毒ガスと暴風とクマの人形(前編)

 補講があったせいで帰りが遅くなった優作。帰り道はいつもより暗く、人気のない道がいつもよりも静かでしみじみとした場所に感じた。

 不安だらけの生活は嫌だ。具体的な理由はよくわからないが、とにかく嫌だ。知らないところに飛び出すなんてもってのほか。なぜアンは、あそこまで明るくて、自由を求めるのだろうか。故郷を飛び出して、異世界にまで行ってしまう勇気が、どこから湧くのか。そのようなことを考えながら、優作は静かな夜道を一人歩いていた。


 ガチャッと家の扉を開け、玄関に入る。

「あ、優作、お帰りなさい! 今日はどうだった?」

母親がいつも通りの言葉を発する。

「普通だよ」

優作もいつも通り返した。この時間なら、アンは晩御飯のお手伝いをしているだろう。今ならアンに部屋が占領されている心配はない。このまま部屋に行って毛布を引っ張り出してぬくぬくしよう。軽い足取りで階段を上り、自分の部屋のドアを開けた。


 ——!


 突然謎のガスがぶわっとかかってきた。目がかゆくなり、咳が出る。まずい、これ、吸い込んじゃいけないやつだ。逃げよう。だが、体が動かない。気が付けば、ずいぶんと視点が低くなっている。どうやら床に倒れこんだらしい。

 このまま死ぬのかな。優作ははじめて、自分の命のことを考えた。いつも当たり前にある命。当たり前すぎて、いつも感じていない大切なもの。初めてそれがなくなるかもしれない。そんな感覚に陥った。自然と恐怖は感じなかった。だんだん、体が楽になってきた。軽くなってきた。はは、もうそろそろお陀仏なのかな。その時だった——。

「ごめん優作! 敦子さんには危ないから部屋に入んないで、って伝えてたんだけど、優作が知ってるはずないもんね。まさか優作がいきなり開けるとは思わなかったよ。魔法使いって、集中したら周りが見えなくなるからさ。とりあえず、もう大丈夫。この薬の耐性を優作に付与しといたから。もう息してもなんともないし、普通に立てるはずだよ」

優作の正気を取り戻させたのは、局地的に発達した暴風だった。ゆっくりと起き上がり、足を動かしてみる。さっきまでの体の重さも消え、目のかゆみもなくなり、咳もしていない。どうやら、先ほど体が軽くなったのもアンの魔術のせいのようだ。

 健康上の問題が解消された優作は、次第に現在の状況を理解し始めた。毛布でぬくぬくしようとしていた部屋は謎の毒ガスで満たされている。見ると、アンがどこから持ってきたのか分からないカセットコンロと土鍋を使い、何かを煮詰めている。周りには魔導書と野草や木の葉(薬草と思っていいのだろうか)が入った箱が散乱し、窓も閉まっている。自分の部屋で起こった事実を理解していくとともに、優作の中の怒りの炎に薪がくべられていく。そして、ついにその炎が爆発した。

「ア…………、ア……、ア、アン! てめぇ、人の部屋で何やってんだよ!」

「へー、優作もそんな顔するんだね。いつも冷た——」

「そんなことはいいから、早くこの毒ガスどうにかしろ!」

「どうにかできなかったから耐性を付けたのに」

相変わらずアンとの会話は難しい。

「なら、せめてドラフトとかないのかよ!」

「どらふと?」

「ドラフトチャンバー! 有毒ガスとかを浄化して排気する装置だよ! 薬品作る研究室には必須だぜ!」

「なるほど! 浄化して排気すればいいのか!」

怒る優作をよそに、楽しそうな顔をしたアンが、レポート用紙(優作のを勝手に使っている)を一枚ぺりっとはがし、そこに謎の模様を描きだした。手が止まったあと、呪文を唱えて息をふっと吹きかけた。すると、そこらへんに充満していた毒ガスがすべて模様を描いたレポート用紙に吸い込まれていった。

「これさえあれば大丈夫だね。『浄化して排気』っていう言葉を聞いて、即興で魔術を組んでみたんだ。これからも使えそう。ありがとう、優作!」

すっきりとした顔をしたアン。なんでもありかこの魔法使いは。ドラフトをその場で、あっさりとつくるなんて(それも人のレポート用紙で)。まるで怒りの炎もドラフトチャンバーの中の実験だったかのように、気が付いたら消えていた。アンが余りにもあっさりと解決してしまったので、拍子抜けしてしまったのもある。

「……あのさあ、アン。ここ、俺の部屋なんだよ」

「知ってるよ。だけど、この部屋かなり条件がいいんだよね。薬の調合とか、製造とか、魔法道具の作製とか、いろんな条件が整っててさ。まさか、偶然拾われた家の、拾ってくれた人の部屋がここまで理想的だとは思わなかったよ。それにさ……」

「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ」

呆れたような声が、優作の口からこぼれ落ちた。

「なんで、俺の部屋で、我が物顔でいろいろやってんのかって聞いてんの」

「え……、だって、一番条件のいいところで作業するのは当たり前じゃないの? ここ、ほんとに魔法の薬を作るのに理想的だったから……」

アンは悪い奴じゃない。悪い奴じゃないが、周りの人をまったく気にしない。自由人と言えば聞こえはいいが、それに振り回される周りはたまったもんじゃない。無理やり止めようにしても、体格の違いもある上に、普通の大学生が魔法使いに敵うわけがない。それに、あそこまで楽しそうに薬を作っていると、止める気も無くなってしまう。


 もぞもぞ。


 散らかった魔導書と野草の入った箱の間を、なにやらもふもふとしたものがせわしなく動き回っている。茶色い毛糸、くりくりっとした黒い目。短い手足。間違いない。あれは……。

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