忘崎さんの心理学入門・実習編(一年次必修)

 うわ間違えた! と気づいたときには遅かった。

「あ、ごめんね急に呼び止めて。あのさ、あのー、今度の日曜って空いてるかな。あのー、もしよかったら、一緒にそのー、ごはんとか、行かない?」

 みたいなことを言いたかったのに、実際に僕の口から出たのは、

「付き合おう」

 というありとあらゆる過程を全部すっ飛ばした、どストレートな言葉だった。

 三限、心理学入門が終わった直後の三〇三教室。

 受講者十数人、マイナス一人(僕)、プラス一人(教授)が、じっと僕を見ていた。目の前、僕がダイレクトアタックをかましてしまった相手、忘崎わすれざきさんもじっと僕を見ている。じっと、まっすぐ。

 沈黙。

 見つめ合うこと、十数秒。

 彼女の唇が、じわっと、ゆっくり、開く。

「こんにちはー」

「え、あ、こんにちは」

 すごいタイミングで挨拶された。

「えっとー、八々坂ややさかくんだよね?」

「あ、うん、そうだよ。八々坂」

「髪切った?」

「あ、うん、切った。おととい」

「へー、そっかあもう夏だもんね、短くしたほうがいいよね」

「そうだね、夏だしね」

「ねー。私もばっさり切っちゃおうかなあ」

 肩まで伸びたふわふわの髪を指先でくりくりいじる忘崎さん、のふわふわの柔らかい笑顔を見て、あーやっぱ可愛いなあ「好きです」うわ言っちゃった! うわ! 頭が真っ白になる。僕はあれか、考えるそばから全部つるつる口に出ちゃう「ところてん脳か」うわ! また! 頭真っ白の更に上、頭透明になる。あーえーあーえーと壊れたラジオみたいに一定の音を立て続ける僕の喉。その音を遮るように、

「ね、八々坂くん。一緒にお昼ごはん食べよ、これから」

 忘崎さんが目を細め、微笑んだ。

「あ、はい」

 僕は敬語を使った。


 * * *


 で。

 僕らは、今、電車に乗っている。なんで? って訊かれてもわからない。僕のほうが訊きたい。昼ごはん食べようってことだったから当然食堂に行くんだろうと思って忘崎さんについていく形で並んで歩いてたら彼女はなんでかふわふわーっと大学を出ちゃって、え? と戸惑いながらついて行くこと徒歩十数分、僕らは駅に着いた。

「切符私一緒に買うから大丈夫だよー」

 と忘崎さん。

「あ、ありがとう」

 と僕。

 それで、今、電車。どこに向かってるのかわからない。

 隣りを見る。

 忘崎さんの横顔。

 にこにこしながら首をゆっくり左右に揺らしながら、窓の向こうに流れる景色をじーっと見ている横顔。思わずぼんやり見とれてしまう。だってこんなに近くで彼女を見たのは初めてだ。

 僕と忘崎さんは一週間でただ一度、金曜三限社会心理学入門のときだけ一緒のクラスになる。いつも僕は少し離れた席から、彼女をちらっちらっと見ながら授業を受ける。喋ったこともほとんどない。お互いの下の名前も知らない。そんな距離感。それがどうだ、今のこの物理的な距離感。近い。可愛い。可愛すぎる「好」危ない。言いそうになった。咄嗟に舌噛んで止めた。危ない。

「八々坂くん」

「え、あ、おう」

 急に呼ばれてびっくりし過ぎて変な返事をしてしまう。けど、忘崎さんはなにも気にせず喋る。僕のほうは見ず、まっすぐ窓の向こうを見ながら。

「心理学ってなんだろうねー」

「え?」

「私授業いっつも何が何やらで、へへ、八々坂くんは?」

「僕? そうだなあ、うーん、まあ、あんまり、実は」

「そうだよね、難しいよね! 心理ってさ、単体でも難しいのにね、それが学とドッキングしちゃうんだもん。学だって単体で難しいのに。いくら入門って言ってもねー、全然入門出来ないよね」

