陸前高田にて
バイパスから道沿いのカフェの駐車場にバイクを乗り入れた僕は、早朝から駐車場の掃き掃除をしていたオーナーに断って建物の脇にバイクを止める。
「おはようがんす。おめはんも一本松だべ?」
オーナーはバイクのリアキャリアに積まれた大荷物に目を丸くしながらも、笑顔で見送ってくれた。
そのまま片側一車線のバイパスを渡り、砂利引きのあぜ道のような仮設道路をてくてく歩く。
やがて、濃いもやの向こうに半分倒壊した建物と、高くそびえ立つモニュメントが見えてきた。旧陸前高田ユースホステル。そして、そびえる松の木が〝奇跡の一本松〟だ。
僕はライディングジャケットのポケットからスマホを取り出し、松の木にレンズを向けた。
〝奇跡の一本松〟を知っている人はどれくらいいるだろう。
二〇十一年三月、この地を襲った大地震とそれに伴う大津波で、高田松原と呼ばれた風光明媚な景色はすっかり姿を消した。
そんな中たった一本だけ残った松の木は当時〝奇跡の一本松〟と呼ばれてかなり話題になったらしい。だが、人々の努力もむなしく結局は枯死してしまい、今目の前にそびえているのは一本松の精巧なレプリカ。元の松の木をくりぬいてカーボンファイバーのパイプを入れ、ステンレスと樹脂でガチガチに補強されたサイボーグとでも言うべき
「ふう」
僕は息をつく。吐いた息が目の前に白く広がる。カレンダー上は春だが、このあたりはまだまだ冬の名残が濃く残っている。
風はほとんどない。しびれるような冷え込みの中、海面から湯気のような海霧が盛んに立ち昇り、一帯はしだいに濃い霧に覆われはじめた。
僕は退院して程なく、勤めていた設計会社を辞めた。
医者に言われるまでもなく、自分で寿命を縮めてそれをおかしいとさえ思えない異常を痛感したのが一番の理由だったけど、不意に気付いてしまったのだ。
僕には、後ろから始終ムチで打たれながら延々走るような生き方は向いていない、と。
何年か前、三重県のキャンプ場で出会った女性は自分を社会になじめない人間だと自嘲し、一方で僕のことを、いずれ世の中に戻ってちゃんとやれる人だと評した。
だが、きちんとやっているつもりだった僕は、いつの間にか自分の命すら顧みない社会の歯車に成り果て、あの霧の朝、危うく死にかけた。
入院中もどこかフワフワとした感覚に襲われ、二週間ぶりに職場に復帰して上司の顔を見た瞬間、僕は自分の感覚がこれまでと完全にずれてしまったことをはっきり悟った。あの時女性が言っていたことが完全に理解できてしまった。
もしかしたら、あの時僕は一度彼岸の土を踏んだのかも知れない。
その場で退職を申し出て、上司の罵倒と同僚の懇願を振り切って会社を出た瞬間、僕はなぜか、今まですっかり忘れていた、志摩でひととき語らっただけのあの不思議な女性にもう一度会いたくなった。
「確か、国道沿いにバイクショップがあったよな」
僕は澄み切った冬空を見上げながら小さくつぶやいた。
僕は不意に物思いから覚め、寒さに身を震わせた。
あたりを覆い尽くす霧はいよいよ濃く、ホワイトアウトのように周囲全体が白く輝いている。
と、砂利を踏む軽い足音が次第に近づいて来た。
あの時彼女は言っていた。今でも毎年命日の朝は、高田の一本松に参るのだと。
今日、ここで本当に会えるかどうか、確証は何もなかった。でも、どうやら僕は賭けに勝ったみたいだ。
さすがにこんな早朝に他に客がいるとは思わなかったらしい。彼女はぎくりと立ち止まり、本当に驚いた様子で目を丸くすると、次の瞬間、僕の顔を見つめてやわらかく微笑んだ。
「君と会うのは不思議に濃霧の朝ばかりだね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます