第37話 笑顔
田尻明彦は午前中の講義を終え、講義で使った参考書類を古びたバッグにしまっていた。
するとめったに鳴らないスマートフォンに着信音が響いた。
知り合いの少ない田尻に着信があることは珍しいはずなのに、それを訝しむこともなく彼は顔の表情を変えずスマートフォンの通話ボタンを押した。
「先生助けて!!」
通話ボタンを押した田尻のスマートフォンからは突然、女性のそんな半狂乱の声が響いた。
声の主は向坂雪菜だった。
田尻は通話口の相手が向坂と知って、いつもはほとんど顔の表情を変えることがない田尻は、少しだけ眉間の間に皺を寄せた。
「そこはどこだ?」
田尻はいきなりそのことだけ聞いた。
「え?……えっと、渋谷総合病……」
戸惑いがちにそう応えようとした向坂の応えが言い終わる前に、田尻は通話を切り、カバンを素早く肩に担いですでに能面のように無表情にも戻っていた表情を動かすことなく教室を後にしていた。
田尻は自身の授業でよくこんなことを言った
「闇の恐さを侮ることがないように」
しかし彼の授業を聞いてその意味することをしっかり理解できる生徒は果たしていたのだろうか。
それでも櫻井は田尻からのそんな忠告を守り向坂の「闇の怖さ」を回避するべく最善の行動をとろうとした。しかしそんな櫻井でも間違った。自分がまさか闇の存在に刃を向けられるとは思ってもみなかったのだ。
* * *
櫻井は、都内にある渋谷総合病院の高度救命センターに搬送されていた。田尻は向坂の「助けて」という言葉を聞いただけでおそらくすべてを悟ったのだろう。彼の足は迷うことなくこの病院へ向かっていた。
そしてその病院では向坂雪菜が病院廊下の長椅子に座っていた。
「向坂君」
田尻は一言、彼女に声をかけたが……向坂雪菜は田尻の声が全く耳に入らないかのように放心したように焦点の合わない瞳が宙をさ迷っていた。そしてただただ止まることのない涙を流していた。
向坂の隣には見栄えのいい男性が寄り添っていた。
その男性は田尻を見るなり声を掛けてきた。
「東郷といいます。田尻先生ですか?」
「ああ」
「あの櫻井君が……」
「分かってる。君と間違えたのか」
「は?」
状況を説明しようとした東郷を田尻は制して、そのまま不愛想に長椅子の前を離れてしまった。
田尻は病院のスタッフに尋ねることもなく、まるで櫻井がそこにいることを分かっているかのように集中治療室に向かっていた。
田尻が集中治療室に入ると広いオープンフロアーの角にある一番目立たないベッドに確かに櫻井が横たわっていた。この場所の意味するところ。その場所は他の患者と、その患者を見舞いに来る家族の目に触れない場所だった。
田尻は櫻井の横たわるベッドサイドまで歩み寄った。
櫻井の目はもう何も映っていないように無機質に見開かれていた。生気はなくその姿まるで人形のようにも見えた。
櫻井の口には人工呼吸に繋がる管が入れられ、身体にも夥しい数のチューブ類が施されている。そしてこれらは櫻井を”救うためのもの”ではなく彼を延命するために装着されたものだった。この光景は医者の見立てでは既に医学的に彼に施す手は尽きていると言いうことを意味していた。
病院に運び込まれて、この集中治療室で櫻井の姿を見て向坂はショックのあまり倒れこんでしまった。それから彼女は一言も口を開かず今もまだ、ただただ涙を流して放心してしまっている。
しかし田尻はこんな櫻井の様子を見ても顔の表情一つ変えなかった。ただただ櫻井の身体を凝視していた。
* * *
しばらく田尻は櫻井の横で微動だにせず、櫻井が横たわるベッドサイドに随分と長い時間立っていた。病院のスタッフもそろそろ不振がりはじめていた。
”あ、い、あ、あ……あ、い、あ、あ……”
