第2話

 その日の接見の様子を、弁護団を組んでいる先生方に報告したところ、ベテランの先生から、まぁ認めかどうかが分かっただけでもいいじゃないですか、と返ってきた。

「今回は、難しい事件ですから、ほかの事件とは同じようにいくわけではありません。相手が何を言っているのか分からないとしたら、こちらが、その相手の言葉を少しずつ理解していく努力が必要ですし、時間もかかります。根気よく真剣に依頼者と向き合うしかありません。確かに弁護人の考え方として、後見的な立場から考えるべきとの見方もありますが、依頼者の意見を全く聞かずともできるわけではないですからね。しかも今回は、依頼者自身が被害者を殺したと認めていることしか分かっていない。報道されている内容からすれば、ある程度はその殺害行為自体もあったと考えられるのでしょうが、できるだけ、そこも彼の主張をふまえてきちんと検討したいですね」

 山口は、力なく、はいと返事をした。起訴までの短い期間で理解できるようになる気がしなかった。初めは、被疑者のためにと意気込んでいたものの、いざ意思疎通困難な状況に陥ると、そのあまりの乗り越えるべき壁の高さに目をそらしたくなる。時間制限もある中で、その壁を上るのを諦めることはできたが、結局、その高い壁は依頼者を取り囲むようにそびえたっていて、壁に沿って抜け道を探しても全く依頼者に近づくことはできないのだった。

 それに、よくよく考えれば、依頼者は、こちらの言葉に対して頷くなどの反応をしているけれど、それもこちらの意図を理解して行っているのか分からないような気がしてきた。不安が胸にこみあげる。それでも、今は9日後の勾留延長を見据える必要があった。


 佐藤は、深夜12時に自分のデスクの椅子の背にもたれて、ぼーっとしながら被疑者のことを考えていた。言わずもがな、あの殺人事件のことである。このままあの被疑者の供述を得られなかったとしても、被疑者が殺人行為をしたことは、最近警察から上がってきた鑑定結果など、つまり被疑者の右腕や体に大量についていた血、被疑者が右手に持っていた包丁にべっとりとついた血、それらは、DNA鑑定の結果、それに、包丁の長さや、刺さっている部位、深さ、その他の司法解剖の結果などからおそらく立証できることが見込まれる。また、その当時被疑者に殺人の故意があったことは、おそらく立証できる。

 しかしながら、いまだ精神鑑定の結果は届いておらず、防衛行為でなかったかどうかも、まだ分からない。そして、特に気になるのは動機であった。その理由は、犯行態様にある。被害者の顔や胸には、数十か所の刺し傷がある。残虐極まりない事件であるが、そこまで恨みを抱いていたということだろうか。それに、被疑者の身体にはあざや傷痕がたくさんあった。それとも関係しているかもしれなかった。

 近所の人の話によると、被害者と被疑者は、仲が良さそうだったらしい。被疑者が生まれたときから一緒に生活しているらしく、買い物等でよく一緒にいるのを色んな人が発見していた。ただ、それからしばらくして、被疑者を外で見かけることはほとんどなくなったらしい。生前の被害者の話だと、被疑者は、病気で家に籠っており、勉強することもできていないということだったそうである。どの近所の人も、彼らの家の中の事情までは分からないようで、事件に関係のありそうな出来事があったかどうかは分からないということだった。

 被疑者や被害者が通っていた場所がいろいろあったようであるが、そこへ問い合わせても、やはり事件直前の様子というのは分からないようだった。

 真実発見という見地からすれば、ここは勾留延長も見据えながら、弁解録取の時点で被疑者の語ろうとしていたことを引き出すべきであろう。弁護人が就いた後、めっきりしゃべらなくなってしまったが。あの部屋の前を通ると、めまい、動悸がするから嫌だけど、絶対にあの部屋に行きたくないけど、三席に取調べについて教えを請いに行くしかないな。そう思って、佐藤は、報告すべき内容をまとめると、椅子から飛び起きて、三席のいる部屋に向かった。


「失礼します。例の殺人事件について、現状をまとめました」

「はい、ご苦労さん。……あとで見とくわ。そこ置いといて」

 佐藤が、三席検事に報告内容を記載した書類を出そうとすると、三席は、一度パソコンから顔を上げて佐藤の顔と紙を一瞥すると、ふたたびパソコンに目を移して作業を始めた。

「あの、この殺人事件のことでちょっと相談が……。取調べのことなんですけど……」

「ああ? おう、ちょっと待て」

 そう言って三席は、カタカタと文字をさっと入力してしまうと、顔を上げて、その椅子使えよと、促した。

「この殺人事件なんですけど、被疑者の動機が分からなくて……。犯行態様から、被疑者が被害者に対して強い恨みを持っていたのではないかと考えているのですが、事件直前の被疑者と被害者の関係がよく分からないんです。取調べをしようにも、言葉が分からないし、そもそも今は黙秘していますし……」

「弁護人から何か意見書とか来てないの?」

「現時点では、来てません」

「……お前は、いったい何のために自白を必要としているんだ」

「……動機を知るためです」

「そうじゃなくて、じゃあ、この事件について一番よく知っているのは誰なんだ」

「被疑者です」

「だろ? だから真実を知るために被疑者に話してもらう必要があるんだろ? まとめを見ると、正当防衛状況だったか、責任能力があったのか分からないって書いてあるけど、そういう被疑者に有利になるようなところから聞いたらいいじゃない。自分に有利になるんだったら答えるかもしれないだろ」

「んで、言葉が分からない方だけど、お前はちゃんと聞いたのか」

「はい、被疑者の話は聞いているんですが」

「そうじゃなくて、お前は、被疑者の話を理解しようと努力してんのかってこと。こいつ何言っているか分かんねーと思いながら聞いてるんだろどうせ。そんなんじゃ理解できる話も理解できねーよ。みんながみんなお前みたいに論理的に整理して話すことなんてできないんだから、もっとちゃんとこっちで整理しながら聞いてやらないと。どうせサルだし何言ってるか分からんから、てきとーに調書作っとことか思ってんじゃねーの? そういう態度でやるのも一つのやり方かもしれんけど、俺は、それでお前が将来どうなっても知らねーからな。

 ……まぁそういうことを2時間も3時間もやれば疲れるのは分かるけど、お前はそういう仕事をやってんだろ? 選んだんだろ? ならちゃんと話を聞く努力をしろ。以上」

 やはり深夜に来るべきではなかった。いやむしろ昼でなくてよかったのかもしれない。精神的に参ってしまった。今日は、もう仕事にならないから帰って寝よう。三席の部屋のドアを閉めると、佐藤は、そう思った。動悸、めまいがする。別にこの仕事をなめていたわけではない。しかし、やはりどこかで自分で区切りをつけて手を抜いていたのかもしれない。三席の言うことに反発したい気持ちはある。真実発見、それは佐藤の頭の中にいつもあったことで、それを成し遂げたかった。被疑者の取調べで、自分が思わぬ供述を得ることになり、真実が解明されるという妄想も修習時代から何度もしていたが、そんな理想の自分との大きな乖離を見せつけられてしまった。決裁も考えると、次の取調べで決着をつけなければならない。

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