あたしは満月
Gabriel Moli
あたしは満月
二〇〇〇年の八月、二つの月が生まれた。
午前〇時を少し回った頃、ひとりの妊婦が激しい陣痛で目を覚ました。予定日はまだ先のはずだったし、シングルマザーの彼女は面倒な近所付き合いを避けてきたこともあり、周囲に頼れる人はいなかった。
動揺した彼女は能面のような素顔に眉毛も描かず、パジャマの上に薄手のサマーニット一枚羽織って部屋を飛び出し、アパートから一番近い道を最初に通ったタクシーを止めた。
その個人タクシーの運転手は、妊婦の家と同じ町内にあるクリーニング屋の飲んだくれ親父を家まで送ったあとだった。ひどく酒臭い吐息と世間への呪詛をまき散らす親父の相手で疲れ果てた運転手は、三ヶ月前から二世帯になったばかりの家に帰って五ヶ月前に生まれた初孫の寝顔をたまらなく見たくなり、予定よりも早く仕事を切り上げた。
表示器は「回送」になっていたけれど、切羽詰まった妊婦は車道に出てタクシーを止め、運転手はもはや歩く事すらままならない彼女を引っぱり上げて最寄りの救急病院まで送り届けた。あとで聞いた話によれば、運転手が車を止めたのは優しさなんかじゃなく、深夜の住宅街に突然現れた能面の女に戦慄して反射的にブレーキを踏んでしまったそうだ。
病院に辿り着き、妊婦は無事に一卵性双生児を出産した。あと三〇分遅れていれば、流産していた可能性もあったそうだ。
もし彼女が化粧をして家を出ていたら。もし運転手に孫がいなければ。もしクリーニング屋の親父が別のタクシーに乗っていたら。ひとつ欠けても悲劇になっていた晩を越え、その妊婦──
母は痛みに朦朧とする頭で、生まれてくる子の名前をぼんやり考えた。そこでふと、タクシーの車窓から夜空に浮かぶ満月が見えた。それで、先に生まれた姉を満月、その一分後に生まれたあたしを三日月と名付けた。ずいぶんとひどい話だ。満ち足りた姉、生まれつき欠けたあたし。
わずか一分の誤差は、二人の運命を大きく分けた。
顔、スタイル、声まで全く同じなのに、あたしと満月はまるで正反対に育った。
満月が名門公立高校へ入学を決めた頃、あたしはその高校を落ちて二ランクほど下の学校へ進んだ。
満月が気まぐれで受けた映画のオーディションに合格して女優デビューに成功した頃、あたしは映画館の採用面接に落ちてバイトデビューにすら失敗した。
満月が雑誌のカバーになった頃、あたしはバイト先のドラッグストアで急にバックれた同僚のカバーを押し付けられていた。
不完全な三日月と完全無欠の満月。その名の通り明暗がくっきりと分かれた姉妹の共通点は、今や単に姿形が同じということだけだった。
それでも、あたしが嫉妬心や劣等感を持つことはなかった。満月がひとつの成功の裏で恐ろしいほどの努力を重ねていたことを知っていたし、美しくエネルギーに満ち、才能と責任感に溢れた彼女のことをあたしは心から尊敬していたから。
でも、仲がいいだけに辛いこともあった。
一七の時、初めて好きな人ができた。
それはある雨の日の朝、一五分遅れて起きてしまい、普段より何本か遅いバスを停留所で待っていた。片側一車線の狭い道路を挟んで向かい側にもバス停があり、そこから満月は毎日学校に通っている。まるであたしたちの人生のように、行き先が互い違いのバスだ。
向かいのバス停に並ぶ列の最後尾に、その人がいた。ずいぶんあとになって、あたしは彼の名前を知った。彼は満月と同じ高校の制服で、いつもカバー付きの文庫本に目を落としていた。一目惚れだった。特に二枚目というわけでもないし、彼の何に惹かれたのか自分でも説明できない。けれどあたしは確かに、彼の背後にぼんやり広がる宇宙へ、瞬く間に魅了されていた。
それからは毎日、わざと一五分遅れて停留所に行くようになった。いつも遠くから眺めるだけだったけれど、ちょっと髪型が変わったり、スニーカーが新しくなったり、季節の変わり目には鼻炎気味になったり、そんな些細な変化を見られるだけで、彼の生活を感じることができた。それ以上を望まなかったと言うと嘘になるけど、彼がいるだけで心は舞い上がっていた。
それから数ヶ月後、満月に恋人ができた。それまでも子どもの遊びみたいな付き合いはあったみたいだけど、満月がはっきり恋人と呼んだのはそれが初めてだった。
すぐに満月はあたしに恋人を紹介した。それは、あたしが毎朝停留所で見ていたあの人だった。その時初めて、あたしは彼の名前を知った。
満月に罪はない。彼女はあたしが彼を好きなことを知らなかったのだから。
でも、彼の恋人はあたしと瓜二つの人間だ。わずかでも掛け違えば、彼の隣にいたのは自分だったかもしれないという勝手な妄執に折り合いがつけられず、それとなく満月と距離を置くようになった。
高校を卒業すると、満月は芸能活動に本腰を入れるため一人暮らしを始めた。地元の大学に進んだあたしとの関係はなおさら疎遠になり、長い間連絡すら取らない日々が続いた。
