第5話
「検察官の佐藤からお聞きします。被告人は、さきほど被害者の安田さんにから暴行を受けていたとおっしゃいましたよね」
「はい」
「それについて、何の恨みもなかったんですか」
「はい、自分のせいで彼が怒っているのだと思っていましたので」
「それでも、いくらなんでもやりすぎなんじゃないかと思わなかったんですか」
「そう思うときもありました」
「被告人は、安田一郎さんから暴行を受けたとき、病院や警察に連絡することはありましたか」
「いえ、していません。自分の居場所はこの家しかないし、彼に世話をしてもらうしかないのに、それで彼がいなくなったら困るので」
「被告人は、安田一郎さんからの暴行を甘んじて受けるしかなかったわけですよね」
「はい、そうですね」
「抵抗はできなかったんですか」
「はい、私には力がありませんでしたので」
「そんな状況、つまり逃げ場もない、暴力を一方的に受けるしかない、さきほどの被告人の話によると、頭を机にぶつけられる、そんなことをされていても、何の恨みもなかったんですか」
「はい」
「あなたは、警察や検察官から取調べを受けていますね」
「はい」
「そのときは、何と供述しましたか」
「私は、安田一郎から毎日激しい暴行を受けていて、そのたびに私の彼に対する恨みはどんどん大きくなっていき、暴行から解放された後、何度も彼を殺してやりたいと思っていました。そうして遂に、台所の包丁を使って彼を殺そうと思うようになり、事件当日、意を決して実行しました、というようなことを言ったと思います」
「それは、先ほどの、恨みはなかったとの話と矛盾しませんか」
「はい、ただ、よくよく思い出してみたら、違いました」
「なぜ違うことを言ったのでしょうか」
「当時は彼から暴行を受けていたことばかりを思い出しており、そのせいで、自分も暴行を受けたために、恨みが募っていたと思ってしまったのだと思います」
「では、なぜ新しい事情を思い出したのですか」
「弁護士の先生と話していて、彼からお世話になったことを思い出したからです」
「お世話になったことを思い出しただけで、殺そうと思っていてその方法まで考えてから実行したという話から、とっさに刺してしまったというところまで変わってしまうわけですか」
「そういうことになります」
「ところで、あなたは、事件直前、どのようにして生活していたのですか」
「基本的には、自分の部屋にずっと籠っていました」
「部屋の外に出ることもあったということですか」
「はい、いつも便をもらしているわけではなくて、トイレですることもありましたから。それにお腹がすいて、キッチンまでお菓子か何かを探しに行くこともよくありました。でも彼に見つかって殴られたりしました。」
「ご飯はどこで食べるのですか」
「彼が私の部屋の前まで運んでくれます」
「どうやって渡されるのですか」
「部屋の前にご飯が置いてあります」
「それはどのようによそわれているのですか」
「鉄でできた、少し底が深くて、ソフトボールくらいの大きさの器に詰め込まれています」
「そのご飯は、どのような状態でしたか」
「ちょっと酸っぱくて、ハエがたかっていたので、腐っているものだったかもしれません」
「それをあなたはどのようにして食べるのですか」
「手ですくうか、口をそのまま器に入れて食べます」
「スプーンや箸はないのですか」
「ありません。『お前に使わせると汚くなる』とかで……」
「そうやって、安田一郎さんに言われていたのですね」
「はい」
「部屋に籠っていた理由はありますか」
「出ると、怒られ、殴られるかもしれなくて、怖かったからです」
「あなたは、そういうふうに安田一郎さんを恐れていたにもかかわらず、事件当日、夕飯をのぞきに行ったんですか」
「……はい」
「ちなみに、そのとき安田一郎さんが、何の夕飯を作っていたか分かりますか」
「インスタントラーメンだったと思います」
「インスタントラーメンを作るのに、安田一郎さんは包丁を使っていたのですか」
「袋麺のものを作っていたと思うので、ネギか何かを切っていたのではないでしょうか」
「あなたは、包丁が落ちる音は聞かなかったんですか」
「聞きませんでした。殴られていて、分からなかったんだと思います」
「あなたは、殴られて頭がぼうっとしていたんですよね。立ち上がることはできたんですか」
「はい、机につかまって立ち上がりました」
「被告人が安田一郎さんを刺したときのことですけれど、被告人は、そのとき、どうやって包丁を持っていましたか」
「覚えていません。……こうかな」
「あなたは、今、右手で、親指が包丁の刃の部分と同じ側になるような持ち方をしていますね」
「はい」
「あなたの利き手はどちらですか」
「利き手……? 分かりません」
「よく使う方の手はどちらですか」
「右です」
「被告人は、安田一郎さんを何回突き刺しましたか」
「覚えていませんが、何回も、たくさん刺したと思います」
「なぜたくさん刺したのですか」
「彼がまた襲ってくるのではないかと怖かったからです」
「一度突き刺して、そしたら身体から血がたくさん出てきたんですよね。そしたら一回で十分だったのではないですか」
「それでも、彼が私の包丁を奪おうとしてきましたので」
「しかし、先ほどのあなたの話によると、非力なあなたでも、彼の右腕を抑えられたんですよね」
「はい」
「しかも、当時、被告人は、頭がぼうっとしているような状態だったんですよね」
「はい」
「そんな被告人でも、安田一郎さんの腕を抑えられるほど、安田一郎さんはすでに弱っていたのではないですか」
「そうかもしれませんが、当時は分かりませんでした」
「被告人は、ひどい環境になったとはいえ、親のように育ててくれた人を殺害したわけですよね」
「はい、それについては、本当に取り返しのつかないことをしたと思っています」
「私からは、以上です」
翌日の判決が行われていた日は、いつもどおりの青空で、何事もなかったかのように、太陽が明るく輝いていた。弁護人山口と検察官佐藤は、彼が、再び腰縄をされ、手錠を掛けられ、被告人として入ってきたところから、今度は受刑者として出ていくのを、立って見送ってから、法廷を後にした。
動物裁判 @Ak386FMG
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