第53話 僕の部屋はダメです @3


 祈祷さんが目を閉じる、その瞬間を。

 僕は意識を集中させて待っていた。


 まるで短距離走の選手が、火薬の音に耳を澄ませるように。

 反射神経を競い合うように。


 そして。


「――ッ!!」


――その瞼が、閉じられた。


 今この瞬間、僕の恋愛生命を掛けたタイムアタックが始まったのだ。

 これは祈祷さんが目を開くのが先か、僕がズボンを履き終えるのが先かというレースである。


 敗北は即ち、祈祷さんに僕のあられもないパンツ姿を見られることを意味していた。


 まず僕が見据えるのは、就寝前に脱ぎ捨て床に落ちたズボン。

 ターゲットはコイツだ。


 部屋着として好ましくないものの、しかしそんなことを言っている場合ではない僕は、構わずそれを身につけることに決めた。


「くっ……」


 だが、やや遠い。


 そのズボンは僕の足先の側に位置しており、手を伸ばして届く距離にはなかった。

 また祈祷さんを挟んでいることあり、寝転んだままズボンを手に入れることは出来ない。


――布団ディフェンスを維持したまま、ズボン確保するのは不可能か。


 そう判断した僕は、勢いよく布団を上空へと蹴り上げる。

 布団が落ちてくるまでの一瞬でズボンを回収し、帰還する……という作戦を選んだのだ。


 なにも制限時間以内にズボンを履く必要は無い。

 ズボンを手に入れた後に、もう一度布団で下半身を隠せさえすれば、余裕を持って履けるということに僕は気づいてしまった。


――大丈夫、この作戦なら間に合う。


 僕は布団を蹴り上げた両足を天高くそびえさせながら、勝利を確信した。

 同時に僕のパンツに新鮮な風が送り込まれ、清々しい気分が生まれる。


 ちなみに外界へと晒された僕のパンツは、ボクサータイプの黒だった。


――頼む、言うことを聞いてくれ僕の身体……っ!!


 僕は痺れを訴える全身に鞭を打ち、上体を起こした。

 そしてベッドの後方まで、一気に駆け抜けようとする。


 これは僕の運動神経なら十分に可能な挑戦なハズ、だったのだが。


「!?」


 踏み出した左足に、力が入らない。

 十分な力が籠らず、膝から崩れ落ちることになってしまった。


――不味い、ベッドから落ちる……っ!


 致命的なミス。


 しかも僕が倒れ込んだ、その先には。

 瞼を固く閉じている、祈祷さんが居た。


 どうしてそんな緊張した顔をしているのだろう、なんて疑問が一瞬頭を過ぎるが、しかしそんなことを考えている場合ではない。


 このままでは勢いよく祈祷さんにぶつかり、怪我をさせてしまう。


「ごめん……っ!!」


 やむを得ない。


 僕は祈祷さんに押し倒すようにして、その勢いを打ち消すことにした。

 

「きゃっ!!」


 驚いた、祈祷さんの声。


 僕は動く右手で祈祷さんの後ろ頭を守り、残りの手足を柱のようにして己の身体を支える。

 祈祷さんに及ぶ危険を、できる限り排除した。


 そして、どん、と僕らの倒れる音がして。


「……は、はわわ……」


 僕は、祈祷さんに覆い被さった。

 口をアワアワさせる祈祷さんと、至近距離で目を合わせる。


 僕は間近に迫った祈祷さんの瞳に驚きつつも、まずは謝罪の言葉を告げた。


「ほ、ホントにごめん……。僕、(ズボン履くのに)つい焦っちゃって……」


「し、仕方ない……ですよ。は、初めて(のキス)、ですもんね……」


 祈祷さんは何故か恥ずかしそうな顔をしていて、いつも以上に可愛いと思ってしまう……が、しかし正直それどころでは無い。


 この体勢は、僕のパンツにとって危なすぎた。


――祈祷さんが少しでも下を向いたら、僕がパンツ一枚だとバレる……っ!


 しっかりと目を合わせているからこそ、まだ僕の痴態を見られずに済んでいるが、既にレッドラインの一歩手前。

 圧倒的危険地帯に、僕は足を踏み入れてしまったのだ。


 祈祷さんの意識を、僕の顔に集中させなくてはいけない。

 さもなくば僕の恋は、終わりを迎えてしまう。


「祈祷さん、目を逸らさないで。ちゃんと僕の目を見てよ。……僕だけを、見て」


 僕は超本気で真面目な声で、そう口にした。

 当たり前だろう。

 今マジにならなくて、いつマジになるって話だ。


「!?……ふぁ、ふぁいっ。……わ、分かり、ました」


 僕は一瞬、祈祷さんの瞳にハートマークを幻視する。

 あまりにも祈祷さんが可愛くて、僕の思い込みが暴走してしまったのかもしれない。


 もう止まれない。

 ズボンの為に突き進め。


「……そのままもう一度、目を閉じて」


「……は、はい。ゆっくりで大丈夫、ですよ。……か、一叶さん」


 いや、僕はゆっくりなんてしてられないから。

 一刻も早くオープンパンツ状態から脱したいんだよ。


 唐突に「一叶さん」と下の名で呼ばれドキリとしたが、やはりそんなことを気にしている余裕はなかった。


 僕は祈祷さんが再び目を閉じたことを確認して、静かに祈祷さんの上から退く。

 そして結果的に目前に迫ったズボンへと、手を伸ばした。


――やっと手に入れた……っ!!


