第50話「許すということ」
「……ん?」
直人は目を覚ました。いつの間にか気を失っていたようだ。友美に叫んでいる間は、一時的に忘れていたが、遥か高い場所から飛び降り、突風を切りながら落下していたのだ。
友美を助けようとする一心で、がむしゃらに飛び降りたため、正直恐怖が心のどこかに潜んでいた。地面に叩きつけられる痛みは、想像を絶するものだろう。その恐怖に、いつの間にか意識を狩られていた。
だが、二人共無事だった。
「起きた?」
「え? ユッ……」
直人は自分がユリアに抱きかかえられていることに気づく。直人の背中に彼女の大きな胸の感触が伝わる。隣には気を失ったままの友美が、ユリアのもう片方の腕に抱えられていた。二人共ユリアに助けられたようだ。
「間に合ってよかった……」
「あ、ありがとうございます、ユリア様……」
ユリアは直人と友美が落ちた後、必死に二人を追いかけた。地面に叩きつけられるギリギリのタイミングで、二人をかっさらったようだ。命を助けられ、思わずユリアを様呼びしてしまう直人。
「さぁ、逃げましょ」
「あ、待ってください!」
「何?」
直人は再び飛び上がろうとするユリアの腕を押さえた。
「まだ、やることが残ってました。下ろしてください」
「……分かったわ」
ユリアはセルの大地に二人を下ろした。
「ハァ……ハァ……」
久志の心はかつてないほどの怒りにまみれていた。しかし、もはや自分が何に怒っているのか、何に突き動かされているのか不明だ。ただ、所在の知れない怒りを誰かにぶつけたくて、たまらなかった。
「クソッ……」
様々な黒い感情を抱えた体は重い。久志は引きずるように足を動かし、前へ進む。
「あぁ……あ……」
どこからかうめき声が聞こえた。声の位置をたどると、前方に女性が倒れているのを発見した。髪がボサボサで、身に付けた白装束も無惨に剥ぎ取られていた。今にも事切れそうだが、既に正死を迎えているために死なない。
「あ……」
その女性は顔を上げ、久志を見つめた。恐ろしいくらい見覚えのある顔だった。
「純……」
妻の純だった。久志に浮気を問い詰め、哀れに殺されていった女だ。なぜ彼女がここにいるのか。彼女は被害者のはずだ。
「アナタ……」
純がかすれた声を上げる。その瞬間、更に前方から数体の悪魔が飛んできた。
「おい、どこまで飛ばしてんだ」
「この女が軽すぎんだよ」
「次俺の番な。もっと遠くまで飛ばしてやっからよ」
悪魔は純の傷だらけの体を、鋭い爪の付いた手で、乱雑に掴み上げる。彼女を投げ飛ばして遊んでいるようだ。これも拷問の一環だろうか。
「痛い……やめ……て……」
「やめるかよ! 自分は浮気なんてやらかしといて、その罪から逃げようってか?」
悪魔ははっきりと“浮気”と口にした。久志と結婚していながら、純は浮気をしていた。久志には浮気を疑っていながら、自分が影で犯していたのだ。夫の虐待から逃れることを望んだ末の出来心だろうか。
「時間は無限にある。たっぷりと償うんだな」
「やめ……て……」
「んじゃ行くぜ。おらよっ!」
バッ
悪魔は思いきり純の体をぶん投げた。純は久志の方へと飛んでいく。彼は底知れぬ怒りの矛先を、純に向けることにした。確実な正当性を持った怒りになって、安心した。
「どいつもこいつも……クソ女が……」
久志は飛んでくる純に向けて、ナイフを構えた。やはり自分は、この女を殺して正解だと思った。
なぜ自分は、この女を結婚相手に選んでしまったのだろう。どこで道を間違えたのだろう。考えても分からない事実に対する怒りも含め、彼はナイフに自分の怒りを全て込め、純に向けて突き出した。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」
ガシッ
「何!?」