とはいえ、満月の姿を目にしない日はなかった。映画やドラマの宣伝、企業広告、雑誌、SNS。もはや日本にいる限り満月を無視することは不可能な状態になっていた。
満月の放つ輝きは、同時にあたしへ影を落とした。あたしはどこにいても「伊万里川満月の妹」として扱われ、歩いているだけで見知らぬ人から声をかけられることは日常茶飯事になっていた。伊万里川という珍しい苗字の上、姿形も瓜二つではごまかすのも難しい。そこであたしは、わざと自分を満月からかけ離れた姿へと演出した。
髪型を変え、服装を変え、喋り方や歩き方まで姉と正反対に作り上げた。すぐに効果は現れ、満月の模造品として扱われることはなくなった。ある意味では、あたしもこの時点から女優だったのだといえる。
二〇歳を迎える夏を前に、母が亡くなった。
久々に帰ってきた満月はひどく疲れた様子で、しばらく休暇を取ったと言い、母の法要が落ち着いてからも実家に残った。間もなく、新型感染症による緊急事態宣言が発令され、大学も休止、外出もできない状況になった。数奇なことに、その時間は満月と深く話し合うきっかけになった。お互い別々の時間を過ごしたおかげで、以前は踏み込めなかった話ができるようになっていた。
満月は芸能界に疲れていた。事務所の求めるイメージを体現する人形のような生活は、彼女の奔放な精神に大きなストレスを与え、育ててくれた会社への恩義から仕事を辞められずにいる彼女はもはやパンク寸前だった。
あたしは満月を慰めたい一心で、深夜のドライブへ誘った。彼女にはあらゆる面で先を越されていたけれど、運転免許だけは唯一あたしにあって満月にないものだった。
当てもなく車を走らせ、街の灯りも見えなくなった田舎の渓谷に辿り着いた。
片側一車線で中央分離帯もない狭く細い山道は街灯ひとつなく真っ暗だったけれど、こんな時間に他の車が通るとは考えていなかったし、あたしたちは音楽をかけてヤケクソ気味にはしゃいでいた。
急カーブに差し掛かると、対向車線から大型トラックが突如現れた。トラックは中央線を大きくはみ出して曲がり、あたしは咄嗟にハンドルを左へ切った。
ガードレールの向こうはすぐ崖で、数十メートル下は渓流だ。速度を落としきれず車はガードレールを突き破り、そのまま真っ逆さまに転落した。落ちている間は、まるでスローモーションだった。最後に見た満月の顔に恐怖はなく、ただ「ミカちゃん」と呟いていた。
気がつくとあたしは病院のベッドにいて、体中を固定されていた。
医師によれば、あたしは五日間ほど眠っていて、全身七カ所の骨折と複数の打撲があるが、一ヶ月程度で完治し、傷跡も残らないという。それから、医師は一番大事なことを言った。
同乗者の方はお亡くなりになりました、と。
死んだ。どんなことも乗り越えてきた彼女が、あっけなく夜の向こうに消えてしまった。悲しさよりも憤りが先にやってきた。なぜ満月ではなく、あたしが生きているんだろうか。
医師はあたしの憔悴を悟り、さらに慎重な様子で話を続けた。
あなたはどちらなのですか。
あたしは自分の耳を疑った。何の話だかわからなくて、きちんとした説明を求めた。
医師によれば、発見時所持品は水中にバラまかれ、見つかった身分証から身元は特定できたものの、容姿や血液型も同一のためどちらが満月でどちらが三日月なのか判別できていないというのだ。
医師に名前を伝えようとした瞬間、ある考えがよぎった。
溢れる輝きで多くの人に希望を与える満月と、不完全で役不足な三日月。本当に生き続けるべきなのは、どちらなのか。
わずかな逡巡ののち、ふっと迷いが消えた。
そしてあたしは、幾度となく口にしてきたその名を、生まれて初めて自分の名として声に出した。
完全無欠の満月を生かし続ける。それは、あたしにしかできないことだ。
髪型を変え、服装を変え、歩き方や喋り方まで満月に瓜二つに作り上げた。記憶障害を装って知らないことへの辻褄も合わせた。所属事務所のマネージャーを騙せた時、あたしは計画の成功を確信した。
基礎から演技を学び、一年足らずで芸能界へ復帰すると、それからの何年かはあっという間だった。
着実に女優のキャリアを積み上げていく中、心には満月を応援する三日月がいた。
あたしはやっと理解した。満月は完全なんかじゃなかった。光を放つ彼女と、影を生きる彼女。その表裏が揃ってこそ、月は完全無欠になるのだ。そのことに気づけないままあたしは満月を遠ざけ、彼女を孤独にしてしまったのだ。
今では両方があたしの中にある。二人の生まれた一分の差は、もう消えた。
あたしは満月。
あたしたちはひとつになって生きていく。
あたしは満月 Gabriel Moli @NERDYARD
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