信してしまったばかりに、散々彼の実力を蔑んできたばかりに。
「友美さん」
直人君が私の席に駆け寄ってきた。嫌だ、来ないでほしい。声なんか聞きたくない。私は頭を垂れながら、黙々と下校の準備をした。彼の声に返事をせずに。
だが、それも無責任というものだろう。私は彼を馬鹿にした罪を償う必要がある。
「あのさ」
「……言いなさいよ」
言えばいい。文句があるなら言えばいい。言われても仕方ないくらい、彼のことを馬鹿にしてきた。それは紛れもない事実であり、どんな天才にだって弁解できない失態だ。
「あなたに酷い態度を向けた。ひたすら馬鹿にしてきた。自分がアナタより無能だったことに気がつかないで」
初めて彼の前で涙を流した。誰かの前で涙を流したこと自体、初めてかもしれない。親にも「あなたは小さい頃から全然泣かない立派な子だ」と言われるくらいだったから。何が立派な子よ。涙で湿った94点の解答用紙を、握りつぶしながら思う。
彼は馬鹿じゃない。彼は努力でそれを証明してみせた。対して私は、偽物の実力を過信して、実は自分より有能だった相手を蔑んできた。何の努力もしないで、無様な結果を見せた。
「私は……天才なんかじゃない。私の持っている知識は……努力は……全部偽物だから。それなのに……私は自分のことを棚に上げて……アナタのことを……」
「友美さん……」
「だから、言いたいことがあるなら……全部言いなさいよ。私が今までアナタを馬鹿にしてきたように」
さぁ、好きなだけ罵りなさい。無様な私を、無能な私を。散々馬鹿にしてきたくせに、自分はろくな結果を残せなかった私を責めなさい。
「そうだなぁ。じゃあ言わせてもらうよ」
私はどんな言葉も真っ直ぐ受け止めるよう、覚悟を決めた。
「ありがとう! 友美さん!」
「……え?」
ありがとう? なんで?
「100点取れたのは、友美さんのおかげだよ。本当にありがとう!」
「直人君……」
「うーんと、えっと……他に言うことないや。とにかくありがとう!」
私のことを馬鹿にしないの? 私はアナタに負けたのよ。それどころか、アナタのことを散々馬鹿にしてきたのよ。それなのに言うことが、感謝の気持ちなのはどうして? 私には分からない。本当に馬鹿になってしまったから。
「なんで感謝なんかするのよ……」
「当たり前じゃん。友美さんに勉強教えてもらって、いい点取れたんだから」
「いや、私は今までアナタのことを馬鹿にして……」
「でも、何だかんだで友美さんは、俺のことを助けてくれたんだ。人に助けてもらって『ありがとう』って言うのは当然だろ?」
彼……やっぱり馬鹿なのかもしれない。私の彼に対する態度なんか、全然気にも留められていなかった。私より高い点数を取っても自惚れることなく、ただ私に純粋に感謝の気持ちを述べてきた。自分一人で謎の罪悪感に浸っていたことが、心底恥ずかしい。
「……」
「それくらい当たり前じゃん。頭悪い俺でも知ってるよ。友美さんそんなことも知らないの~? 天才なのに~?」
ウザい。いい点数取っても気取らないから、案外いい人かもと思ってたのに。早速調子に乗ってきた。前言撤回だ。
「う、うるさい! 知ってるわよ! どういたしまして!」
「あははっ、この流れで『どういたしまして』言うのって、何だか変な感じに聞こえるよ。友美さんってやっぱ面白いね~」
「何笑ってんのよ!」
私と彼の戯れる声は、周りのクラスメイトを気にすることなく教室に響く。普段声を張り上げることのない私だから、余計にみんなに変な印象を与えてしまわないか不安だ。それより、何よこの男。結局馬鹿にしてくるんしゃない。彼のことが全く分からない。
それでも、絶対的な事実が一つある。彼と一緒にいるのを、私は不覚にも楽しいと感じている。鉄のように硬い私の心が、彼のおどけた態度で脆く柔くなっていく。
なんでだろう……彼は馬鹿なのに……そんなことができるなんて。どうして馬鹿な彼が、私のような複雑な性格の人間を、こうも安易に変えてしまうのか。分からない私も、きっと馬鹿なんだろう。馬鹿である彼のおかげで、すっかり私も馬鹿になってしまった。
分からない……
分からない……
分からない……
教えて、直人……。
「突然ですが、遠山君が家庭の事情で転校することになりました」
言葉というものは不思議だ。自分の周りの時間がピタリと止まってしまったと、瞬時に錯覚させることができる。担任の先生の言葉が、無慈悲な現実と巧みに絡み合い、私の時間を止めてしまう。
「え? なんで~?」
「嫌だよ転校なんて」
「家庭の事情って何!?」
「詳しくは言えません」
受け入れられないクラスメイト達が騒ぎ始める。肝心の彼は、無表情で何もない床を見つめている。私も現実を受け止められず、ただ呆然としている。
どうしようもないことであるのは分かっている。現実というのは、誰かが受け入れようが受け入れまいが、前に進んでいくものだから。
「みんな、今までありがとう。楽しかったよ」
しっかりと顔を上げて笑いながら、彼は言う。しかし、その瞳はどこか別の異次元を眺めているように、クラスメイトと焦点が合っていない。
