第36話 死線

 ナイフを持ってる野本を見た瞬間、アドレナリンが全身に廻るような緊張が全身に走った。


 あまりに浅はか過ぎて……俺は野本の人間としてのレベルの低さに心底ウンザリした。


 ただ俺は野本が持つナイフを見てから恐怖と緊張で震えが止まらなくなっていた。


 田尻の読みは間違っていなかった。


 間違ったのは俺の方だ。注意すべき相手が違っていた。



 突然のことに頭がついていけない……


 落ちつけ……思考を取りもどせ……



 今日、野本にとって俺が来ることは想定外だろう……


 だとすれば……


 野本は向坂を待ち伏せていたんだ。


 こ、こいつ……向坂を刺そうとしてたのか?


 こ、この野郎……ふ、ふざけるなよ?


 俺は禍々しい憎悪の感情に支配され全身が身震いした。


 おそらく野本は、向坂から俺と向坂が付き合うという話を聞いたのだろう。だからしつこく向坂に迫り……おそらく完全に向坂から拒絶された。


 それで野本は凶行に出たのだ。


 今の俺は野本にとっては最も憎むべき相手なはずだ。


 だから俺を偶然見つけて……ターゲットを俺に変えてきた……



 そこまでの考えに及んだところで……


 野本が不敵な笑みを浮かべて言った。


「お前、覚えてるぞ?フフ……タイミングのいいところ現れたな」


「残念だが、俺の方は印象の薄いお前のことなんか全く覚えてないなあ~」


 俺は残念ながら武道も格闘技の経験もない。ナイフを持ったコイツとやり合うのは得策ではないのは分かっている。だから俺の土俵……”舌戦”に引き込もうとした。


「嘘をつけ。YUKINAから俺のことを聞いてないわけないだろう?」


 ああ、さびしい奴だな。確かに向坂からお前のことは聞いてるけど全部”迷惑な相手”としてだ。


 この勘違い野郎……こんなモブが最後に出しゃばりやがって。


「そんな怯えるなよ。別に俺は人を刺そうなんて思ってないから安心しろ。ただ、YUKINAには少し痛い目に会ったほしいと思ってな。そうすればもっと俺のことを”見て”くれるだろう」


 そうか……向坂の”魔”の正体は”視線”ということに拘っている。


 その”魔”にやれてた野本は、もはや向坂の好意じゃなく、ただ意識してもらうこと、つまり”見られること”を望んでいる。


 そのためには手段を選ばないと言うことか。


 ただ、今目の前にあるナイフの先は俺にしっかり向けられている。


 俺への敵意。


 ”魔”に取り込まれているヤツが今、衝動的に何をするかは正直未知数だ。


 俺は野本の動きに注意を払って再びスマホを耳に当てた。


「向坂……」


「よ、義人……どうしたの?」


「ああ、野本が目の前にいる……」


「えっ!……」


 向坂は言葉を失った。


「向坂……」


 俺は向坂に人を呼ぶよう頼もうとしたが……


 その刹那、野本が突如、俺に突っ込んできた。


 ”マズイ!”


 そう思って、俺は咄嗟に足を出して野本の突進を止めたが、体制を崩して階段から転げ落ちてしまった。背中に激痛が走る。


 スマホは、けたたましく階段の踊り場に転がり落ちた。


 そこからうっすらと向坂が俺を呼ぶ声が聞こえていていた……


 野本はまだ手にナイフを持ったまま階段を下りて俺にトドメをさそうとしている。


 すると、こともあろうか……


 廊下を走るハイヒールの音が廊下の向こうから鳴り響いてきた。


 まさか!!向坂……


 そして、階段の上から向坂が顔を覗かせてしまった。


 〝バカかあいつは!〝


 俺は愕然とした。


 元々野本は向坂を狙っていたのだ。向坂を見れば、ターゲットを向坂に変えてしまう。


 それだけは何としても避けなければならない。


 野本は向坂の存在に直ぐに気付き、踵を返して向坂に向かってしまった。


「向坂!……戻れ!早く!……早く!」


 俺は腕を大きく振りながら、廊下に戻るように叫んだ。


「YUKINA!!なんだやっぱり俺のことが気になって来てくれたのか?」


 クソ!……なんだその妄想は。完全にいかれてる。



 俺がダッシュで階段を駆け上がっても、おそらく間に合わない。


 なら……言葉で止めるしかない。


 ここはやはりもう一度、舌戦で凌ぐしかない……


「野本!俺の彼女に手を出すなよ!」


 野本は俺の言葉に反応して振り向いた。


 よし……それでいい。


 お前が単純なやつで助かった……


「野本、悪いな……YUKINAは俺のことが好きだそうだ」


 野本は怒りの形相を俺に投げかけた。


 その後ろで向坂は赤くなってる向坂さん?……今そのリアククションしますか?



