二子玉川駅にて
その日も遅くなった。
いや、その表現は正しくない。すでに空が白みはじめており、僕は着替えを取りに戻るため、少しだけ会社を離れた。
昨日の夕方から降り始めた雪はもう止んでいたけど、どうやら十センチくらいは積もったらしい。会社から最寄り駅に歩いただけで、グショグショに融けかけた雪がスニーカーに張り付き、中までじんわりと浸みてくる。手も足も、指先がじんじんと痺れ、何日も洗ってない頭はチリチリとかゆい。
「ああ、どうして……」
その先が続かない。ゴホゴホと咳き込み、僕は慌てて電車を降りるとホームの柱にもたれかかって発作に耐えた。
年明けからしつこい咳が抜けなくて困る。毎日深夜まで残業が続くせいで病院にも行けず、終夜営業のドラッグストアでのど飴や咳止めを買ってごまかすが、症状は一向に治まらない。
「これを飲んでも治まらない時は素直に病院に行かれた方がいいですよ」
すっかり顔なじみになってしまった薬剤師にはそうアドバイスされたが、行けるものならもうとっくに行っている。
ずっと微熱だが体にだるさはない。ただ延々と喉が痛み、そんな状態にすら慣れた頃、ついにプリンが食べられなくなった。痛みで食べられないのではなく、物理的に喉を通らないのだ。
(いい加減ヤバいよなあ)
心の底では思う。だが、年度末を控え、仕事はいくらこなしても一向に片付かない。
ウチの会社は役所の案件が多く、毎年、年度末に仕事が集中する。だが、さすがにこんなに酷い状態は初めてだ。年末に相次いで退社した先輩達の後釜がいつまでたっても埋まらないのがいけない。
どうにか咳を押さえ込んで立ち上がる。
早朝のホームに人影はまばらで、線路の向こう側に白っぽく光っているのは……
「霧?」
慌てて駅名表示板を振り返る。二子玉川駅。だとすれば、あの方向には多摩川が見えるはず。
「しかし、凄いな」
遠く、まるで霧の海に黒くそびえ立つように見える高層ビルは武蔵小杉のタワーマンションか。気付いてみると、駅の周りも、ホームから覗ける線路の先も、すべてが真っ白い霧に包まれていた。
(いや)
そこまで考えたところで再び咳の発作が始まった。
(おかしい、息が、苦しい)
信じられないほどに息が苦しい。呼吸ができない。思わずその場に崩れ落ちる。
(なんだ、どうなって……)
目の前がチカチカして意識が遠のきかける。いくらあえいでも全然空気が肺に入ってこない。と、誰かに抱き留められるようにしてホームに寝かされるのが判る。
背中が冷たい。強引に顎を引かれ、何かで顔が照らされているのが判る。口の中に細い指が入ってくる。
「喉が……気道がほとんど塞がっているじゃない!」
呆れるような女性の声が微かに聞こえる。
「君、ちょっと痛いよ。我慢してね」
次の瞬間、喉にドスンと衝撃が走り、焼け火箸を突っ込まれたような痛みの一方で急に息が楽になった。
「救急車を呼んだ。もう少しだけ我慢して!」
その先は覚えていない。
次に気付いたとき、僕は見知らぬ病室の天井を見上げていた。顔には酸素マスクがかぶせられ、首には包帯、胸と足首には心電図の電極、そして両手には二本ずつの点滴チューブ、指先にはクリップみたいなセンサーが繋がっているというとんでもない状態に自分の方が驚いた。
「お、目が覚めたわね」
開けっぱなしの扉から看護師が顔を覗かせた。ナースセンターの喧騒がすぐそばに聞こえる。どうやらここは
「君、危なかったよ。駅での応急手当がなかったら命が危なかったよ」
「あの、僕、どうなって??」
「……ああ、そこからか」
額の広い年配の医師は黒縁の眼鏡を人差し指でぐいと押し上げると、ベッド脇の椅子に「どっこらせ」とかけ声をかけながら腰掛けた。
「
「こうとう……なんですか?」
「喉には、肺に行く空気と、胃に行く食べ物を分けるためのフタが付いていて、間違って肺に食べ物が入らないようになってる」
「はあ」
「で、そのフタを
「そう、なんですか」
「食事の時とか、相当痛かったと思うけど?」
「まあ、確かに。最近はプリンとヨーグルトしか食べてません」
「どれほど忙しいか判らないけど、それほど酷いなら病院にちゃんと来なさいよ。本当に死ぬよ。おまけに栄養失調気味だったし」
「すいません」
頭を下げて、同時に不思議に思う。
「でも、僕はどうして今、ここに?」
「ああ、研修医って言ってたかな?」
「は?」
「君をここに運び込んだ女性。肝が据わってるよね。とっさに芯を抜いたボールペンの軸を君の気管に突き刺したんだ。それで君は窒息を免れた。ああいう機転の利く女性がウチの救急に入ってくれると本当に助かるんだけどねえ」
医師はそれだけ言うと、再びどっこらせと立ち上がり、「ゆっくり静養しなさい」と言い残して去って行った。
結局、霧の朝に命を救ってくれた謎の女性にはそれきり会えないまま、僕は病院を退院し、それから程なく会社も辞めることになった。
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