毒ガスと暴風とクマの人形(中編)

 「アン! よくも俺のルーズベルトをパシリにしやがったな!」

部屋を忙しそうに歩いているのは、なんと、優作が大切にしていたクマのぬいぐるみ、『ルーズベルト』だった。

「ああ、このクマちゃん? なんかいい感じの人形があったから、ゴーレムにしたんだよね。よく働いてくれるし、助かってるよ」

どこまでも自由人というか、俺のことなんか眼中にないというか。普通、人のぬいぐるみを勝手にパシリにするだろうか? アンに常識を求めるのは間違っている。だが、どうも腑に落ちない。

「あのさあ、アン。これ……」

「ゴーレムのこと? 人形をてこ入れ要員にしたり、護衛にしたりする魔術だよ。いい人形があれば、魔術の補佐から戦闘まで、いろんなことが出来る面白い魔術でね。一部の魔法使いはそれを専門に……」

「そういうことはいいからさ、俺の宝物をパシリにするのはやめてくれよ」

「優作、ゴーレムがどんな行動をするのかは、持ち主がどんな感じで扱ったのかがかなり影響するんだよ。優作、相当大事にしてたんだね」

——! アンの言葉に優作がほわっとした。ルーズベルトがここまでかわいく、せっせと働いているのは、自分が思いっきりルーズベルトをかわいがったからだ。と。

「ル……、ルーズベルト」

そのかわいさと、その健気さに、思わず優作の口から言葉がこぼれた。声に反応したのか、ルーズベルトが優作のところにとことこと歩いてきた。か、かわいい。優作の心が、この時だけは10年以上昔に戻った。

「相当かわいがってたんだね、優作。いくら私が使役しても、やっぱり本当の主の下へ行く」

本当の、主。か。ただただうれしかった。人形を持っていれば、乱暴に扱ってしまうことはよくある。そのたびに、人形に嫌われていないか? と心配になるのもまたよくあること。優作は頬を赤くしながら、そっと胸を撫でおろした。

「もしよかったら、何かお願いをしてみたら? きっと忠実に、全身全霊で実行してくれるよ」

ルーズベルトにお願い。10年以上前の自分なら最高の瞬間だが、今自分が願うことは一つしかない。

「俺は、ただ静かに生活したいんだ。苦労せず、ただ毛布にくるまっていたい。それだけなんだよなあ」

優作の魂の声が漏れた。そしてその声は、しっかりとルーズベルトに伝わった。


 その瞬間、くりくりとしていたルーズベルトの目が鋭い眼光を放った。とことこと歩いていた短い手足は、重心を低くし、少しずつ力を蓄えていく。


 ダッ!


 茶色いモフモフのぬいぐるみが、突然床を蹴り、飛び出した。

「……え?」

飛び出したスピードは速かった。運動音痴の優作にはろくにとらえられないスピード。さっきまでのかわいい雰囲気をすべて吹き飛ばすような弾丸は、一直線にアンの方へと突撃していく。

 まさか……、俺の静かな生活を脅かす一番の脅威、それを、『アン』だと認識してしまったのか? 確かにアンは自分の部屋を占領するなんて当たり前だし、他の人を振り回す。だが、悪い奴じゃない。俺の生活を脅かすのは、もっとこう……、あまりはっきりしない。しいて言えば、社会? よくわかんない。自分は、こうもはっきりしないものに対して恐怖を覚えてしまっていたのか。その結果、一番はっきりしているアンを、ルーズベルトが攻撃しようとしている。自分の曖昧さと、それが招いてしまった結果を優作は嘆くしかなかった。

 ルーズベルトは素早く、飛び出してからすぐにアンへぶつかる距離へと迫った。あと少しでアンに命中する。ごめん、アン。本人には絶対届かない心の声を、ただ胸の中で反響させた。


 パーン。


 ルーズベルトが空間に弾かれた。おかしい。そこには何もない。それなのに。まるでそこに防弾ガラスでもあったかのように、ルーズベルトが弾き飛ばされた。そのことにも混乱したが、これから来る衝撃によって、すべて吹き飛ばされた。


「この私にたてつくとは、いい度胸だな」


さっきまで楽しそうに薬を作っていた自由人は、もうそこにいなかった。低く、重い一声。一言で、すべての人を退けてしまいそうな言葉。その言葉に、優作の体が重くなった。本当に、これはアンなのだろうか。自分が知っているアンは、いつも明るくて、言葉の雨を降らせてくる、つかみどころのない自由人。だが、目の前にいるのは、一言で相手の戦意を消滅させる、恐ろしい魔法使いだ。大きな瞳からは殺意があふれ出し、一度でも目があえばそのまま殺されてしまうのではないかと思えてしまう。


 あ、圧倒的だ。


 それが優作の率直な感想だった。勝てるわけがない。こんな奴に。それでもルーズベルトは体勢を立て直し、再び壁を蹴ってアンへと突撃した。無茶だ、クマの人形が。そう思っても、ルーズベルトは少しの迷いもなくアンへと飛んでいく。

 対してアンも体勢を整え、壁に立てかけていた長い杖を左手へと引き寄せる。右手を張り出し、叫んだ。

「バウンド・カタパルト!」

一瞬優作の部屋が歪んだ。いや、違う。突然、大きな空気の塊が出現し、光を屈折させたのだ。空気塊はそのまま猛スピードで突進し、今にもルーズベルトを吹き飛ばそうとする。


 ボワン。


 ルーズベルトは風をつかみ、ひらりと空気塊をかわしていく。空気塊は本棚に激突し、置いてあったものを吹き飛ばす。隙を見て机の下に隠れていた優作も、余波の影響を受けてしまった。

「うわああああああ!」

なんてこった。まさか、この年になって魔法バトルを目の前で見ることになるとは。アンは空気塊を放ち続けるが、ルーズベルトはそれをすべて避け、猛スピードで動き回る。隙を見てアンへと突撃するが、それはすべて防がれてしまう。

「く、ちょこまかと小賢しい!」

アンが強い言葉をこぼす。そう思ったら、また別の構えを取り、再び叫んだ。

「ロー・プレッシャー!」

突然優作の部屋全体で風が巻き起こった。散らかっていたもの、本棚に入っていたものすべてが吹き上げられ、狭い部屋の中とは思えない壮大な光景となった。

(や、やめてくれ……)

優作は、ただ部屋が散らかっていくことを傍観するしかなかった。こんな戦いに自分が参加したら死んでしまう。机に隠れ、災害が収まるのを待つしかない。優作はまだ大きな台風の被害を受けたことはないし、大きな地震に襲われたこともない。だが、そのようなものが来たときは、きっと今と同じような気持ちなのかもしれない。今自分に出来ること。それは、とにかく死なないことだ。

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