 〝さあ、コッチに来い……向坂から離れろ〝


 俺は野本の顔色を読んでジリジリと階段を上がりつつ、距離を詰める。


「YUKINA?」


 突如、野本が俺の顔を睨んだまま、不気味に低い声を向坂に向けた。


 まずい……


 まだ距離が遠い……


 向坂は恐怖の表情で萎縮した。


「君は……この男が好きなのか?」


 野本は、振り返り向坂の方を向いた。


 向坂は引きつった顔でどう答えればいいとか逡巡している。


 俺は野本が向坂に目を向けた瞬間、歩を急がせて野本との距離を一気に詰めた。


 俺は向坂がどう答えるかハッキリと想像出来た。


 向坂の性格を考えると……向坂は正直に答える。


 でも、その答えはこの場では不正解だ。


 言ってはいけない……


「私は……」


 ダメだ向坂!


 俺は向坂に見えるように首を左右に激しく振って、その答えが間違っている事を伝えようとした。


 しかし向坂は続けてしまった。


「私は彼を……櫻井義人を愛している」


 それを聞いた野本は、狂ったように絶叫しながら向坂に襲いかかった。


 俺も少しづつ縮まっていた野本との距離を一気に詰めて、ヤツに組みついた。




 間一髪、野本のナイフは向坂の身体を逸れた。


 俺はナイフを握った野本の腕を両腕で掴もうとしたが……


 それより早く野本は俺の脇腹にナイフを突き刺していた……


「バ……」


「バカヤロウ……右脇腹はレバーだぞ?……それはダメだろう?」




「よ、義人!!……義人!!」


 向坂は俺に駆け寄ってきてしまった。


「向坂!……く、来るな!!」


 野本は、幸い俺を刺したショックで立ち尽くし固まってしまっていた。


「バ、バカ……はやく逃げろ……」


「ああ……よ、義人!……義人!」


 ダメだ……冷静さを失ってる。




 クソ……意識が遠のく……


「に、逃げろ……は、はやく……」


「やだよ……義人……やだよ……血がこんなに出てるよ……」


 まだ野本は立ち尽くしている。


 ナイフは俺に刺さったままだ。


 クソ……このナイフは絶対抜かせね~ぞ。


 なんとか野本の動きだけは見失うまいと目を見開くが、どうにも視界がぼやけてきた。


 向坂の声も聞き取りにくい……


 まずい……ここで意識を失うわけにはいかない……


 その時、廊下から東郷が飛び出してきたのが、ぼやけた視界でも確認できた。


 よ、よし……ナイスだ東郷さん……


 こ、これで……向坂は助かるぞ……


 東郷は一瞬で野本の腕を捻り上げて制してしまった。


 アハハ……さすが東郷さんだ。


 モブに刺されて何もできない俺とは大違いだ。


 でも……よかった。これで向坂は助かった。


 ああ、気が抜けたら急に疲れたな……






 あれ?




 そういえば……俺なんで階段で寝てるんだ?




 ん?……向坂がいるのか?なんで泣いてんだこいつは?


 ああ、すぐ泣くからな向坂は。でもお前、顔がぼやけてよく見えないぞ?……


 ああ……そうか、俺は野本に刺されたんだ。向坂?……どうした?声がよく聞こえないぞ?


 さっきから、何でそんなに泣いてんだよ……


 もしかして死ぬのか?俺?


 ここで……


 ここで俺が死んだら……


 また向坂はまた闇に取り込まれてしまうじゃないか?それはダメだろう?


 それは絶対ダメだ……


 向坂は俺の視線が必要なんだよ。


 だからダメだ……


 俺は死んではダメだなんだよ……



 どうした?……向坂……なぜ泣いてるんだ?


 顔がみえないぞ、向坂?


 顔を見せてくれよ……


 俺の大好きなその顔を……


 世界で一番綺麗な……その笑顔を……


 俺の大好きな……その笑顔を……


 そうだよ……その笑顔だよ……


 向坂はずっとそうやって笑っていなきやいけないんだよ……


 向坂……笑えよ。向坂……笑えよ。向坂……笑えよ……


 そうだ……その笑顔だよ……


 笑えよ……向坂。笑えよ……向坂……


 向坂……


 向坂……


 向坂……





 向坂……






 さき……さ……











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