第4話 その男には独りになりたい時がある

「ただいまー」

「あら、お帰りなさい。今日は寄り道しなかったのね」

「まぁね。俺、しばらく二階の部屋にいるからさ、飯ができたら呼んで」

「はいはい、ゆっくりしてなさい」


 学校の裏庭で謎の少女にタバコを見られてから数時間後、俺は放課後になるとすぐに下校して、寄り道もせずに家に帰っていた。


 授業中にスマホで先輩たちとやり取りした結果、相手の出方が分からない以上、今日の件ですぐに目立って動くのはまずいという話になった。そこで、皆で集まっての話し合いは一旦保留にして、何かあればスマホで連絡を取り合うということで話がついた。

 だから、当然のように部活などしていない俺がすぐに家に帰るのは、ごく自然な流れだった。


 先程の、母とのやり取りもそこそこに、俺は二階への階段に足をかける。目的地は二階の廊下を左に曲がった、北の突き当たりに位置する部屋だ。最高か、あるいは最低か。気分がどちらかにガクンと振れたとき、俺は必ずと言っていいほどその部屋へと向かう。もちろん今日の気分は前者だ。


部屋の前に立った俺は、ストレートタイプのドアノブを回す。一般住宅には不釣り合いな重さのドアをゆっくり開くと見慣れたいつもの光景が目に飛び込んでくる。


 広さ10畳ほどのその部屋でまず目を引くのは壁一面の収納に入れられた大量のCDだ。ポップス、ロック、レゲエ、クラシック、ジャズ、メタル、古今東西の様々な国の曲が納められたそれらが、ところ狭しと収納に並んでいる。

 壁の収納はスライドで動くようになっているので、実際は目に入る以上のCDがこの部屋に存在していた。


 そして当然、CDがあるならそれを聴くための設備も存在する。部屋の角には四基のタワー型サラウンドスピーカーが鎮座していて、スピーカーから伸びるケーブルは部屋の中央のデスクに置かれたオーディオとノートパソコンへと繋がっている。

 更に、部屋の天井にはプロジェクターと巻き上げ式のスクリーンまで付いていて、MVなどの動画も見られるようになっていた。


 この音楽の要塞とでも形容すべきオーディオルームこそが、俺にとって最高の癒しの空間だった。


 部屋に入るとすぐ、俺は収納から今流行りのバンドのCDを1枚抜き取る。最近公開された映画とタイアップしたキャッチーなナンバーが入ったやつだ。


 普段の俺は、J-POPは女の子とカラオケで合コンする前の予習以外では滅多に聴かない。でも、今日みたいに最高にむしゃくしゃした気分の時は、無理矢理にでもテンションが上がる曲をかけて少しでもハッピーな気分になりたかった。


 オーディオの電源を入れてCDを差し込むと、デスク前に置かれた肘掛け椅子に体を沈めて目をつぶる。防音壁独特の作られた静寂が流れる部屋にCDを読み込む微かな音が数秒響き、その後すぐに四隅のスピーカーから甘ったるいギターと柔らかなドラムとベースの音で構成されたイントロが大音量で流れ始める。


 この静寂と喧騒が切り替わる瞬間はいつもながら最高に心地がいい。『鏡の国のアリス』のように、自分がストンと音楽の世界に落ち込んで行くような没入感がそこにはある。


 同じフレーズが数回繰り返された後に、ドラムのフィルイン。曲にアクセントが与えられAメロが始まる。スピーカーからボーカルの声が響く。


「~♪」


 そのボーカルとハモるように俺は声を重ねる。音程がぴったりと噛み合い、スピーカーと俺の喉から生まれる音が、コーヒーとそこに垂らしたミルクのように混ざり合う。二つの音は溶け合って、そこには分かたれることのない完全な調和が生まれた。