 僕は達成感に打ち震えつつ、音を立てないようにそのズボンを履く。


 ここまでズボンに対して安心感を抱いたのは、生まれて初めての経験だった。

 風を感じない下半身が、ここまで素晴らしいとは。


「よし」


 己のパンツの安全を確認した僕は、また祈祷さんに近づき、その肩に優しく触れる。

 それは「もう目を開けていいよ」、という言葉を伝える目的に他ならなかった。


 肩に触れた瞬間、祈祷さんの身体がビクリ震えたことには少し驚いたが、しかし僕は気にせずにその言葉を――


 ピンポーン。


「……?」


「ん?」


――伝える前に、インターホンが鳴り響いた。


 祈祷さんが目を開き、僕らはまた至近距離で顔を見合わせる。


「……もう……っ」


 祈祷さんはむすっとした、何やら不機嫌そうな表情を浮かべていた。


 今は深夜一時を回った時間帯で、来客と推測するには不適切なタイミング。

 二人で首を傾げていると、玄関の扉越しに声が聞こえてきた。


『おーい、一叶。大丈夫かー』


 道幸の声だ。

 どうやら僕の部屋の前に立っているらしく、インターホンを鳴らした人物の正体も、道幸と判断して間違いないだろう。


 僕は道幸と会話をする為に、ベッドの上に置いていた携帯を手に取って、玄関前のインターホンと繋いだ。


「やっほー。こんな時間にどうしたの?」


『昨日の通話の後からお前のことが少し心配でな。一応様子を見に来てやったんだよ』


「……へぇ」


 僕は道幸が親友であることに疑いを持ったことはないが、しかしここまで過保護に接してくるのも違和感がある。

 ましてこんな時間を選ぶ理由も不明。


 故に、僕は問いかけた。


「……で、ホントは?」


『瞳に俺の部屋を完全に侵略された。帰る場所がない』


「隠奏さんマジか」


『ずっと追われてて、今やっと撒いたとこなんだよ。頼む、匿ってくれ……っ』


 紛うことなきガチトーンだった。


 僕は悩む。

 道幸を助けてあげたいとは思うが、しかしこの部屋には祈祷さんがいる。

 この状況を見て、果たして何を言われるか……。


 押し倒したりしたせいで、祈祷さんの衣服もやや乱れているし、変な勘違いをされてもおかしくはなかった。


 僕は小さく唸りながら、祈祷さんを見る。

 すると祈祷さんが、耳に携帯を当てていることに気づいた。


「……?何してるの?」


「電話です」


「え、なんで今?というか誰と?」


「母とですよ。……あ、もしもし?今、星乃さんの部屋の前に笹木さんが居て――」


『――――』


「はい、そうです。星乃さんの家は分かりますか?」


『――、―――』


「いえ、気にしないでください。住所送りますね」


 いや嘘でしょ。

 絶対に隠奏さんと電話してるじゃん。

 お母さんに僕の住所送る理由なんて無いもん。


 てか道幸、見捨てられた?

 祈祷さんに切り捨てられてない?


「ど、どうしてそんなエゲつないことを……」


「???」


「えぇ……」


 キョトンとした顔を僕に向ける祈祷さん。

 もしかして道幸、祈祷さんを怒らせるようなことをしたのだろうか?


 そして、五秒くらいが過ぎて。


『一叶、どうした?早く鍵を開けてくれ。瞳に見つかると怖いから、さっさと中に入れて欲しいぃぃぃぃい!?!?ちょ瞳が来た!!!!つかなんでここが分かった!?一叶早く開けろマジで頼む早く早く早くむぐぅ!?』


『………………近所迷惑。静かに』


『ん”ん”!?!?ん”ん”ん”!!!ん”―――…………』


 その後、僕の家のインターホンが音を拾うことはなかった。


「…………良いとこなんですから、邪魔しないでくださいよ」


 ぼそりと呟かれた祈祷さんの言葉の意味は、僕にはよく分からない。


 祈祷さんは手をもじもじとさせ、床を見つめながら口を開く。


「ほ、星乃さん。は、早く続きを……」


「続き?」


「え?」


「え?」


 唖然とした表情の祈祷さんと、ぽかんとした僕は、静かに目線を交差させる。

 何の話だか全く分からなくて、僕は何も言えなかった。


 沈黙。


 祈祷さんの表情が、徐々に冷たいものへと変わっていく。


「………笹木さん、絶対に許しませんからね」


 ごめん道幸、なんか嫌われたみたいだよお前。







 僕らは結局、朝までめちゃくちゃゲームした。

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