横から突然直人が現れ、飛んできた純を受け止め、華麗にかっさらった。久志のナイフは彼女には届かず、地面に突き刺さった。
「間に合った……」
「直人……お前……」
直人は岩に純を寝かせた。彼女は唐突に現れた息子に驚愕した。しかし、体に力は残っておらず、声を上げることができなかった。久志も直人を見つめる。
「あぁ、何だお前ら。邪魔すんじゃねぇぞ」
「そうだよ、せっかく楽しんでたのに」
悪魔達は直人と久志に不満の声を上げる。
「やめなさい」
「あ?」
悪魔達は後ろにユリアが立っていることに気づいた。ユリアは血だらけの友美を抱きかかえてながら、凛とした立ち振舞いを見せていた。彼女も珍しく激怒しているようだ。
「お前、女神か。これは立派な悪魔の仕事だ。邪魔すんじゃねえよ」
「そうだそうだ」
ユリアは悪魔達に動じず、声を張り上げる。
「一旦中止しなさい。家族の水入らずの時間を、邪魔してはいけません」
「な、何だと!?」
「命令に従いなさい」
「くっ……」
悪魔達は歯軋りしながら、遠くへと飛び去っていった。どの悪魔も立場を理解しており、高貴の階級である女神の命令には、従わざるを得なかった。
直人は久志に歩み寄る。
「父さん、母さんを傷つけるのはやめろ」
「直人、一体何の真似だ。その女は犯罪者たぞ。俺の手でぶっ殺さねぇと、気が済まねぇ!」
「また殺そうとしてんのか。やめとけ。死後の世界だから、もう二度と死ぬことはねぇよ」
「うるせぇ! そんなの関係ねぇんだよ! 殺す! ぶっ殺す!」
久志はナイフを宝かに掲げ、直人に叫ぶ。しかし、直人はキリッとした顔を崩さず、ただ真剣な眼差しで、父親を見つめる。
「なぁ、自分で自分を見つめ直せよ。人のことをどうこう言える立場じゃねぇだろ」
「……」
久志はナイフを握った手を下ろした。彼は薄々気づいていた。自分の罪深さに。気づいた上で、わざと目を背けていた。
自分の怠惰が、傲慢が、嫉妬が、全部自分で自分を
しかし、直人が友美を必死で助けようとしている姿を見ると、自分が背を向けている事実が表出し、目の前に立ちはだかるのだ。
「俺は、完璧な人間なんだ……」
失敗を知らない人生を送ってきたからこそ、自分の完璧な人生の足手まといになる妻や息子、娘の存在が鬱陶しくて仕方がなかった。当然、初めはしっかりと愛していた。家族を持ったことも、幸せな人生を送るためだ。
しかし、時が進むにつれて、家族のマイナスな面が肥大化していき、つい耐えられなくなって暴力を行使してしまう。合わない歯車を無理やり噛み合わせようとして、更に外してしまっている。
「どうしてもこうなるんだ……俺は完璧なのに……」
「完璧な人間なんてどこにもいねぇよ」
「……」
「そんな奴がいたら、世界は成り立たない。みんなそれぞれ、何かしらうまくできないことがあって、それを互いに補い合って生きていく。そうやって、世界は成り立ってんだ。完璧な人間ばかりで溢れてたら、世界なんてあっという間にぶっ壊れるに決まってる」
直人は自信を持って語る。かつての彼が出来の悪い人間だったからだ。成績不良というコンプレックスに抱えていたところを、友美が嫌々ながらも手を差し伸べて救った。
そして友美は、勉強ばかりに打ち切っていた閉鎖的な人生から、直人という友人ができたことで、心を開くようになった。誰もが手を差し伸べ合って、助け合って生きているのだ。
「神様や悪魔だってそうだ。人間の感情をよく知らないせいで、道理に外れた行動をしてしまうこともある。そして、人間もまた同じ。誰もが間違えて、失敗するんだ」
直人は久志に歩み寄る。久志は彼の話に聞き入り、呆然と立ちすくんでいる。
「父さんがどうしてこうなったのか、教えてやるよ」
スッ
直人は久志のナイフを掴み、遠くに投げ捨てる。
「許すことができなかったからだ」
「許す……」
