第3話

 弁護人山口ひとみは、傍聴席側入り口から入り、肩の力を抜いた後、扉を押して法廷に入った。弁護人席に座ると、緊張感が高まる。もう一度リラックスをするように、肩を上げ下げする。ここは何度入っても緊張するのだ。山口の隣にはベテランの先生が座り、その後ろにほかの弁護団の先生が座る。向こう側には検察官が見える。そのうちの検察官は、今年着任したばかりと聞いていて、山口は、なんだか妙な親近感を覚えたが、被告人の弁護人である以上、なれなれしくはできない。

 依頼者が連れ添われてくるのが見えた。腰縄と手錠を掛けられていて、弁護人の前にある長椅子の前でそれらが外される。その後、挟まれるようにして座った。

 傍聴席には、予想通りというべきか、かなり多くの傍聴人がいて、もちろんマスコミもたくさん入っている。聞いた話だと、整理券の配布で長蛇の列ができていたらしく、それこそ、アイドルのコンサート並みに倍率が高かったらしい。山口は、悲しくなった。人の人生をいったいなんだと思っているのだろうか。

 朝10時。開廷時刻となった。裁判官席の後ろにある扉から、法服を着た裁判官と裁判員がぞろぞろと出てくる。それに合わせて、その場にいる全員が起立をする。裁判官が礼をして着席すると、それ以外の人もそれにならった。

「それでは第一回公判期日を開廷いたします。被告人は、証言台の前に立ってください」

「あなたは、安田佳夫さんでよろしいですか」

 裁判長の言葉に依頼者は、頷いた。裁判員や傍聴人は、依頼者の姿を初めて見るためか、やはり驚いた表情をしていた。しかし、どちらかというと、裁判員は、真剣な表情で依頼者を見つめているような気がする。それに対し、傍聴席では、互いに顔を見合わせてこそこそ笑っている人がちらほら見えた。

 それでも無理もないのかもしれない。公判前整理手続で初めて裁判官が依頼者を見たときも、物珍しそうな表情で見ていたのを山口は覚えていた。裁判官は、起訴された時点では、被告人がどのような人なのか知らない。これは法制度上そうなっているから仕方ない。しかし、山口は、今回、裁判官に偏見が入っているように思えて仕方がなかった。「ああ、このサルか」というような表情をしていると思えて仕方なかった。山口は依頼者との接見を繰り返す中で、依頼者が話していることが次第に理解できるようになり、自分と同じように、過去がある、つまりこれまで歩んできた、ほかの人と何ら変わらない人生があることを知ることができた。そうして、この依頼者が、ほかに代わりのいない存在であるとようやく理解できた。

 他方で、裁判官は、今、この依頼者をもっと抽象的に見ている。しかも、人というくくりではなく、「サル」というくくりで見ている。ニュースで報道されている以上、あるいは、そういう見た目である以上、そういう偏見が存在しているのではないかと、山口はどうしても疑わずには居られなかった。


「それでは、検察官は、起訴状を朗読してください」

 検察官佐藤が、すっと立ち上がった。

「公訴事実。被告人は、令和X年8月11日午後7時頃、かねてより恨みを抱いていた安田一郎さん、当時64歳に対し、安田一郎方キッチンにおいて、包丁で顔面及び胸部を20数回突き刺すなどし、よって××により、同所において死亡させたものである。罪名及び罰条。殺人、刑法199条」

 「殺人」という言葉は、法廷内に重く響き渡った。そして、傍聴人たちの少し緩んでいた表情が険しくなる。面白半分で見ていたであろう人たちも、人ひとりが死んだということをようやく意識し始めたのかもしれない。あるいは、このような存在に、人間という高貴な存在が殺されることになったということを意識して、やりようのない怒りを覚えたのかもしれなかった。佐藤は、起訴状を朗読した後、法廷内をぐるりと見渡した。しかし、こう思うのだった。人も、結局この世界に存在する以上、他の存在から命を奪われうる存在なのではないか。殺す主体が何であれ、我々は、命のやりとりの中で存在しているのであって、人だけが安全地帯にいるわけではないのではないか。今、証言台の前に立っているこの被告人も、そうした中にいる存在なのだろう。そして、彼は今から、その責任を問われるのだ。

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