濃霧の朝ーSIDE Aー

凍龍(とうりゅう)

志摩のキャンプ場にて

「ねえ、キミ、起きて!」


 テントが外から開かれ、少しハスキーな若い女性の声が僕を眠りから呼び覚ます。


「外、すごいよ!」


 寝ぼけ眼をこすりながら這い出してみると、太陽はようやく顔をのぞかせたばかり。

 昨夜は深夜のテンションでお互い赤裸々に語り明かし、眠りについたのはほんの数時間前のことだ。


「ほらほら!」


 手を引かれるままにキャンプサイトの端まで歩くと、眼下には美しい英虞湾の風景が……。


「うわ」


 思わず息を飲んだ。

 昨日は確かに群青色の海が広がっていたはずのそこには、ただ一面に霧が立ち込めていた。

 ミルク色の綿菓子のように見える霧が眼下の街や海をすっぽりと覆い尽くし、僕たちはまるで雲の海に浮かぶ小島に取り残された遭難者みたいだった。


「ねえ」


 彼女は幾分興奮がおさまったようで、こちら向きに柵に腰掛けると、僕に小さく微笑みかけた。


「こんな風景を見てると、まるで私達は世界の終わりに取り残された最後の人類みたいだって思わない?」


 いきなり思いがけないことを言う。


「この霧が晴れたら、街も、人も、全部きれいに消えていて、世界には無人の廃墟が広がってるの。だけと私達だけがなぜか取り残されて、同じような生き残りを必死に探すけど、どこにもいないの」


 言っていることは荒唐無稽だけど、その奥にある言いたいことはなんとなく解った。

 大学を休学し、オフロードバイクに乗って何ヶ月もこうして旅をしていると、世の中の流れから自分だけが取り残されているような孤独な気持ちになることがある。


「キミはさ、旅に出る前は、自分が社会に受け入れられている。ちゃんと世の中の一員だって感じていた?」


 そう話す彼女の横顔はとても儚げで、思わず駆け寄りたくなる。でも、その時の僕は、たったそれだけの勇気すら持てず、ただ、立ち尽くしたままぼんやり彼女を眺めていた。


「ワタシは違ってた。学校でもそうだったし、社会に出てからも、ずっと自分がはぐれ者だって感じてた。ワタシがいなくても世の中は何の問題もなく回っているし、ワタシが世界からフッと消えても、多分誰も気にも止めないんだろうなって……」

「そんなことはないよ!」


 思わず叫んでいた。

 彼女は驚いたように目を丸くしていたけど、フッと寂しげに微笑んで眼下の霧の海に目を移した。

 霧笛が低く唸り、まるでそれに応えるように、よりハイトーンな霧笛が長く響く。


「僕はそうは思いません。貴女とは出会ったばかりですけど、昨日は一緒に走っていてとても楽しかったし、作ってくれた料理もとても美味しかったし、きっと、いつか……」

「そっか」


 彼女は小さくため息をつく。


「キミは、今はこうしているけど、時が来ればちゃんと世の中に戻っていける人なんだね。なんだか少しうらやましいな」


 それ以上会話はなかった。

 僕たちは、太陽が真っ白な風景を金色の光で染め、やがて霧の海が嘘のように消えていくのを黙ったまま見守った。


「全部消えちゃったね」


 彼女はフッと小さく息を吐き出すと、勢いをつけて柵から飛び降りた。


「世界の終わりの風景を目撃したのはワタシとキミだけだよ。他のヒトは誰も知らない」


 そう言って小さな拳で僕の胸をトンと突くと、意味有りげにニコリと笑った。




 彼女とはそれきり別れ、僕はやがて旅を終えて大学に戻った。

 すぐに忙しい日常に巻き込まれ、いつしかあの世界の終わりの風景も、記憶の彼方に埋もれてしまった。

 でも、今もこんな濃霧の朝に思い出すのは彼女の意味深な微笑みだ。

 あの時、僕は本当はどう答えるべきだったのだろう。

 かすかな後悔が、心の底に抜けずに残ったトゲみたいに、今もチクリと胸を刺す。


 

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