第51話 僕の部屋はダメです @1


 目が覚めた瞬間、まず僕が思ったのは「凄く身体が重い」ということだった。

 全身が痺れたように言うことを聞かず、左腕に関してはピクリとも動かない。まるで麻酔でも打ち込んだかのような気だるさが、僕の身体を蝕んでいた。


 間違いなく仮想現実での出来事が原因だ、僕はすぐに理解する。


 とはいえ僕が受けたのは、所詮は偽物の怪我でしかない。

 恐らくは明日までにある程度回復し、特に酷い左腕に関しても、三日もせずに元に戻るだろうことは容易に想像が出来た。


 これは痛覚を完全解放してプレイする馬鹿は僕だけではなく、多くの前例がある為に知っていた話。

 現状辛いのは事実だが、完治することを確信していた僕は、そこまで大きな不安を感じてはいなかった。


「……ん?」


 ところが、それはそれとして。


 僕の上には、また別の「重さ」が存在することに気づいた。

 不調による身体の重さとは違う、物理的な重さが僕の腹部にのしかかっているのだ。


 温かくて柔らかい、何か。


 その腹に乗られる感覚で思い出したのは、ずっと昔の可愛かった頃の妹だった。

 朝になると僕のベッドに潜り込んで、いつの間にか僕の上で眠っていたなぁ、なんて記憶が甦る。


 今ではもうゴキブリの如く僕を嫌っているので、僕は妹の触れる物に触れることすら許されないけれど。

 僕と一緒に暮らすのが嫌だからと、僕を無理やり一人暮らしに追いやった辺りで、僕は仲直りを諦めた。


 結果的には悠々とした一人の生活を送れているので、その点に関してだけは感謝してたりもする。

 

 ……嫌なことを思い出してしまったが、とにかく僕の腹部からは、そんな感触が伝わってきていた。


「……さて」


 なんやかんやで僕は慌てることもなかったけれど、流石にそろそろその正体も気になってくる。

 僕は携帯で部屋の電気をつけ、足先の方へと視線を落とした。


 すると、そこには。


――祈祷さんが眠っていた。


「……?」


 僕は見間違いかと思い、一度天井を見てワンクッション置くことにした。

 もしかして僕ってば寝ぼけている可能性があるな、と判断したのだ。


 そして、改めて確認。


「ふむ」


 やっぱり、祈祷さんが僕のお腹を枕にして眠っていた。


「ふむ?」


 何が起きたのだろう。


 こういうときは慌てたら負けだということを、知性高めな僕は知っている。

 まずは冷静に状況を把握するのだ。


 めっちゃよく知ってる天井。

 よく道幸と囲む小さな机。

 色々と入ってるクローゼット。


「……ここは間違いなく、僕の部屋」


 イノリちゃんの為に闘うと決めて、VR機を起動させたまさにその場所である。


 僕は次に時計を見る。

 午前一時を示していた。


 窓を見ると、カーテンの隙間から漏れる光は一切ない。

 どうやらその時計に狂いはなく、現在は真夜中であるのだと分かった。


 つまり、ここまでの情報を整理すると。


「深夜に、好きな女の子が、僕の部屋で寝てる」


 もう明らかにアウトである。


 はて、野球ではアウトがいくつ揃うとゲームセットになるのだったか。

 逆説的に今がゲームセットだと仮定すると、僕は数十のアウトを重ねたことになってしまう。


 弁解の余地のないこの絶望的な状況を迎えた今、僕に出来るのは、ここに至るまでの過程を思い出すことだけだった。


 言い訳を用意して、少しでも罪を軽くするしかあるまい。


「……まず僕は須田に勝って、リアルに戻ってきた」


 で、次は?


「疲れと痺れが酷くて、すぐに寝た」


 それから?