そんな時、田尻が急に小さく言葉を発した。
「あの、どうかされましたか?」
田尻の立ち姿を隣のベッドサイドから怪訝に見ていた看護師が、田尻の怪しい声を聞きつけ、たまらず近づいてきた。
「黙っていなさい」
田尻は看護師の方を向きもせずに、小さな声で応えた。
決して威圧的な響きはなく、声も聞き取れないくらいに小さかったのだが、看護師はまるで金縛りにでもかかったかのように”びくり”と立ち止まった。そして看護師は”眉間に皺を寄せてその場から逃げ出すように行ってしまった。
あ、い、あ、あ……
あ、い、あ、あ……
あ、い、あ、あ……
田尻はしきりとまるで呪文のようにその言葉を唱え続けていた。
A,I,A,A……
A,I,A,A……
A,I,A,A……
どうやら田尻が唱え続けていたのは「母音」のようだった。
田尻はしばらく「A・I・A・A」という母音をひたすら唱え続けていたが、あるところでその田尻の唱える言葉が少しだけ変化した。
母音の前に子音がつき、その言葉は田尻にとっても聞き覚えのある響きであった。
SA・KI・SA・KA……
櫻井のわずかに動く口元。しかしその口元から声は聞こえない。しかし確かに櫻井は意識のない中で一人の女性の名前を呼び続けていた
SA・KI・SA・KA……
その櫻井のわずかな唇の動きからその櫻井の言葉を田尻は再現してみせた。
* * *
ミンデルという一風変わった心理学者の心理療法に、昏睡状態になった患者とコミュニケーションをとる手段がある。それをコーマワークという。『コーマ』とは英語で昏睡状態のことを意味する。
その手法はまさに瀕死の櫻井に田尻が見せたように、患者の呼吸や動き、言葉を模倣するかのように患者とセラピストを一体化させることで実現する。これによってその患者が最後にこの世に残したいメッセージをキャッチすることができるという。
田尻は意識がないはずの櫻井から「SA・kI・SA・KA」と言い続ける櫻井の想いを読み取っていた。
田尻はそのことを確認すると一旦、集中治療室を出てもう一度向坂がいる待合室へ向かっていた。そこにはもう東郷の姿はなく向坂がだけが独り放心して座っていた。
「向坂君」
田尻はもう一度、向坂に声をかけた。
「……」
相変わらず彼女は、田尻の言葉には全く反応しない。しかし田尻はそのことに頓着することなく話を続けた。
「向坂君、これから櫻井に」
「……」
「コーマワークを仕掛ける」
この言葉で……
いままで焦点すらあっていないように見えた向坂の瞳が少しだけ光を取り戻した。
「こ、コーマワーク?」
ミンデルの原文まで読破している向坂はその意味することをすぐに理解した。だから向坂は田尻に必死の形相で問いかけた。
「よ、義人を救えるんですか?」
しかしその向坂の問いに田尻は表情を動かさずただただ沈黙した。
向坂は唇をかみしめながら、また下を向いてしまった。その期待がどれほどむなしいかを向坂自身もよく分かっていたからだ。
「向坂君……君は少女時代にカウンセリングを受けているな?」
田尻は向坂の苦悩の顔から眼をそらさずに話題を”向坂その人”に変えてそう問うてきた。
「は、はい……」
向坂は”なんでそれを知っているの?”とでも言いたげに怪訝な顔で短く返した。
「そのカウンセラーを今呼べるか?」
「は?……今ですか?なんでですか?」
「言っただろう。コーマワークをするからだ」
「ちょっと、意味が分かりせん。私は義人みたいに先生の言うことについていけません」
向坂は少し苛立ちながら言った。
「そうか。それは悪かった。コーマワークは”君に”やってもらう。だから君の心を一番よく知るカウンセラーのサポートが必要とういうことだ」
