第3章 「耄にして碌」 第1話 何かの因果
三十二度の空気の中にいる。より低温の風が時にすっと海から、つまり西側から吹き込む。まだらになった気温ではあっても、四肢のあちこちがすっとした涼感を感じてエスの気持もすっとする。
数時間前、急に気圧に重たく押し付けられ始めた。眠気がさしても、畳に横になるという考えさえ浮かばずに、無為な時間をすごしてしまった。
微かに猫の声が聞こえた。
カーテンを少し動かすと、案の定数日前の夜、道で出逢った若いメス猫がすぐに門から顔を出し、かがやく金色の眼をこちらに向けていた。あきらかに「来ていい? なにかくれる?」と尋ねている。あの時、エスがこの猫にチッチッと舌をならして誘ったのを覚えていたのだ。
しかし、ムダに年の功をつんではいないよ、とエスは心の中で言い、無視することに決定した。その無視が功を奏し、翌日までエスは可も不可も無い日常生活を送った。
そのまた翌日には、梅雨颱風五号のおよぼす突風が剥げかかった雨戸につかみかかった。圧力で小さな貸家が身震いするのを感じると、エスは恐怖とそれよりもやや多い期待をもって偶然がまた自分にぶつかるのを予想する。
それにしても、と、エスの頭の中はゆっくり動く、しかし今はいつで、ここはほんとうにここなのか、なんだか定かではない。
エスの夫が思いがけず急死したあと独り住まいのためのこの家を、とりあえず安いので借りた。そのうち息子の近くのホームに入るまでの仮住まいとして。
一時間三本というバス通りに近いので小回りは利く。
水田や草原や畑、住宅やアパート、小さな工場などが雑多にある小径に入って数分すると、よく手入れされた広い菜園がある。それに面した平屋がエスの家である。
菜園を主宰しているらしい坊主頭の男は鈴木氏であり、妻一人。東側住人は、伸びるがままの長髪を洗ったことの無いらしい老人、東田氏、三世代ファミリーのモダンな外見の家だ。
北川氏は裏の住人であり、妻一人、優しそうな自信無さ気な顔なのだがメガネをかけるや、不思議に厳しい視線となる。道路を隔てた西山氏も妻一人、このひとは妻が賑やかな分であろうか、実に低姿勢である。
優しいのか厳しいの分からない北川氏の、色白の妻はいるのかいないのかわからないが、ともかく綺麗好きな夫婦らしい。いや、すべての住民は綺麗好きで真面目で同年齢で暇な退職者であった。何らかの問題は抱えているのだろうが、エスの見る限り、平成の平安を享受していた。
エスは色白でおっとりした雰囲気だ。それ以外は体形も白髪の具合も古稀然としていた。ただ年月の垢のようなものがなく、どこか頼りなさそうな引っ込み思案さがみてとれた。偶然にもこの界隈では夫属は皆、畑仕事以外は飲むでも無く遊ぶでもなく、家周りを繕う事で退屈を紛らわしているらしく思われた。妻属は仕事,シニアスポーツ、病院巡りなどに時を費やしていた。
偶然の状況が整い,偶然にエスの手と北川氏の手が重なった。
引っこ抜いたばかりの大根の重たいのをエスに呉れようとした時だ。エスは人の良さからにこっと笑ってごまかし、北川氏は途端に必然を感じた。
坊主頭の鈴木氏は、エスよりも若いのにも関わらず、目下のもののようにエスを扱った。地域のゴミ出しの方法を教え、引越のゴミを黙って出してくれ、どんなことでもオレラで相談に乗るから、な、と大声で言うのだった。
東の東田氏は、最初の印象ではエスを怖れさせたものだが,思い切って挨拶を交わすと、実に爽やかな声と歯切れの良さ、人格の良さが伝わって来た。エスは驚いた。学歴もあるようだった。おまけに出身が同じ関西であった。東田氏も、どうせボクは暇なんだから,境の草はついでに取って上げますよ、と丁寧語で言う。
西山氏とはもっとも話す機会が多くなった。エスの庭がそちらに向いているので、顔を合わせ易かった。しかも西山氏は実に気のいい人柄の、エスよりも小柄な人物だった。屈託なく話すことができた。
こんな夫たちと、また北川氏の妻以外の他の妻たちともエスはいい距離を保って近所付き合いというには僅かだが、地域の寡婦として暮らした。
夏が過ぎた頃、北川氏の姿が見えなくなった。畑仕事は妻だけでしている。エスはやっと彼女と挨拶をしたが、敬遠されているのが感じられた。姿は見えないが自宅療養中という感じがあった。卒中か癌か、エスはふと北川氏の目を思い出そうとして果たせず感じだけを思い出した。氏の服の趣味がとてもいいと自分が思っていたのを思い出した。それ以外に、エスの私生活が北川氏のほうからは水回りすべて感じ取れる、ということも。
何が起こるわけじゃなし、細君ががっちり彼を護っているわけだし。エスは少し気にしていた。ただそれだけのことだ。
それから急に情勢が進展した。北川氏はやはり閉じ込められていて、精神的虐待を妻から受けていたのだが、ついに彼女を傷つけて脱出を図ったのだという。救急車がきたのは知っていたが、エスはずっとあとになって事情を聞いた。
鈴木氏が西山氏を殴ったのは間もなくだった。ちょっとした言葉の行き違いからかっとなりやすい鈴木氏が激高し、只でさえ弱い西山氏をかなり傷つけたそうだ。
夫婦喧嘩の続いていた東側では、東田氏が妻から追い出され施設に入った。
エスは、こんなことになってゆくのをあれよあれよ、と眺めていたが、心のうちでは、自らの存在が発端となって徐々に男たちを突き動かし、家庭がなにかしら壊れていったのではないかと、感じていた。大した理由はなくここに転居を決めたこと、北川氏の手に触れたことも偶然であったのに重大な変化を招いたかのように。
そして、夜になると、雨戸がコツコツと叩かれる音がするような気がした。誰かわかるはずもない。雨戸の外に誰かの息づかいが聞こえるような気がした。夫がいない心細さが彼女の首をしめていくような気がした。
その夜も、だれかのノックを、だれかが肩に触れ、揺するのを目をしっかり瞑って拒否していた。苦しくなった。これも幻なのだと。
しかし、苦しさのあまり、力一杯体を揺すった。何かがエスの上から転げ落ちた。声を聞くと死んだ筈の夫エフだった。立ち上がった夫の口が動いていたが、言葉が、外国語でもあるかのように、理解できなかった。
が、あっとわかった。死んだのはエスの前の夫だった。いや、実はまだ生きているが、さっきまで亡夫と自分がみなしていたのはエスの脳内では、その前夫であったことがわかった。とすればすべてが夢であったのは確かだ。とんでもない時間の錯誤、猥雑でいい加減な夢であった。
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