ジャル――羊に混じった羚羊のこと

 早朝、私が診て回る区域のうちでも最西の牧場から連絡あり。ドーナツを口に押し込みつつ馬で向かう。


 牧場は島を貫く山地の麓に広がる。牧場主の案内で崖下の草地へ行くと、問題の羊の群れがいた。呼び戻そうと犬をやってもおびえて仕事を果たさず、近づくと真昼にも関わらず急に空が暗くなって恐ろしいという。

 それだけ聞けば充分だったが、借り受けた双眼鏡を覗いて確信を得る。草を食む羊たちの中心に、羚羊の長い二本角。ぐったり伏しているのは一頭のジャルだった。


 後ろに湾曲した大きな二本の角を持つ中型の羚羊で、おもに山岳地帯、ほぼ垂直した崖にも生息する草食獣である。角の内部は空洞になっていて、鳴き声を増幅反響させることにより暗闇の魔法を発動させる。

 昔は光を制御する特殊な魔法と考えられていたようだが、現在では目や脳の神経組織に作用する精神魔法説が有力だ。

 鹿と同じく、一頭の強い雄がハーレムを作り、若い雄は若者同士の群れで行動する。ある論文雑誌で、単独生活する個体もいるらしいと読んだおぼえもある。

 双眼鏡の中の羚羊は、そうした若い雄のようだった。


 攻撃的ではないとはいえ、ジャルは、例えば猟犬で追い詰めて怯えさせると、恒久的な視力低下を招く致命的な魔法を放つこともある。だが患畜はだいぶ弱っており、耳を澄ませてもあの不思議な鼻歌めいた魔唱ましょうも聞こえなかった。

 そっと近づいて羊越しに吹き矢を放つ。


 麻酔が効いてから診察すると、ちょうど目と耳のあいだから首にかけて、深い傷が走っていた。これが感染症のもとになったのだろう。

 怪我の原因は不明だ。鋭い岩で抉ったか、雌を巡る仲間同士の喧嘩か。チェシャに襲われたのかもしれず、頭を持ちあげると左右で重さが違っていた。角を叩き、臭いを嗅いで確認すると、傷側の角内部に膿が溜まっているとわかった。


 伝染病や何かの呪いでないとわかり、牧場主はホッとしたようだった。まるで羚羊を守るように、その場にいた羊たちを畜舎へ追い立て、さて魔獣をどうしようと二人で腕をこまねく。

 近隣に狩人はいないし、珍しい魔獣でもないから学院でもジャルは引き取らない。

 患畜の具合は相当悪く、望み薄ではあったものの、牧場主の好意で可能な治療をする運びとなる。


 角に穴をあけて膿を排出、消毒水で洗い流して、かわりに抗菌薬を詰める。新しい膿が溜まらぬよう、角の穴はそのままにした。


 しかし後日、やはりジャルが死んだと報せがきた。それは想定していたが、牧場からの使いはあわせて不思議な話を聞かせていった。

 羊たちが、魔獣の死んだ場所をたびたび巡礼するのだという。


 時々、野生動物でも耳にする話だ。

 群れの構成員が死ぬと、仲間たちはその原因を知ろうというのか、悲しむのか、その死を悼むように死骸のあった場所を何度も訪れることがあるという。

 思えば断崖を好むジャルが、わざわざ牧場まで降りてきたのも不思議といえば不思議だった。元来仲間と群れる生き物だから、体調を崩したとき、祖先が近い羊のにおいに惹かれてやってきたのかもしれない。


 時折、獣たちの隠された心が垣間見えるような、神秘的な出来事に出会うことがある。そんなとき、どういうわけか私は言いようのない深い感銘をおぼえたりする。

 彼らは人間よりまだもう少し、神々が最初に創った純粋さに近いのだ。


 山地のほうへ祈りを捧げ、仕切り直して次の患畜を診察室へ呼び入れた。

 私は動物が大好きだ。この仕事を、できる限り長く続けていきたいと思っている。

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