第2話 冴えなくない彼女と俺の名前
昼休みが終わった後も午前中の沈黙が嘘のように加藤ひかりとの会話は続いた。
「女子もそういう漫画読むんだな。その漫画、ハーレムものの男性向けだろ?」
「見れば分かるでしょ?私、男性ホルモンが強いの」
「えぇ?見れば、ってどこを?」
「毛とか」
「はっ!」
セーラー服の袖から伸びる細くて白い腕に目をやる。
「こっち見るな!変態!!」
「いや、加藤が見ろって言ったじゃんか」
「っ……。それやめなさいよ」
「え?それって何だよ」
「加藤って呼ばないで!」
「何で?」
「私、冴えなくなんてないわ」
「……!ぁな"ぁ"ぁぁ、そういうことかーって加藤ライトノベルとか読むのか?」
確かに美少女だが、それを自分でいってしまえる加藤ひかりがすごい。というか加藤は冴えなくなんてないぞ。めちゃくちゃ可愛いからな。
「一般教養の範囲内よ」
「すごいオタクっぽいな」
「っ!?断じてオタクではないわ!私は加藤とどうにかなりたいなんて思ったないもの。ツインテールでやいのやいのされたいと思ったくらいのものよ。ただの一般読者!」
「……」
やいのやいの、って何だよ。もう何も言うまい。
「はぁ、じゃあ何て呼べばいいんだよ」
「加藤以外ならなんでも」
「そう言われても……。じゃあ、ひかり……ちゃん?」
「きもい悪い」
「きもい悪いって何!?気持ち悪いじゃなくて!?」
「噛んでないわ」
加藤ひかりは恥ずかしがる様子もなく堂々した態度でそう言う。
噛んだだろ。かみまみたって言えばいいのに。
「あだ名とかないのか?」
「あだ名で呼ばれたことなんて生まれてから一度もないわ」
「……。かとうひかりかぁ。うーん、かと・う・ひ・かり……。とうひ……とか?」
さすがに怒られるか?
「はぁ!?何それ!馬鹿にしてんの?」
「はは、そうだよな。うーん、他に「いいわよ」
俺の話を遮って予想外の許可が降りた。
「え、いいの?」
「しょうがないでしょう。他に呼び方なんて思いつかないもの」
「まぁ、加藤がいいなら、っと、とうひがいいなら?」
「ふん」
***
加藤、もとい"とうひ"があだ名に納得して少し経ったとき授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「お、もう時間か」
一緒に帰りたいと言う思いを込めて加藤ひかりのほうを見てみる。
「何?私は没収されたゲームを取り返しにいくわよ」
「あぁ、そっか。俺も行っていいか?」
「冗談は顔だけにして。ほら、早く帰りなさいよ」
俺の顔は本気マジなんだが。
俺の淡い期待は粉々に砕かれて、結局一人で帰ることになりそうだ。
何も入っていない軽いスクールバッグを肩にかけて、ふと思い出す。朝、教室に入った時に感じた違和感と疑問を。
「なぁ、とうひって何で夏休みなのに学校来てるんだ?」
加藤ひかりの整った顔が固まる。ただでさえ大きい末広二重の瞳が見開いて、さらに大きくなる。
これは聞かない方が良かったのか?加藤ひかりの反応に俺は発言を少し後悔した。
「あーっと、言いたくなければ別にいいけど」
「別に隠してるわけでもないし、気にしなくていいわよ」
加藤ひかりの動揺はすぐに消え、再び堂々とした態度に戻る。
「暴力事件よ。クラスメイトを殴って停学になってたの」
「それじゃあね、田中」と言って加藤ひかりは俺よりも先に逃げるように教室から出て行った。
「……え?」
俺は加藤ひかりの口から発せられた"暴力事件"という現実味のない言葉よりも、その後に彼女の発した言葉に驚愕した。
『それじゃあね、田中』
田中?田中って俺の名前?加藤ひかりは俺の名前を知っていたのか?
俺はすぐに教室から出て、加藤ひかりを追いかけた。職員室へと向かう道の階段の踊り場にいる加藤ひかりを見つけた。
「なぁ!」
階段の上から話しかける。加藤ひかりは俺に気づき、上を見上げる。
「何?暴力事件のことなら……「お前、俺の名前知ってるのか?」
「はぁ!?」
「俺の名前だよ、さっき田中って呼んだだろ!」
「知ってるわよ、当たり前じゃない。クラスメイトでしょう」
加藤ひかりが階段を登ってくる。
「
俺の名前を口にして、近づいてくる。俺の目の前にきて、人差し指で俺のことを指差した。
「お前、って呼ぶな!!」
加藤ひかりはそう言い残して、再び階段を降りていった。
「はは、人に指さしちゃいけないんだぞ」
そんな小学生みたいなことを言って、俺は自分がにやけていることに気づく。
嬉しかった。加藤ひかりが俺の名前を知っていたことが。
帰り道。ジリジリと日の光が容赦なく照りつけている。汗で身体中がベトベトしている。けれどなんだか、そんなことも気にならないくらい俺は高揚していた。
憧れの存在だった加藤ひかりと二人きりで話したから。
加藤ひかりが想像していた女の子ではなかったから。
加藤ひかりのはじめてのあだ名をつけることができたから。
加藤ひかりが俺のことを知ってくれていたから。
理由はたぶんたくさんある。けれど一番はただ、楽しかったのだ。加藤ひかりと、とうひと話すことが。
憂鬱だった夏休みが少し色付いて見える。
明日が楽しみだ。
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