田尻にしては珍しく向坂にもよく分かる日本語でそう説明した。
「わ、私が?!……なんで!?」
コーマワークを知る彼女だからこそ、それが如何に困難なことか分っている。田尻ならまだしもそれを自分がやるということは到底理解できないのだろう。
「向坂君、時間がない」
しかし田尻は有無を言わさぬ物言いで、向坂に判断を促した。
「……わ、分りました」
向坂も聡明な女性だった。ここで田尻と押し問答していることが櫻井にとって全く意味をなさないことを瞬時に悟りそう答えた
* * *
「え?……た、田尻先生なの?」
向坂が呼んだカウンセラーの女性が、救急入口から病院へ入ってくるなり驚きの表情で言った。
「坂田君。……そうか」
田尻は言葉少なくそう言った。
「え?坂田さんと田尻先生……お知り合い?」
「ええ、田尻先生とは何度か研究会で会ったことがあるの」
向坂の少女時代を救ってきた坂田は児童カウンセリングの分野で知らない者はいない。どの施設でも匙を投げた児童を彼女はその卓越した能力で何人も救ってきている。
だから向坂にとりついた闇はその坂田ですら取り逃がした程、強大な闇だったとうことになる。そしてその闇の犠牲になった櫻井が今まさに生死をさまよっていた。
「田尻先生がついていて……なんでこんなことになってるのよ?!」
坂田は怒気を孕んでそう田尻に迫った。坂田はこの危機的状況をすでに電話で向坂から聞いていた。櫻井とも面識があり、そして向坂の櫻井への想いに気付いていた坂田だからこそ、いつも冷静な彼女にしては珍しく感情的に田尻を責めた。
「私が、私があの闇を取り逃がしたばっかりにこんなことに……」
坂田は悔しさで顔を歪めた。
「坂田君」
田尻は坂田の怒りにも意を介さず、まるで坂田を諭すかのようにその名前を呼んだ。坂田は田尻からそう呼ばれるといつものカウンセラーとしての顔に戻った。
「そ、そうね……今は出来る事に専念しましょう。田尻先生……私は何をしたらいいのかしら?」
坂田も田尻の意図を悟りそう返した。
「これから向坂君にコーマワークをしてもらう。だから坂田君には向坂君をサポートしてほしい」
「な、何を言ってるんですか?そんな危険なこと学生の雪菜ちゃんにさせるというの?」
田尻の提案にさすがの坂田君も驚きの表情を見せた。
「ダ、ダメですよ!!……そんなこと私は絶対反対です!」
「危険は承知の上だ」
「無理です!!」
坂田は強い口調で田尻の提案を突き返した。
「櫻井の命はもう僅かな細い糸でしかこの世と繋がっていない」
急に田尻は、彼にしては珍しく文学的ともいえる表現を使ってそう言った。
坂田もその状況は十分わかっているがゆえに田尻の言葉を聞いて顔を歪めた。
「しかし櫻井は……」
そう言葉を続けた田尻は、今度は向坂の方を向いた。
「今もずっと向坂君の名前を呼び続けている」
「え!?ど、どういうことですか?」
驚きの表情で聞き返す向坂の言葉には答えず田尻は続けた。
「櫻井は死の淵でなお向坂君を探している。彼女を救おうと、その想いだけでこの世に踏みとどまっている」
田尻がそう言うと、驚きの表情で大きく見開いた向坂の両眼から大粒の涙ぽろぽろとこぼれだした。
坂田も苦悩の表情をただ浮かべてるしかなかった。
そして田尻はダメ押しとばかりに言った。
「今の櫻井に届く声は向坂君の声だけだ」
「さ、坂田さん!!……やらせてくだい!やらせてください!……義人と話をさせてください!!」
泣きながら叫ぶ向坂君の訴えはもう絶叫に近いものだった。
「わ、分ったわ……」
観念したように坂田はようやく田尻の提案を受け入れた。
* * *
田尻と坂田、そして向坂の三人は集中治療室の櫻井が横たわるベッドサイドに集まった。