 結構饒舌に喋るんだなあ、と思いながら僕は聞いていた。もっとほわほわした人かと(勝手に)思ってた。と、アナウンスと共に電車が停車する。

「着いたよ八々坂くん」

「え、あうん」

 立ち上がり、笑顔ですいすいーっと電車を降りる忘崎さんの後を慌てて追う。大学の最寄り駅から三つ隣りの駅だった。


 * * *


「冷蔵庫の中に入ってるもの言いまーす。お水とウーロン茶と麦茶とビールとウーロン茶。どれがいいー?」

「あ、えーと、むぎ、えーと、ウーロン茶で」

「はーい」

 ウーロン茶だけ二回言ってたからよくわかんないけどイチオシなんだろうと思い、選んだ僕だった。あとまだ二十歳じゃないからビールは飲めない(忘崎さんって年上?)。

 少し腰を上げ、お尻の下に敷いたクッションの位置を手でもぞもぞと直しながら、それとなく部屋を見回す。カーテンとかカーペットとかラックとかベッドとかとにかく全体的に薄い青色で統一された部屋。落ち着いて清潔感のある爽やかで清楚で綺麗でフレッシュな、で、しかもほのかに、何だかわからないけど甘くて清涼感があって簡潔に言うといいにおい、ああそう、言うところのシャンプー的な香りがほんのり、本当にほんのりだけど漂っている。絵に描いたような女の子の部屋。うわ!僕女の子の部屋とか上がるのもしかしてこれ初めてだ! と気づいてますます落ち着かなくなり、少し腰を上げてクッションの位置を手でもぞもぞ直して座る(二回目)。それをもう一度繰り返す(三回目)。

 ここからは見えないけど、キッチンのほうで今、忘崎さんが何やら鼻歌(鼻歌っていうかラララーとか声に出してるのでもはや口歌)を歌いながら、何かしている。鼻歌の合間合間にかちゃかちゃガラス的な音だったり食器的な音だったりが聞こえる。うわ!なにこれ付き合ってるみたい! と思って飛躍的に落ち着かなくなってきて僕は立ち上がり意味なく窓の傍まで歩み寄り、意味なく外の景色を眺めてみたり。ここは六階。結構高い。前の通りを車が何台も何台も。向かいのマンションの一階はファミマ。ファミマの隣りはレンタルビデオ屋。そっかー便利だなあー。そっかー。そっかー。全然落ち着かない。

「ここってさー、あの、家賃って、どのくらいなのー?」

 間を持たせるためだけの質問を見えない忘崎さんに投げかける。

「家賃ー?」

「うんー」

「高いよー」

「あ、そっかあー」

 会話が終わった。

 それにしても、忘崎さんがいない一人の空間でこんなに間が持ってないのに、忘崎さんと二人になったら一体全体僕はどうな「はい、お待たせー」背後から声。思いっきりびくっとしてしまった。恥ずかしい。頭がくらくらする。すうー、と小さく深呼吸して振り返る。

 目の前に、エプロン姿の忘崎さんが立っていた。笑顔で。カレーライスの入ったお皿を両手で持って。

「はい八々坂くん、お昼ごはんだよ」

「新妻かお前は」うわー! お前とか言っちゃった! おい! 脳みそおい!

「はいどうぞ、おかわりもあるからね」

 忘崎さんはなんにも気にしてない様子で、カレーの入った皿を僕に差し出した。戸惑いながら彼女を見る僕。こく、と小さく首を傾げる彼女。「可愛さの魔物かお前は」うわー!「あ、ウーロン茶忘れちゃった、持ってくるねー」ててて、と出ていく忘崎さん。自分の脳と口が本当に信用出来なくなってきた。汗が止まらない。ふわ、と鼻先を掠めるカレーのにおい。いいにおい。うーん。とりあえず、食べよう。あ。

「忘崎さん、あのー、スプーンないんだけど」

「手で食べてー」

「本場か」うわー!


 * * *


 なんにも映ってないテレビを見ながら、無言で、手でカレーを食べている自分。あんまりにも現実味がないけど、それよりも、忘崎さんの部屋で忘崎さんの隣りで忘崎さんの作ったカレーを忘崎さんと一緒に手で食べてるってことのほうが現実味がない。

 ちらっと横を見る。

 忘崎さんは、いわゆるお姉さん座りでぺたんと座り、目の前のなんにも映ってないテレビを見ている。ウーロン茶のペットボトル(二リットルのでかいやつ)を両手で持って、こくこく飲んでいる。カレー食べた手を拭いたりせず直で持ってるからペットボトルはべとべと。ついでに言うとコップとか持ってきてくれてないから、忘崎さんも僕も、ウーロン茶は飲み口に直接口つけて飲んだ。間接キス。いやでもね、大学生ですから、そのぐらいで今さらテンション上がったりドキドキしたり「直接キスしたい」なんかもう、自分の脳と口に対してびっくりしなくなってきた。

「じゃあキスする?」

「あはは」

 と意味なく笑って、少し冷静になって考える。え今誰?『じゃあキスする?』って言ったの誰?

