波点のゴールボール

@hashipiyo

波点のゴールボール





 木村美波は目をつぶっていた。余計なものを視界に入れたくないからではない。彼女はほとんど目が見えない。それでも集中という”動作”をするには目を閉じるのが一番だった。自然と彼女はこれまでの日々を思い出していた。


 ゴールボールを始めた頃の自分、張本亜矢との出会い、そして去年の日本ゴールボール選手権大会の決勝。






 美波がゴールボールと出会ったのは高校生の時である。彼女は高校に入学したばかりの時に網膜色素変性症を患った。半年で視力は片目の視界の中心だけが見えるところまで落ちてしまった。彼女は引きこもるようになった。


 ある日、両親が彼女をリハビリテーションセンターに連れ出した。リハビリ施設に連れていかれるのかと思っていたら、着いた場所は体育館だった。

 中に入ると、コートの両端にそれぞれ長いサッカーゴールのようなものがある。ゴール前では三人ずつ女子選手が片足を伸ばしてしゃがみ、横に並んでいる。球技かな?美波は両親とともに案内され、席に座った。まさに美波のすぐ前では試合が行われている。


「ここでは障害を抱える人がスポーツをやっているの。見学ができるっていうから、あなたを連れてきたの」


 母が美波に語りかけたその時、急に


「左!」


 女性の声がした。鈴のような音とボールの跳ねる音が左から右に流れていったと思った瞬間、ゴスッという鈍い音がした。誰かが体でボールを止めたんだ。美波は音で理解した。


「ゴールボールっていうの」


 母が説明した。


「1チーム3人で行う球技なんだけど、選手は光の入らないゴーグルをつけて試合するの。コートの両端にネットのついた長さ9mのゴールがあって、ボールを転がして点を取り合うの。コートの長さは18mで、各チームのエリアと中間エリアの三つのエリアがある。攻める方は1人がボールを転がして、守る方は3人全員でゴールを守るの。あと、選手が投げる時だけは観客もみんな静かにしなきゃいけないのよ」


 普段スポーツに全く興味が無い母がこんなに詳しく喋るのを聞いて美波は驚いた。しかし、同時に美波は目の前の球技にどこか惹かれ始めていた。

 

「美波さん、やってみますか」


 休憩時間に入ったのか、スタッフの男性が話しかけてきた。彼女はすっとコートの中に入り、ゴールの前に立った。


「これがゴールです。高さは肩ぐらいで幅は9mあります。向こうにもう一つあって、あれを狙います。スローイングをしてみましょう。これがボールです。」


 男性スタッフに手渡され、美波はボールを持った。とても重い。シャンシャンと鳴る。鈴が入ってる。


「まず私が投げてみますね。ボールがバウンドする前に自陣の線を超えるとペナルティになるので、なるべく足元にボールを落として投げます」


 彼が助走をつけて投げるとボールは鋭く相手ゴールに入った。


「じゃあ投げてみましょう。アイシェードもつけましょうか」

 美波はゴーグルをかけてボールを持ち、投げた。ボールはとんとんとんと転がりゴールの中心に吸い込まれた。すごく、気持ちいい。


「あの、もう一度”3”に投げてみてもいいですか?」

「え?あ、はい。いいですよ」


 もう一度投げる。今度は中心より少し左に入った。スタッフは驚愕していた。ゴールボールでは選手が距離感を測るために相手ゴールを左から0から9の数字で区切り、中心を4.5とする。さっき母からルールを聞いていた美波は狙いを定めて投げていた。

 体験の時間はあっという間に過ぎた。彼女は帰りのバスで両親に告げた。


「私、ゴールボールやりたい」






 美波は本格的にゴールボールを始めると、めきめきと実力を上げていった。彼女は感覚が特に優れており、その才能は特に守りに活かされた。試合では音を駆使した様々なフェイントが行われる。美波は高確率でそれを見抜き、ボールを止めた。やがてチームに所属して全国大会を目指すようになると、少しずつ注目されるようになっていった。


 しかしそう甘くはなかった。女子予選大会の初戦で張本亜矢と出会ったのである。亜矢は中国人の祖母を持つクォーターで、中学の時に美波と同じ網膜色素変性症を患った。高校に入学した頃にゴールボールを始めると、すぐに頭角を現した。彼女の武器は長身を活かした男子顔負けのパワーと俊敏性であった。矢のようなスローイングで相手ディフェンスを粉砕し、次々とシュートをブロックする。


