アラクネ――気配なき大蜘蛛のこと

 まったく恐ろしい体験をした。魔獣狩りでもない私が、この歳になって真に命の危険を感じる日が来ようとは。


 島南領州へ、天牛グアンナの出産に関する講義を聞くため十日程の旅行へ出た。

 常のごとく水馬車は使わず、陸路での山越え。途中の乗換え地点で気持ちのいい冬晴れに誘われ、周辺を散策に出たところに魔獣狩りの男と出会った。


「馬車待ちの客かい?」

 私が肯定すると、彼は真剣な顔で「乗合い所で大人しく待ってたほうがいいな」という。不安になってなぜかと問うと、青ざめた顔色で彼は頷いた。


「付近で家畜が神隠しにあうって噂が立っているのさ。住民は悪魔だ何だと騒いでいるが、俺は魔獣の仕業と睨んでる。ほら、こいつを渡しておくぞ」


 彼が顔の前に掲げたのは大ぶりの鈴だった。真鍮製らしく高価そうではないものの、不審に思って遠慮すると、男は奇妙に唇をゆがめて無理矢理に私の両手に押しつけた。


「その鈴を鞄にでもつけておけよ。もし山中を歩いていて音が急に小さくなることがあったら、すぐその場を離れるこった」


 妙な頼みに薄気味悪くなった私は、足早に乗合い所に戻った。

 その後は何事もなく目的地につき、無事に講義に出席できた。

 彼の言葉を思い出したのは、行きと同じに峠で馬車待ちしていた帰り道のことだ。

 そこは男と会った停車場とは別の所で、より王都寄りの山腹だった。


 その日は小雨が降っていて寒かった。

 馬車の遅れは珍しくないとはいえ、日が傾いても予定の便が来ない。

 待ちあぐねた私は、ちょっと様子見とばかりに乗合い所から散歩に出た。

 例の鈴を持ち出す気になったのは、ひとけのない山道に神隠しの単語を思い出したからだ。

 結果的に、私の小心は己の命を救ったらしい。

 乗り合い所を離れてしばらくは、何の問題も感じなかった。だがなんとなく、ふと肌寒さを感じて立ち止まったとき、木々のざわめきや鳥の声、風の音が妙に遠すぎるような気がしたのだ。

 冬枯れの梢はそよそよと寒風に揺れている。けれどもどういう不思議でか、あたりは耳を塞いだような静寂があった。おまけに先ほどまで小気味良い音を立てていた例の鈴が、鞄から取り外し、目の前でいくら振ってもリンとも音が鳴らなかった。

 大きな真鍮の球体の中で、音色の元である金属玉が確かに転がる手応えはある。

 それなのに、音がない。

 錆び付いた記憶の底から、ある名前が蘇ったのはその瞬間だ。

 ぞっとして私は道を戻った。

 大蜘蛛――アラクネ。静寂の魔法を使い、気配を殺して獲物に忍び寄る危険な大型魔蟲だ。

 だが本来アラクネはこの国、この島に生息しない。

 それでも私はやっと来た馬車の御者を説き伏せて、山道を一気に駆け降りてもらった。

 無事に山を下りた私たちを街道入口で出迎えたのは、殺気立って出発の準備を進める警吏隊の一軍だった。


 人間とは奇妙なもので、その魔獣が危険であればあるほど所有欲を増す人種がたまにいる。

 アラクネは、時にはあのチェシャさえ食い殺す第一級の捕食生物だが、数日前、ある貿易商への手入れにより密輸入が発覚したという。

 貿易商と買い手はすでに捕えられたが、肝心の魔蟲が見つからない。届いていないと買い手は言った。運ぶ途中の山道で逃げたと連絡があったと。

 なんと私が山中で出会った魔獣狩りこそ、蜘蛛を島に輸入した張本人であったらしい。人相書きを確かめて、それがわかったのだ。

 私が男に遭遇した場所と異変の峠を教えると、警吏は物々しい装備を整えて山狩りに向かっていった。魔獣狩りギルド〈ゲイジャルグ〉から派遣された、狩人たちの先導で。

 しかし私が出会ったあの男も、革帯に紋章入りメダルをつけた正規のギルド員だったのだ。

 掟破りはどこにでもおり、きちんと罰されてほしいと思っている。けれど私に鈴をくれた点には、まあ感謝すべきなのかもしれない。

 無関係な者を見殺しにするほど、彼は悪人ではなかったようだ。


 今回、密輸入された大蜘蛛は南大陸北部、乾燥した大森林地帯をうろつくヴィダーツ種だったと後で新聞で読んだ。

 大蜘蛛は極めて危険かつ個体数も少ないため、普通は狩人も依頼を受けたがらない。学院も剥製を一体保管するだけで、いまだ生態には謎しかない。人跡未踏の森や地下洞穴を広くさまよう移動性の生物であり、身を隠すのがうまく、ヴィダーツ種以外の種は古い記録や伝聞でのみ存在が知られているそうだ。

 しかし、いずれも暑い地域に生息する生物だから、冬場のこの国では動きも鈍ったことだろう。私が襲われずにすんだのも、低い気温のおかげだったのかもしれない。

 とにかく、あの無音――音がふいに遠ざかって消え果てる、失神寸前の耳鳴りに似た感覚、それでも意識ははっきりとしているという、どうにも矛盾した感覚は容易に忘れられそうにない。

 学院の博物館でヴィダーツ種の剥製を見てみようかな、と思いつつ――たぶん、少し間を開けてからのほうがいいのだろう……。

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