「する?」

 ゆっくり、隣りを見る。

 忘崎さんが僕をじっと見ている。にこにこしながら。

 え?

「それ、え?」

「ん?」

「キス?」

「キス」

「え、いいの?」

「なにが?」

「しても」

「え、うん」

「え、なんで?」

「え、だって」

 忘崎さんが、お姉さん座りのまま、膝を使って歩き、よいしょよいしょと僕に近寄ってくる。体温がわかりそうなぐらい近距離になる。僕を見つめる黒くてまん丸い大きな目。長いまつげ。つるつる柔らかそうなのが嫌でもわかる唇。が、じわっと、開く。

「キスまでなら浮気に入らないからだよ」

「……ん?」

 ちょっと何言ってんのか全然わからない。

「忘崎さん、キスまでなら浮気に入らないからだよって言った?」

「うん、そう言ったよー」

「え、えーっと……じゃあどこからが浮気?」

「それはー、うーん、ちょっと、恥ずかしいから言えないけど、あはは、まあ、そういうことだよねー」

「ああー、なるほど、そっか、なるほど、一線越えちゃったら浮気」

「そうそうそれそれ! ちなみに八々坂くん的にはどこからが浮気?」

「どうでもいいわ」言っちゃった。「そこじゃねえわ」言っちゃった。「浮気ってなんだよ」言っちゃった。「え? 彼氏いるの?」言っちゃった。「え、いるの?」言っちゃった。「いるの?」言っちゃった。

「うん、いるよー?」

 なんでそんな当たり前のこと訊くの?ぐらいの表情で僕を見る忘崎さん。

 三秒ほど停止。

 僕は、何をどうしたらいいのかわからなくなって、意味もなく立ち上がる。忘崎さんが僕を見上げた。上目づかい。可愛い。いやそうじゃなくて。

「えーっと、あの、つかぬ事をお聞きしますが」なぜかへりくだる僕の口。「僕が、授業のあと、言ったこと、覚えてますでしょうか」

「付き合おう、でしょ?」

「そう、それ、です」

「ごめんなさい」

「言うの遅え」


 * * *


 帰る前に、洗面所を借りて手を洗った。洗面台横、洗濯機の上に何やら男物の下着(バカみたいに真っ赤なトランクス)とスーツのズボンが放ってあるのが目に入った。あ、ここもしかして彼氏の部屋か、忘崎さんの部屋じゃなくて、とぼんやり思った。同棲? 家賃も高いみたいだし、彼氏と折半してるのかも。冷蔵庫の中にビール入ってるのも、彼氏のか。なんだか全部繋がって、すっきりしつつ、その二倍ぐらいもやもやした。

「彼氏って、何してる人なのー?」

 部屋でカレー食べてる忘崎さんに、飛ばす必要がない言葉を飛ばす。

「ベンチャーだよー」

 ベンチャーってのは業種じゃないよなあと思いながら、でもなんだか妙に劣等感を覚えた。ベンチャーベンチャー。タオルで手をごっしごし拭く。手を嗅ぐ。全然まだカレーくさい。絶望。

 洗面所を出ると、忘崎さんが立っていた。

「洗った?」

「うん、洗った」

 さっきまで僕の隣りにいた忘崎さんとは、なんだかまるで別人に見えた。

「えっと、じゃあ僕、帰るね、ごちそうさま」

「うん、こちらこそごちそうさま」

 もうその返事、全然意味がわからない。というか思い返せば忘崎さん、ほぼ全部全然意味がわからない。なんでカレーを手で食べるのか。なんで僕を彼氏の家に上げたのか。なんで告白したその場で返事をくれなかったのか。なんでお茶飲むのにコップ持ってこないのか。なんでキスは浮気じゃないのか。「ほんと意味わかんない」言っちゃったけど、もう僕は全然気にしない。

 じーっと、彼女を見る。

 彼女は、ん? と首を傾げながら、じーっと僕を見返す。

 キス、してやろうか、と思った。

 けどやめた。

「それじゃ」

 ふいっと手を振り、靴を履き、鍵を開け、玄関を開ける。夕方のぎらぎらした日差しが、滑り込むように射し込んできた。

「八々坂くん、また来週、心理学入門でねー」

 後ろから声。

 振り返らず、僕は後ろ手で静かに扉を閉めた。

「てか難しすぎるだろ心理」

 まあまあでかい声で言っちゃいながら、僕は歩き出す。

 来週の心理学入門は一言一句逃がさずノートとってやろう。僕はなんだかわくわくした。「してねえよ」ああ、言っちゃった。

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