 美波は彼女のチームと対戦し、0-10で完敗した。試合後、美波の噂を聞いていた亜矢は同世代としてのライバル心もあったのだろう、美波に向かって言った。


「私は絶対に日本一になる。日本代表になってパラリンピックで金メダルを取るの。ちょっと上手だからってやっていけるような世界じゃない」


 美波は動揺しきってしまった。一度崩れたメンタルはそうそう立て直せなかった。チームは予選で敗退した。


 以来、彼女はプレーに迷いが出るようになってしまった。ついに美波はこのままゴールボールを続けていいのかと考えるようになった。




 ある日、彼女に電話がかかってきた。明美からである。美波はスマホを取った。


「あ、もしもし?明美だよ!どう?元気してる~?」


 相変わらずはつらつとした喋り口。少し気が楽になる。明美は高校以来の友達で、美波が引きこもった時もずっと気にかけてくれていた。


「どうしたの?何か元気ないみたいだけど」

「あ、うん。ちょっとね」


 美波は心の内を全て話した。


「なるほどね~。そんな事があったなんて知らなかった」

「うん。私、このままゴールボールをやっていっていいのかなって」


 無言の時間が続いた後、明美が口を開いた。


「あのね、私、美波に救われたんだよ。」

「私に?」

「私が大学受験に失敗して一浪したの知ってるよね。ホントにその時つらくて。成績も全然伸びなくて。もう私終わりじゃないかって。でも美波が試合で頑張ってる姿を見てもう一度チャレンジしてみようって思えた。最後まで頑張れたんだよ。私がこうして大学を卒業できたのも美波のおかげなんだ」


 美波は黙って聞いていた。


「確かにその亜矢さんもすごい覚悟だと思う。でも美波がこれまでやってきたことだってすごいことなんだよ。だから…美波は美波でいいんだよ。もっと自信持っていいと思う」

「うん…ありがとう…。私頑張ってみるね。」


 二人とも泣いていた。何か重たいものが美波の頭頂部から抜けていった。




 美波は変わった。もう亜矢の言葉が頭に付きまとうことはない。練習にも普段以上に打ち込み、積極的にコミュニケーションを取るようになった。

 

 彼女に触発されてチームの力も上がっていき、ついに去年、全国大会の決勝に進んだ。相手は再び張本亜矢のチーム。


 結局美波は予選を含め、これまで一回も亜矢に勝てていない。亜矢もこれが初優勝のチャンスということもあって意気込みはいつも以上だった。


 試合が始まった。


 亜矢のチームはやはり強かった。美波のチームも前半は同点に食らいついたものの、後半になると亜矢が一気にギアを上げてきた。あっという間に点差は4。もう1点取られれば勝利は絶望的である。美波は諦めなかった。


いやだ。負けたくない。みんなと一緒に勝ちたい。


 生まれて初めての強い渇望が彼女に生まれたその時、扉は開いた。




波と、点。




「これで終わりよ!」


 亜矢が相手選手の間めがけて渾身のボールを投げた次の瞬間、美波がボールを体の前でキャッチした。亜矢は起こったことが信じられなかった。


 コースを読んだ?ばかな。


 美波がボールを投げる。


「右かっ」


 亜矢の重心が右に動いたその時、ボールは左を抜けていった。亜矢は戦慄した。


 こちらの動きを読まれている。しかも完璧に。


 美波の捉える世界は以前のそれとは完全に別物になっていた。いや、進化したというべきかもしれない。ボールやコート上の全てのプレイヤーのいる場所が”点”となり、ボールの動きやプレイヤーの重心はその点から同心円状に広がる”波”として彼女に感じられる。

 

 波点のゴールボール。彼女はこの試合の全てを感知していた。


 ボールが亜矢の足の先をすり抜ける。美波のチームが逆転した。


「まだよ…!絶対に負けるわけにはいかない!」


 亜矢はすかさずボールを持って一回転し、強烈なバウンドをつけて投げた。美波が必死に足を伸ばすも、足に当たったボールはゴールに転がっていった。


 再び同点、残り10秒。


 このまま試合が終われば延長戦。しかし延長になれば地力で勝る亜矢のチームに確実に負ける。美波達も体力と集中力ともに限界だった。美波は10秒を目いっぱい使う。投げるのはずっと練習してきたバウンドボール。


 残り2秒。美波がボールを投げた。


「ここでバウンドボールだと!」

 

 亜矢は驚いた。美波はこれまで低く鋭いボールを多く投げてきた。動きを読まれている彼女は重心を崩しながらも、長い腕を目いっぱい伸ばしてボールに触れる。

 しかし土壇場でのバウンドボールに体がついていかなかった。ボールは亜矢の腕に当たり、コロコロとゴールへと入った。


 ホイッスルが鳴る。


 美波のチームが優勝した。美波がチームメートやスタッフと歓喜の涙を流す。しかし同時に、彼女はそれ以上のものを感じていた。自分が捉えた波と点の美しい世界。ああ、私がゴールボールに導かれた理由はこれだったのだ。


 亜矢が美波に近づいてきた。


「認めるわ。完敗よ。でも次は絶対に私たちが勝つ。それに…私は代表を諦めていない。だから…いつか一緒に世界の舞台に立ちましょう」


「はい。約束です」


 二人は握手した。






 一年後、2020年の夏。美波は控室で精神を統一していた。東京パラリンピックのゴールボール女子日本代表として。


「美波!時間よ!」


 チームメートの亜矢が声をかけてきた。美波は目を開ける。


「うん。行こう。」


 二人は今まさに金メダルを目指して世界との闘いに挑む。しかし美波に不安は無かった。


 波と点。二つが織りなすこの美しい世界がある限り、彼女はどこまでも進んでいける。

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