ただ、それほど別れを悲しんでいるというわけではないように思えた。何か別の要因が、彼をおかしくしているのかもしれない。
ブルルルルル……
直人君の家にあった家具を全て乗せ終えたトラックが、うなり声をあげて走り出す。選手交代するように、泊めてあった場所に遠山家の車らしき軽自動車がやって来る。運転席と助手席に、老夫婦の姿が見える。彼の祖父母だろうか。
「じゃあね、友美ちゃん」
直人君の妹である雫ちゃんが、手を降りながら車に乗り込む。私も静かに手を降り返す。私は彼に無理を言って、見送りさせてもらうことになった。すっかりお世話になった彼の家も、今やがらんどうだ。今の私の心のように。
「さて、そろそろ出発するよ」
「……」
「色々ありがとね、友美さん。すっごい楽しかったよ!」
「……」
「それじゃあ……」
直人君は背中を向けた。私は瞬間的に彼のシャツの裾を掴んでしまう。
「友美さん」
「……行かないで」
「ごめん」
「嫌だ、行かないで」
人間の心は一つだけじゃないということを知った。今私の中には、胸を張って直人君を見送らねばならないという責任感と、彼を遠くに行かせまいとする寂しさが、相反し合っている。
こんなわがままを貫き通せば、彼の家に迷惑をかけてしまうことくらい分かっている。それでも私のわがままな心が、私を追い越して先走ってしまう。
馬鹿……自分から私に近づいておいて、勝手に離れていくなんて。ほんとに馬鹿なんだら……。
「友美さん、ごめんね。俺にはどうすることもできなかった。俺はこのまま離れるしかないんだ」
直人君は優しく私の手を握り、語りかける。それでも寂しさにとり憑かれた私の手は、彼のシャツの裾を掴んだままだ。
そして、彼は口にした。
「でもね、約束する。俺は絶対、君に会いに行く」
「……え?」
今度は私の手を強く握り、教えを説くように話す。
「俺は絶対に君のところに戻ってくる。約束する。だから……泣かないで」
ここで、初めて自分の瞳から涙が溢れ落ちていることに気がついた。寂しさと涙は密接に関わり合っていて、切手も切れない存在のようだ。涙腺と心は、目に見えない神経で繋がっているのかもしれない。自分のことまで分からなくなるなんて、私はどこまで馬鹿になってしまったのだろうか。
最後に私は、どうしても直人君に聞きたかったことを尋ねた。
「教えて。なんで私なんかと、友達になろうと思ったの?」
「え?」
「私みたいな奴と一緒にいても面白くもないのに、なんで私を選んだの?」
涙はどうにか落ち着いてくれた。私は馴れ合いが好きではないし、クラスのみんなの視界の隅でいつも勉強してばかりいたから、関わってもつまらない奴だと思われても仕方ない。
実際に私に話しかけようとする人は、直人君以外にいなかった。どうして彼は、私のようなつまらない人間と友達になろうと思ったのか。
「えっと……面白くないとは思わないし、友美さんの勉強するのは楽しいよ。ただ、なんでと言われるとなぁ……」
「……」
「う~ん、別に大した理由ではないんだけど……」
直人君は戸惑いながらも答えた。
「友美さんって、名前に“友”ってあるよね? それって、なんかすごいことだと思うんだ。絶対に友達になった方がいいなぁ~って思ったんだよね」
「……は?」
「だって、名前に“友”って付くんだよ? なんか、友達になったらいいことありそうじゃん。友達になるべくして生まれてきました~、みたいな?」
くだらない。実にくだらない。もっと真っ当な理由が返ってくると思ったら、非常にくだらない。
「ちょうどテストのことで困ってたし、友美さん天才だから、勉強教えてもらいたかった。この機会に友達になれるかもって思ったんだ」
「……」
でも、不思議と納得できる。いかにも直人君らしい答えだったからだ。やはり彼は馬鹿で、そんな彼と友達である私も馬鹿だ。それが友情の証であると、今では自信を持って言える。
彼と友達になって……よかった。
「うぅぅ……」
「え……えぇ!? 今の話に泣く要素なんてあった!?」
気がつけば、私はまた涙を流していた。直人君は頭の回転が鈍いから、励ましの言葉が瞬時に思い浮かばずに慌てふためいている。
「約束……守りなさいよ。絶対だからね」
「え? あ、うん……」
「破ったらただじゃおかないんだからね!」
「は、はい! わかりましたぁ!!!」
直人君はビシッと敬礼をして、車に乗り込んだ。言いたいは全部言った。これで心置きなく見送ることができる。
彼とは、いつかまた会える。それが例外のない方程式のように絶対的な信憑性を持ち、私の心に残る。彼との約束が、穴の空いた私の心を敷き詰めてくれる。
ブロロロロロ……
彼を乗せた車が、遥か遠くへと離れていく。次に彼に会えるのはいつだろうか。いつ彼と、またくだらない話ができるだろうか。私は楽しみで仕方なかった。後部座席で手を降る彼に、私も手を振り返す。
「またね……直人……」
そして、私は一人呟く。彼の耳には聞こえないが、心にはきっと届いている。私には確信できる。
また会いましょう、直人……。
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