イマ喪ヒト我シン出位流

 今この文章を書いている間にも世界中どこかでは、人が死んでいるけれど、そのことによって自分の明日が変わるということはなく、今日と同じような一日を過ごすことになると思う。それがなんだって話のような気もする、当たり前だろと言われたら、うんそうだねと答えるしかないほどに、当たり前のことではある。けれど自分はそれが奇妙というか、不思議というか、なんとなくではあるけれど怖く感じることがある。人一人の命は重いなんてことを言っている作品を沢山観てきたけれど、実はそうでもないんじゃないのか、実は人一人の命なんて大したものじゃなくて、別に亡くなったとしても困るものじゃあないのではないか、本当はそこまで重くないものではあるけれど、それを大量に集めたら重くなるのではないのか、だからなのか現実でも大きなニュースになるのは大量に人が死んだ時だけだ。人一人が死んだとしても精々朝のニュースでちょろっと流れるだけで、連日連夜報道されたりはしない。それも当たり前だろと人は言うのだろうか、そりゃ沢山死んだ場合は連日報道するだろと言うのだろうか、なんかそれって怖く思えてしまう。皆命は平等だとか言っているけれど、ならせめて自分が住んでいる国での死者ぐらい贔屓しないで扱えよと思ってしまう。結局総理大臣が死んだら大きな報道にはなるし、普通のサラリーマン一人が死んだとしても大きな報道にはならない、そういう格差はある。ならその格差ってなんだろうって考えると、偉さなのかなとも思うけれど、どうなんだろうか。よくわからない。

 毎回ごちゃごちゃになってしまうけれど、まぁ勢いで書いてるから当たり前ではある。で何が結局言いたいかと言うと、人間って死んだとしても大して世の中に影響与えないよねっていう至極当たり前のことなのかな? どうなのかな。まぁそういうことでいいや、だからなるべくでも死んだ時、世の中に影響を与えたいなって思ったりもする。これは個人差ありそうだけど、少なくとも自分はそう思う。だって、影響が少ないよりは多い方が楽しいし、なんか面白くない? 自分が死んだ後の世の中が今よりも良くなるのならそれが一番良い死に方ではあるよね。

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