第38話 雪菜

 私は会場の『親戚控室』で一人にしてもらった。


 …… …… ……


  彼はいつも私のことを「向坂」と呼んでいた……


 私は「雪菜」と呼んでほしかったが、ついに彼はそうしてはくれなかった。


 でも彼が呼ぶ「向坂」という響きが、いつの間にかとても好きなった。





  私が彼に出会ってすぐの頃、一度だけ「雪菜」と名前で呼んでくれたことがあった。


 私が彼にはじめてLINEを送った時、ちょっと踏み込みたくて「雪菜です」と書いて送ったら……


 彼は目聡くそれを見透して「雪菜ちゃん」と……からかいながら言ってくれた。


 彼が少し照れて言うものだから……私も恥ずかしくなってしまい照れ隠しで気づかないふりをした。


 ハハ……


 そんな昔のことを思いだしていたら、また涙が出てしまった。


 もう昨晩から何度、大学時代の彼との思い出を思い返して……泣いてしまったことか……


 私は”ここ”に来てから……ずっと泣いてばかりいる。


 彼のご両親だってそれどころではないのに……


 気を使ってくれて……私を一人にしてくれた。


 だから今、私は部屋に籠って、……こうして昔を思い出しては……ずっと一人で泣いている。






 彼は、私がいくら「仮面」を被って自分を偽ろうとしても簡単に見破ってしまった。


 彼だけには、私の偽りの仮面なんか全く通用しなかった。


 彼は、びっくりするぐらい私の本音にすぐに気付いてしまう。


 だから仕事場で無理をして被っていた「仮面」を彼はいとも簡単に私からはずしてしまった。


 そして彼は……


 私が仮面を脱いで……醜いはずの本当の自分をいくら曝け出しても……それを全て受け入れてくれた。


 私はそれがなによりも嬉しかった。


 だからこそ……私は彼に会って……すぐに彼の事が好きになった。




 彼にはじめて会ったのは、最初の田尻先生の講義。


 彼は、遠慮がちに三列目の席に座っていた。


 田尻先生の講義に興味がある生徒なんていないと思っていたから……


 目を輝かせて講義を待っている彼の姿にはちょっとびっくりした。


 彼のそんな……少年のような目を見て……


 たぶんすでにあの時……彼に魅かれてしまっていたのだと思う。


 だから、私は偶然を装って彼の隣に座ったけど……


 ホントは彼の隣に座りたくて……座ってしまった。


 これが彼との出会い。



 …… …… ……



 彼にはいつもいつも私の考えを読まれてしまうから……私の彼を想う気持ちなんてとっくにバレていると思ってた。


 だから私の”彼への想い”ばかりが先走って……空回りしてばかりで不安だった。


 それに彼はすぐに周りの女性から好意を持たれてしまうから、ハラハラさせられた。あんなに普通は近寄りがたい上條社長にまで気に入られて……、MISAKIだって彼のことを意識していた。




 だから彼が告白してくれた時は……本当に嬉しかった。


 嬉しくて……嬉しすぎて……直ぐに泣き出してしまったけど、私ばっかり好き過ぎて悔しいから……


「知ってた」


 なんて言ってしまった。


 ホントは全然知らなくて、ずっと不安だったのに。




 ……ダメだ。


 また涙が出てきてしまう。






 もう時間だ。


 そろそろこの部屋を出なければならない。


 ……気が重い。



 その時……


 父が遠慮がちに部屋に入ってきた。


 父は私の泣きはらした顔を見て……顔を歪めた。




「お父さん……そんな顔しないで……」




「お前のそんな顔見たら……」




 父の言葉は途中で途切れ、むせ返る様に涙を流してしまった。







「向坂」


 彼の口からこの名前が発せられることは……もうない。





 私は父と一緒に部屋を出た。


 会場に集まってくれた人たちの中には、私の泣顔を見て貰い泣きしてしまう人もいた。


 彼はいつも「俺はあまり友だちがいない」と言っていたけど、沢山の人が集まってくれている。





 私は彼のいる場所まで進んだ。



 彼の顔は……穏やかに笑っていた。


 その唇は閉じらていたけど……




 その唇は今にも「向坂」と言いだしそうに思えてしまった。




 私はそんな彼の顔を見たら……我慢できなくなり……また泣いてしまった。




 ハラハラと涙がこぼれて止まらない。






 すると……



 彼の閉じられた唇が、おもむろに開いて……


 もう言わないはずの名前を口にした……









「向坂?」






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