「罪を許すこと。それはとても勇気がいることだけど、失敗からやり直すためには、必要なことだ。相手がどんなに迷惑をかけたり、酷いことをしてしまっても、それを許すんだ」
誰かの罪を責めたり非難したりすることは、誰にもできるが、許すことは相当な覚悟を必要とする。しかし、それができる者が強い。
「確かに犯罪とかだったら、なかなか許すなんてことはできない。でもな、何事も“許すこと”から再開するんだぜ」
ユリアに抱きかかえられた友美を見つめながら、直人は語る。彼女は罪を犯した。そして、自分もまたその罪人の一人だ。
完璧な人間はこの世に存在しないため、誰もが何かしらの罪を抱えて生きている。手を差し伸べ合い、助け合うことは、すなわち相手の罪を許すことである。
直人は、友美を許すことにした。
「俺は友美を許す。アイツは、俺の家族に悲劇をもたらした要因なのかもしれない。本当にそうだとしても、俺はアイツを許す。だから、父さんも許してやってくれ」
「……お前も」
久志も口を開いた。
「直人も、許してくれるのか? 俺の罪を……」
「あぁ、あの言葉を口にしてくれるならな」
直人は鼻を高くして笑った。
「じゃあ、しっかり謝れよ」
久志はユリアのいる方に向かって歩き出した。正確には、友美のいる方にだ。
「……」
久志は友美に頭を下げた。
「すまなかった、一方的にいたぶって。俺の考えが間違っていた。ごめんなさい」
「ごめんなさい」という言葉。謝罪の言葉として、一般的だ。子供の頃から悪行を働いたら、親に謝ることの重要性を説かれる。
しかし、人間の心は哀れなもので、大人になると謎のプライドが邪魔になり、どうしても謝罪が苦行となってしまう。自分の罪を認めることを、どうしても拒んでしまう。
故に、謝罪という行為は、相当な勇気を必要とする。
久志は今度に純の方へ歩み寄る。
「純、散々暴力を振るって、ちゃんと愛してやれなくて、すまなかった。本当にごめん」
「……」
純は何も言わず、久志を見つめた。疲弊しきっており、声が出せないのだ。しかし、彼女の優しげに輝く瞳が、「アナタを許す」と語っていた。そして同時に「私の方こそごめんなさい」と訴えていた。
「直人も、雫も、みんな……すまなかった。本当に……ごめん……」
久志はその場に腰を下ろし、泣き崩れた。彼が見せる初めての弱々しい姿だった。
「そうだ、幼稚園児でもできる簡単なことだ」
「……」
「悪魔はどうか知らねぇけど、とりあえず俺は許すよ。これで話は無しだ」
「……なんで」
久志は涙をいっぱいに浮かべながら、息子に尋ねた。
「なんでお前は、俺のことを……」
久志にも直人の寛大な心は計り知れなかった。なぜ人殺しも含めた数々の大罪を犯した自分を、こうもあっさりと許してくれるのだろうか。
「だって、アンタは父さんだから……」
直人は得意げなような、悲しそうな表情で答えた。
「どんなに酷いことをした人でも、俺と同じ血が流れた人間だから。どんなに重い罪を犯した人でも、俺の父さんであることに変わりはないから。俺の父さんは世界でただ一人、アンタしかいない」
久志は直人の瞳を見つめた。嘘偽りのない光で満ちていた。久志だけでなく、純も罪悪感に苛まれながら泣いた。
「馬鹿な両親に育ててもらって……幸せだったよ」
直人は最後にそう言い残し、ユリアの元へ歩いていく。今後遠山家が家族全員揃うことは、しばらくはないだろう。彼は別れを告げて去っていった。
「直人……」
久志は直人のたくましい背中を眺め、呟いた。
「大きくなったな……」
その背中は父親よりも大きく、どこまでも勇ましかった。たくましく育った息子が離れていく様を、久志と純は泣きながらいつまでも眺めていた。
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