 この歌声こそが、他人に誇れるものがほとんどない俺が、ただ一つだけ持っているささやかな特技だった。


 幼い頃から親父の弾くギターや歌声をずっと聞いてきて、それに合わせて一緒に歌ってきた俺は、いつの間にか聴覚と歌唱力が磨き抜かれていたらしい。

 オペラのような特殊な曲でなければ一度曲を聞けば大抵の曲は一発で音が取れるし、女声のようなキーの高い曲も10回も練習すれば喉がもつ限り大概は歌える。


 親父は一度聞いた曲を耳コピしてすぐにギターで弾くという才能を持っていたので、その辺りの音楽の才能が息子の俺にも遺伝したのかもしれない。


 実は、今いるこのオーディオルームも親父が家を建てるときに肝いりで設けた部屋だったりする。

 昔はこの部屋で、親父にせがんでアニメの主題歌なんかを耳コピで弾いてもらって、妹と一緒によく歌ったものだ。

 俺たちが頼むと「今忙しいんだけどなー」なんて言いながら、すぐにギターを抱えてくれる親父のことが俺は大好きだった。本当に自慢の親父だった。


 しかし、そんな親父も今はもういない。


 俺が大好きだった親父は、俺たち家族を残してたった一人で天国への階段を登っていったのだ。



◇◇◇



 俺の親父は、家ではカッコいいギタリストだったが、会社ではしがないプログラマーの一人だった。


 中々うだつが上がらなかった親父に転機が訪れたのは俺が中一の頃だった。会社で新規のプロジェクトが立ち上がり、親父はそこのチーフを任されたのだ。

 そして、親父の進退を賭けたプロジェクトは大成功の内に軌道に乗った。そしてこの成功が親父の人生の栄光と、その後に待ち受ける転落を決める重大な契機となったのだ。


 成功したそのプロジェクトは瞬く間に会社の新しい柱となるようなコンテンツにまで成長した。気をよくした上層部は親父に更に複数のプロジェクトを任せて、そこのチーフに据えた。

 このときの親父は本当に際立ってその才覚を発揮していたといっていい。任されたプロジェクトはどれも大なり小なりの成功を収め、その仕事は日を追うごとに増えていった。


 それでも親父はプロジェクトを成功させた。いや、成功させ過ぎてしまった。それこそ、自分のキャパシティを振り切ってしまうほどに。


 親父が会社で倒れて死んだと聞いたのは、俺が中三の夏休みに入る直前のことだった。


 受け持ったプロジェクトの最終チェックで残業続きだった親父は、死ぬ日の夜もたった一人オフィスに残って、部下から上がってきたプログラムがちゃんと走っているかどうかチェックをしていた。

 度重なる残業は親父の体を確実に蝕んでいた。突如として卒中を起こした親父は誰もいないオフィスで昏倒、巡回してきた警備員が発見した頃には既に手遅れだったらしい。


 死後に分かったことだが、親父が死ぬまでの直近3カ月の残業時間は月120時間を超えていた。それ以前も100時間前後の残業をずっと続けていたことも明かになった。

 会社の用意したタイムカードが早い時間で切られていたので生前は誰にも気づかれなかったのだが、マメな親父がスマホのカレンダーに毎日の出退勤時刻と業務内容を残してあったことが事実の発覚に繋がった。


 事態を重く見た会社の経営陣は、俺たち家族に口止め料も含めて信じられない額の慰謝料を払った。子どもの俺は詳しく聞かなかったが、ある日ぽろりと母が溢した言葉から推測するに、中堅サラリーマンの生涯賃金などが比にならない額を包んできたらしかった。


 しかし、どれだけ大金を積まれても大好きだった親父は二度と帰ってこない。


 親父が死んだあの日からずっと、俺の胸にはぽっかりと大きな穴が開いたままだ。


 歌を歌うとどうしても親父のことを思い出してしまう。それは自ら進んで触れたくはない悲しい思い出だ。歌は俺の心の穴にいつも響く。


 それでも、俺は歌うことを止めない。


 歌自体には何の罪もないし、考えようによっては、歌い続ける限り俺は大好きだった親父のことを忘れることはない。悲しい思い出とともに、楽しかった頃の思い出まで捨ててしまうのは親父に対してあまりにも不義理だ。


 しかし、折角親父がくれた歌声も、今ではすっかり合コンで女の子に聞かせるための道具と化してしまった。それもこれも、全部自分の芯がない不甲斐ない俺が招いた結果だ。


「っ、………~♪」


 気分が沈んでいると嫌な考えばかりが頭に浮かぶ。

 それをかき消すように俺は喉が潰れんばかりに歌声のボリュームを上げた。



◇◇◇



 それから数曲歌ったところで、スピーカーの音が途切れる。どうやら最後の曲まで歌い終わってしまったらしい。


 歌い終わった余韻に浸っていたその時、気密防音のオーディオルームにはあり得ない空気の流れを肌に感じて俺は目を開けた。

 部屋の入り口を見ると扉が開いていて、そこには現在中三の妹、朽木くつきなぎさがぼーっとした表情でこちらを見ながら立っていた。


「何か用か?」


 俺が声をかけると妹ははっと我に帰る。


「あっ……、もうすぐご飯だって、お母さんが」

「ああ、言いに来てくれたのか。悪い、すぐ行く」


 俺は椅子から立ち上がり、オーディオからCDを取り出して電源を落とす。ケースに戻したCDを元の場所に戻そうとしたとき、妹が話しかけてきた。


「ねぇ、お兄ちゃん」

「なんだまだいたのか、片付けがあるから先に降りていていいぞ」


 部屋の片付けが残っていたので俺は先に降りるように促したが、妹はそれを無視して入り口に居座っている。「まだ他に何かあるのか?」と俺が口を開くその前に、妹の口が先に開いた。