「今に至る」


 ダメだ、何の情報もない。

 僕には言い訳すらも許されないのか。


 分かったもう仕方ないので、ここまでの罪は受け入れよう。

 大切なのは、ここから罪を重ねないことである。

 仏の心で、静かに祈祷さんが目を覚ますのを待つのだ。


 そうすればきっと、祈祷さんも僕を許してくれるだろう。……許してくれるかな。


「……でもホントに僕、何をやらかしたんだろう」


 祈祷さんが僕の部屋にいる理由は、相変わらず想像がつかない。


「そもそも祈祷さん、僕の家なんて知らない筈だし……」


 少なくとも、僕自身が教えた覚えは全くなかった。


 散歩してたら偶然僕の部屋に行き着いたのかなぁ、とか頭のおかしい想像ばかりが脳裏を掛けるが、どれもこれも荒唐無稽。


 僕は一旦落ち着いて、祈祷さんに目をやることにする。


 祈祷さんの姿勢は今、膝を畳んで床に座り込み、そして寄り掛かるように上半身を僕のベッドに乗せている形。

 結果的に僕の腹部が枕代わりにされているが、故意的なものではなさそうに思えた。


 もしかすると、なんか枕としてちょうどいい段差が僕のお腹でした、的なノリだったのかもしれない。


「…………」


 何よりも問題なのは、その寝顔の愛らしさ。

 目を閉じてくぅくぅと寝息をたてているその姿は、普段以上に可愛く見えて、やけに心臓が煩く騒いでしまう。


 もしかして天使かな?と僕は錯覚するが、よく考えたら祈祷さんは初めから僕の天使みたいなものなので、錯覚でも何でもなく普通に天使。

 もう僕のベッドに天使が舞い降りた、と言っても過言ではないだろう。


 自分でも何を言ってるのかよく分からないが、恐らくはパニクっているのだと思う。


「頭を撫でるのは……アウト……、かな」


 そしてこんな言葉が漏れてしまったのも、きっと僕がパニックに陥っていたから。

 抗いきらない欲望が、僕の口を勝手に動かしたのだ。


 撫でたい。

 物凄く、撫でたい。


 罪を重ねないと誓ったばかりなのに、僕は早くも恐ろしい誘惑に駆られてしまっている。


 なんて情けないんだと、僕は己を叱りつけた――が、しかし。


 人は山があれば登るように、犬がお腹を見せたら撫でるもの。そして好きな人に頭を差し出された状況なんて、その上位互換に他ならない。

 僕のこの欲求は、人として正しい本能なのではなかろうか。


 僕は、祈祷さんの頭の数センチ上に手のひらを浮かせ、意志と本能の狭間に震わせていた。


「くっ……」


 だが、冷静に考えて。


 付き合ってもいない女の子の――、それも告白して断られた女の子の頭を撫でる行為に、一体何の正当性があるのだろう。

 なんなら祈祷さんを不快にさせてしまう、という可能性が一番高い。


 ああ、やはりダメだ。

 祈祷さんのことを想うなら、それこそ僕は今、鋼の意思でこの誘惑に耐えきるべきなのだ。


 僕は祈祷さんの頭のすぐ側に浮かせていた手を、下ろそうとする――


「……!?」


――ところが。



 祈祷さんの頭の方から、ずいっと僕の手のひらに突っ込んできた。


「な、え……、」

 

 気づくと祈祷さんの頭頂部は僕の手のひらに収まり、そしてキメ細やかな髪の感触が伝わってくる。

 まるで上等な絹を触れるような、強烈な依存性を感じた。


 その感触に反応して、僕はつい反射的に軽く撫でてしまうが、こればかりは不可抗力だと思う。


「い、今のは寝相……?」


 明らかに僕の手のひらとの距離を押し潰すような動きだったが、しかし祈祷さんがそんなことをする理由はない。

 寝てるフリなんてする筈がないし、ましてワザと僕に撫でられるような行動をとる訳もないだろう。


「……偶然、だよね」


 僕はそう思うことにした。


「……っ」


 少し緊張しながらも、僕は自分の意思で祈祷さんの頭を撫でてみる。

 ゆっくりと、優しく、決して傷つけないように。


 温かかった。

 髪の毛を越して伝わってくる、ほんのりとした熱は驚く程に心地好くて、その熱が祈祷さんを撫でているという実感を僕に突き付けてくる。


 そして僕が祈祷さんの髪を揺らす度に、女の子特有の甘い香りが僕の周りを漂うのだ。

 より一層、僕の心は落ち着かなかった。


 あまりにも慎重な手つきになってしまった為、もしかすると祈祷さんには、くすぐったいと感じさせてしまうかもしれない。

 と言っても祈祷さんは眠っているのだから、そんな心配は必要ないが。


「………っ、……」


 しかしふと、祈祷さんの口元がふるふると揺れたように見えた。

 ニヤつくのを堪えるような、くすぐったさに耐えるような――或いはその両方を、足して二で割ったような。


 加えて、目元がピクピクと震えていることにも気づく。


 もしやと思い、僕は名前を呼んでみた。


「……き、祈祷さん?」


「……」


「……祈祷さん?」


「…………」


 イマイチ判然としない。

 ただ熟睡ではないのは間違いなかった。


 僕は名残惜しさを感じながらも、祈祷さんの頭から手を離し、そして何事もなかったかのように、祈祷さんを起こすことにした。


 僕が手を離した瞬間、やや不満そうな表情をして見えたのは気のせいだろう。

 

「き、祈祷さーん。起きてー」


 多少棒読みになってしまうのは仕方あるまい。


 きっと僕の顔は恥ずかしさによって、軽く赤くなっていたと思う。


「……。……お、おはようございます」


 祈祷さんは僕のお腹に頬を乗せたまま、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

 祈祷さんの目はえらく泳いでいて、僕と同じく動揺しているのがよく分かった。


「……」


「……」


 沈黙。


 どうやって僕の家に来たの、とかどうやって家に入ったの、とかどうしてここに居るの、とか。

 聞くべきことは山ほどあるのだが、緊張して口が動かなかった。


「き、祈祷……、さん」


「……は、はい」


 この緊張の理由は、二つある。


 一つは勿論、好きな人と二人っきりで僕の部屋にいる、というこの状況に対してだ。

 そりゃ緊張するに決まってるだろう。


 健全な男子高校生なら、ついつい変な想像だってしてしまうというもの。

 そんなつもりが無くたって、緊張しない方が無理な話。


「……」


 そして、二つ目。

 その緊張の原因は、僕の布団の下の状況を、たった今思い出してしまったことにある。


 僕は現在、足先から腰あたりまでを布団で覆っている格好だ。

 お腹より上は外気に触れていて、祈祷さんの頬の感触は服の布一枚を挟んで、ほぼダイレクトに伝わってきている。


 そんな祈祷さんから与えられている衝撃も凄まじいのだが、しかし僕が言いたいのはそこではなくて。


「……お願いが、あるんだけど」


 僕の記憶が確かなら、VRから帰ってきて寝るまでの一瞬で、ズボンを脱ぎ捨てた覚えがある。

 痺れて上手く動けない僕の身体にとって、それは睡眠には邪魔すぎたのだ。

 

 そしてその後に部屋着を着たかと問われると、そんな気力は無かったと答えるしかなくて。


 まぁ要するに。

 何を言いたいかというと。




「……少し、目を閉じてくれないかな」



――――僕、下半身パンツ一枚かもしれん。

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