第3章 「耄にして碌」 第2話 騙されてたとは

 エスの目の前に立っているのは再婚した現在の夫、エフだ。

 すでに銀婚はすぎていたが、ほとんどの時間を争いで過ごした。エフはその時も口角泡を飛ばして、ではないとしても、そんな感じで、まさにエスを罵っていた。

  何をそんなにいかっているのかしら、エスにはすでに彼をいなす術が身に付いているので焦らずゆっくりと思いを巡らせる。何故彼は私の上にいたのだろう、だって確か彼は私の上から転げ落ちたのだもの。ああ、そこは夢にすぎなかったのかしら。


 よく聞いていると、エスがエフを裏切っていると主張している。

 しまった、彼は薬を飲み忘れている。時々忘れるのだが、今日もたまたま忘れたに違いない。緑色のアルミだ、本来は別の症状のための薬だったが(忘れた)、思いもかけず癲癇にも効くことが分かったその薬を、三日も飲まないでいるとエフは極めて懐疑的になる、本来懐疑的なのだがそれが度を超してしまう。 

 最近物忘れが酷いにも関わらず、そんなことを恐ろしい速さでエスは考えていた。

 ひょっとしてエフは私を絞め殺そうとしたのかしら。「私の裏切り」を白状させようとしたのかしら。


 そんな裏切りは決してしていないといっても、否定には耳を貸さず、自分を発狂させる言葉のみを待って、恐れながら待って、強要までして。

 何故なら「人生はいつも自分の予想を超えて残酷だから」なんて、思い込みを正当化しようとして。自虐をめざし、殺人を正当化する? そんな夫なのかもしれない。気づくのが遅すぎるとわかる。

 エスははじめて徐々に先の夢から恐怖の中にめざめ、エフを見詰めた。息子のためにも最悪の事態を招きたくなかった。

 何度こんな事態を回避したことだろう、うっかりエフの罠に嵌ることを避けて。偶然にうまくいったのかもしれなかったが、それなりにその熟練に達しているはずだが、薬を忘れているのなら、もうどうしたらいいのかわからない、エスは身構えた。


 偶然にも、そんなエスは非常に攻撃的に見えたらしい。絶望のあまり恐ろしい眼をしていたらしい。

「なんて眼でおれをにらむんだ、俺を殺そうと思っているのかっ」


 エフはもう一段、逃げられない恐怖の階段を上がってしまった。

 もう始まってしまった。エフが激高してエスにつかみかかろうと、多分したその時、

「なんで俺をいつも苦しめ、、」と言った時、彼の言葉が止まった。発話だけを制御している脳の部分がダウンしたのだ。


 このあと引きつけまでいくか、身体のどこかが勝手に動くか、気を失うか、弱っている心臓が止まるか、そのいずれかが偶然の必然であった。どれもエスには見るに堪え難い症状である。見るだに恐怖、恐怖だった。エスはその予想のために叫び出した。エスのほうが恐ろしく見えたかもしれない。


 エフはヒクヒク、と音を発しながら、両手を下に押すようにして何かを表現しようとしている。エスは恐怖映画の女優よろしく、顔をひきつらせヒステリー症状になっていた。そのせいでエフの心の回路が変化したのだろうか。いつも沈着なエスが我を忘れ、パニックになっているので。

 五分ほどして偶然に桎梏を説かれ、不意にエフは喋り出した。

「そんなに怖がらないでいい」

 そう言った時、エフは別人だった。

「別に息ができないわけでもない、なんでも意識している、喋れないだけだ。さあ、お出で」

 エフは絶えて無いような優しさで、エスを並んで横たわらせた。


「心配しないでいい、薬は飲んだ、そのうち効くからね。発作が起こっても俺の眼を見て、微笑んでいてくれたらいいんだ。安心して」

 それは本当に理性的で器の大きな男の言い方だった。エスは彼女らしいナイーブさで他愛もなく信頼するのだった。その後数回、発作が起きたが、エスは何も言えないエフの腕の中で、視線のみで励まし続けた。本当に微笑みを与え続けた。

 何度目かにまた喋れるようになると、エフはこう説明した。


「頭の中に、無数の兵士が並んでいるんだ。彼らはぞくぞくとやってくる。みな骸骨の顔をしている。とくに岩陰には悪魔がいるんだ。そいつは俺がちょっと注意散漫になると飛び出てくる、俺を占領しようとする。意識を集中してそいつの出現を阻止する。岩陰に押し戻すんだ」 

「ど、どんな風に?」 

「瞑想だ。座禅の呼吸法だ。意識をここから広げていく、日本から、地球から、太陽系から、さらに遠くまで広く大きく、自分の存在を薄めていくんだ、多分できる。とてもいい気分だ。宇宙と一体なんだ」

「そんなことができるの?」 

「もちろんだ、俺は宇宙そのものになる、素晴らしい気分だ、不安なんか無い」 

「ええっ、不安が無くなる?」


 エフがエスを見返す視線には、本当に別の人格が宿っている、この人は今まで私を騙していたんだ、こんな素晴らしい人物なのにどうしてそれを見せてくれなかったのか、とエスは呆れてしまった。

 今こそ、尊敬できる大切な夫となった。エスはしっかりエフの腕にかじりついた、仕合せに包まれた、素晴らしいエフ! 愛する尊敬するエフ!



 翌日までの十時間、ふたりの蜜月であった。

 エスの腕の中で、エフが宇宙規模の大きさになり,同時に心臓が弱って微弱になるのを追っていた。涙が流れて止まなかった。

 二人の視線は優しく絡み合ったままで、エフは事切れた。


 エスは泣き崩れた。こんなことになるとは思いもよらなかった。むしろエフの最後の意地悪のようにすら思えた。悲しみと喪失だけが最後に残された。ひとりで生きていく理由が見つからなかった。

 何もかも息子に任せて(多分それはエフの息子のはずだが)(とすると最初の夢のなかの息子は前夫の子だったのか)(それにしても時の流れと事実はめちゃくちゃな夢だった)ろくに食べないまま臥していた。


 三ヶ月ほども過ぎ、せめて残る日を悔いのないようにという考えが浮かんだ。エスは寝床から立ち上がろうとした。が、真っ暗になった世界にそのままくずおれた。



「ママ、ママ」と若い女の軽やかな声がした。誰の声だっけ?

「はあい、どなた?」 

「あらやだ、みずきですよぉ。眠ってらしたの」

(あ、ミツルの妻だっけ。よかったこと) エス(だと思われるのだが)は元気に立ち上がった。


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