「……お兄ちゃんさ、あんまり家では歌わないで欲しい」


 妹から唐突に切り出された歌の禁止令。


 思わず俺は「どうして?」と聞き返していた。


 妹は決まり悪そうに、視線を左斜め下に落とす。これは面と向かって言いにくいことがある時によくする彼女の癖だ。

 だから、俺は妹の気持ちの整理がつくまで黙って次の言葉を待ってやる。こうなったときの俺たち兄妹のお決まりのパターンだ。


 妹はそれからしばらくもじもじとしていたが、意を決したような表情になって視線を俺に向けた。


「お兄ちゃんさ、自分では気づいてないかもしれないけどさ、お兄ちゃんの歌声、どんどんお父さんに似てきてるよ」

「えっ」


 俺が思わず手で口元を押さえると、それを見た妹は悲しそうな表情をした。


「お兄ちゃんの歌声聞いてると、色々思い出して悲しくなるから……ごめんね、勝手なこと言って」

「…………」


 親父が死んだとき、二つ下の妹は中一になったところだった。まだ小さな妹が、その死を未だに引きずってしまうのは仕方のないことだ。


 かく言う俺だってまだ親父の死から立ち直っていない。親父は本当に偉大な男だった。


 俺は悲しそうな表情をしている妹の頭を少し乱暴に撫でる。中学生になってからは子どもっぽいから止めてと嫌がられていた行為だったが、今の妹は何も言わずにただ黙って撫でられるに任せている。


「気が利かない兄貴でごめんな。なるべく渚のいるところでは歌わないよ。でも、歌うのを止めて親父のこと全部忘れてしまいそうになるのは嫌だから、たまには一人で歌わせてくれよ、な?」


 俺と親父を繋ぐ一番のものはなんといっても歌だった。

 もし、俺が歌わなくなったら俺の中の親父が本当に消えて無くなってしまう。親父が死んでからというもの、そんな考えがずっと俺に付きまとった。


 だから俺は親父のことを忘れないように歌い続けなければならない。俺自身のために、そして妹のためにも。


「……うん、いいよ。じゃあ私、先に降りてるね」


 そんな想いが込められた俺の言葉に小さく頷くと、妹は階段を降りて食堂へ向かった。

 その背中を見送りながら、俺は小さくため息を吐く。


 妹につらい思いをさせて、本当にダメなやつだな俺って。


 親父が死んだときの妹の落ち込みようは俺の比ではなかった。死んでからしばらくは部屋に籠ってずっと泣いていたし、部屋から出られるようになってからもふとしたきっかけで親父のことを思い出して突然泣き出すことが度々あった。

 だから、母は家の中にあった親父の物は、この部屋にあるもの以外全て処分してしまった。少しでも妹が親父を思い出すきっかけが無くなるように。


 本当はこの部屋の物も全て処分する予定だったが、俺がそれに反対した。将来妹がちゃんと立ち直った後に、親父との思い出が全て無くなっていたら悲しいからと言ったら母も納得してくれた。


 でも、俺のその言葉は、多分妹のためではなくて自分自身のために言ったのだろう。あの時親父の全てを失ってしまえば今度は俺が立ち直れなくなりそうだったから。


 やっぱり俺ってダメなやつだな。


 自己嫌悪に陥りながらも、何とか部屋を片付けると俺も食堂に向かうために部屋を後にする。

 電気を消して扉を閉める前にもう一度部屋を見回したときに、俺はふとあることを思い出した。


「……そういえば、親父のギターってどこにいったんだっけ?」


 俺は母に頼んで、音楽がらみの親父の物は全部この部屋にしまってもらうことにした。そこには当然、親父が愛用していたモーリスのアコースティックギターも混ざっていたのだが、現在この部屋にはそれがない。


 俺が高校生になったらこいつで本格的にギターを教えてやるよと口癖のように言っていた親父との約束は結局果たされることはなかった。


「…………まぁ、いいか」


 ここに無いもののことを考えても仕方がないので、特に探したりすることもなく俺は扉を閉めた。


 もしかしたら、ギターは母が処分してしまったのかもしれない。

 あのギターはここに残しておくには、親父との思い出があまりにも大きすぎたのかもしれない。

 万が一、あれが昔の妹の目に触れたとしたら、彼女が泣き出さないとも限らなかったから妥当な判断だろう。


「それにしても、今まで忘れてたギターのことを思い出すなんて、それもこれもみんなあいつのせいだな……」


 俺は裏庭で出会った名も知らぬギター少女にぼやきながら、釈然としない思いで階段を降りていった。

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