「雪菜ちゃん?コーマワークは分かるよね?」
「はい」
向坂はコーマワークの概要もやり方も十分理解していた。だから坂田にそう言われて向坂の表情に迷いはなかった。
「雪菜ちゃん、分っていると思うけどポイントになるのは櫻井さんの”身体反応”を見逃さないこと」
「ええ……分ってます。私が義人の動きをコピーするんですよね?」
「そう。僅かな動きも見逃してちゃだめ。櫻井さんの動きを……雪菜ちゃんの身体で100%再現する。櫻井さんの身体のリズムを雪菜ちゃんの身体で感じ取って」
「はい」
向坂は櫻井の動きの逃すまいと彼の身体に集中した。
そして彼女は櫻井の動きを寸分たがわずコピーして櫻井の辛さを、彼女の身体でじっくりと感じとっていった。
櫻井の唇に血の気はすでにない。
しかしその唇は……やはり微かに動きながら、彼女の名前を呼んでいた。
sakisaka……
sakisaka……
sakisaka……
向坂はその唇に指をあて、自分の名前を呼ぶその声を……涙をながしながら感じていた。
その時……
向坂に異変が起きた……
「義人!!!……見なさいよ!……私を……見なさいよ!!もっと……もっと……私のことを!!」
向坂が……突如、何かに取り憑かれたように半狂乱で叫びだした。向坂の中にある”闇”が最後の抵抗をはじめたのだ。『闇が暴走』した……しかしこの向坂の闇となんども対峙してきた坂田はその闇の暴走を簡単には許さなかった。
「ほら……雪菜ちゃん?見てごらん?……櫻井君はちゃんと雪菜ちゃんのこと見てるよ?……彼の目をしっかり見てごらん……」
向坂は坂田の声に反応してすぐに動きを止めた。田尻は当然こんな闇の暴走が起こることを予知して坂田を呼んでいた。
ここではじめて田尻が向坂のコーマワークに介入してきた。
「向坂君、坂田君は今なんといった?」
まだ朦朧としている向坂は田尻の声掛けで、少し考えるそぶりをした。
そしてひとこと呟いた。
「ちゃんと見てるよ、だから見てごらん……って坂田さんは言った」
向坂は自分に言い聞かせるようにそう言ってから、その言葉通りに櫻井の視線を求めて、向坂は櫻井の顔を覗きこんだ。
すると、もう何も映っていないはずの櫻井の目が、人形のようになっていたはずの櫻井の目が向坂に向いているように見えた。
確かに見ていたのだ。
今、確かに櫻井は向坂の顔が見えていた。
来ていた。
櫻井は細い糸を便って、最後の力を振り縛って。
櫻井は這いあがってきていたのだ。
向坂の声を求めて。
「雪菜ちゃん!なんか言ってあげて!!」
坂田が叫んだ。
「櫻井君が聞いているよ!!だから雪菜ちゃん!!」
坂田が必死に雪菜に言葉を紡ぐように何度も何度も叫び続けた。
しかしなぜか向坂は一言も言葉を発することはなかった。
向坂はただ……
ただ……彼女は笑っていた。
向坂は何も言わず笑いながら……
彼女の視線は櫻井の”口元”に向けられていた。
向坂はずっと櫻井の唇を見つめていた。
そして櫻井の唇はわずかに、ほんのわずかに動いていた。そしてその唇は向坂雪菜の視線に導かれるように何かを言おうとしていた。
waraeyo sakisaka……
waraeyo sakisaka……
waraeyo sakisaka……
”笑えよ……向坂……笑えよ……向坂……笑えよ……向坂……”
だから向坂は櫻井が大好きだった満面の笑みを……ただただ櫻井に送り続けたのだった。
櫻井もその笑顔をずっと見つめているように見えた。
そしてすでに表情のなくなったしまったはずのその顔は……
少し笑っているようにも見えた。
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