第16話 田尻明彦
今日は田尻のサークル説明会の日。
俺がこのK大学を受験したのは、この田尻明彦という深層心理学者の講義を受けたいがためだ。しかし俺としたことが、その田尻が研究サークルを持っていることを知らなかった。
危うく田尻サークルに参加し損ねるところだったが、間一髪、サークル情報を俺にもたらしくれたのが……
向坂雪菜だ。
彼女はおそらくは俺以上に深層心理学を幅広く勉強しており、田尻の師匠筋にあたるミンデルの難解な原典まで読破するエキスパート。正直俺は田尻という超マイナーな心理学で話が通じる相手なんか大学にいる訳ないと諦めていた。ただ一人で黙々と勉強すればいい。そう思っていた。 だから俺にとって向坂の存在はそれだけでもう十分すぎる程に奇跡なのだ。
それなのに向坂雪菜という女性は……
ファッションになんの興味もない俺ですら、その名前を知っていた人気モデル〝YUKINA〝だった。
彼女の、その完成された美しさはモデル界でも一目置かれる程。
俺にとって見れば、こんな出来過ぎた奇跡はありえない。
”異常事態”
そう表現しても決して大袈裟ではないだろう。
だからそんな向坂と「一緒に田尻のサークル説明会に行こう」という約束をした、たったこれだけのことで俺は天にも昇る思いだった。
これが二週間前の話。
しかし事態は思いもよらぬ方向へ動いてしまった。向坂との距離が一気に縮り、こともあろうか向坂の深いパーソナルに関わる問題にまで首をつっこむことになってしまったのだ。
「一緒にサークルに行ける」と狂喜していたころの俺が、たった二週間しかたっていないのに遠い昔のように懐かしく思えてくる……
最近では向坂から普通に着信が来るようになった。
さっきも……
「今日何時に待ち合わせする?」
と今日の説明会の待ち合わせを確認する電話が向坂からあった。
最初のころは毎回ドギマギとしていたが、もうそれもなくなった。
「俺は午後は三限で終わるから、A棟のカフェで時間つぶしてるよ……向坂は?」
こんなふうに当たり前のように応対する俺。
「私は三時まで仕事。それから大学に向かうから……カフェで待ってて」
そして当たり前のように返す向坂。
高校時代の俺なら、これだけで「これってもうつきあっるよね?」なんて一人大騒ぎして一生大事にしてしまいそうな胸熱エピソードだ。
だが今はこれが日常風景という事実。どうやら人間というのは、どんな”異常事態”に遭遇しても簡単に環境適応するらしい。
”ドキドキする”とか”キュンキュンする”とか”激しいく燃え上がる”とか非日常の恋愛感情というのは、やはり一過性のものだと思う。決して長続きしない。だからこのような非日常の恋愛感情だけを追い求めると……おそらくその恋は長続きしない。
ホントに男女で育むべき感情はそんな一過性の異常事態の中にはないはずだ。
時間をかけて……最後は空気のような関係性になる……おそらくまだ見ぬ彼女との関係性で俺が目指すべき場所はそういった場所のような気がする。
まあ告白すらしていない俺が何偉そうに語ってんだよって感じだけどね。
田尻のサークル説明会は5時スタートだ。説明会の場所は研究棟2Fの少し広めの会議室が指定されていた。
研究棟は、理系の実験棟が並ぶ一角にある二階建ての小さな建物だ。理学系や工学系の七階建のモダンな実験棟に比べるとかなり残念な印象を受ける。
心理学という幅広い学問は、実験を中心としたサイエンスのいち面があり理系らしいところも無くはないが、ゴリゴリの文系だ。だからだろうか、理系が強いこの大学では端に追いやられてしまっているようだ。
俺と向坂はカフェで落ち合ってから二人でこの研究等に向かった。
田尻というマイナーな心理学の研究室にはたして人は集まるのだろうか?俺はおそらくそんなに大勢は集まらないだろうと思っている。
最悪、俺と向坂二人だけという可能性もゼロではないのではないか?とまで想像している。
田尻フリークの俺ですらこのサークルの存在を知らなかったのだから、よほどのことがない限りこの情報はキャッチできないと思う。
「義人、何人くらいくると思う?」
向坂も俺と同じことを考えていたようで、そう尋ねてきた。
「まあ多くはないだろうな」
「だよね。でも来るメンバーがいたとすれば、私たちと同じように興味ある人たちだよね?」
「それは期待していいと思う」
なんとなくでこのサークルに来る生徒はまずいないだろう。俺としても田尻というマイナー学問を語り合える仲間が増えるのは嬉しいことだ。きっと向坂だってそうだろう。
俺は向坂が他の男子メンバーと仲良くなるのはちょっとやな感じなんだけど……なんて独占欲の強い狭い男だ!
さて、会議室に入ると、なんとすでに二人のメンバーが椅子に座って待っていた。
おお!いたぞ!俺たち以外のメンバーが。ちょっとした感動。
男女一名づつ。お互い離れた位置に座っているので顔見知りでなく別々に来たのだろう。
「どうぞ、どこにでも座りたまえ」
といきなり上から物を申してきたの男子は、長身だが痩せすぎる体系でメガネを掛けている。その容姿は否が応でも神経質そうな印象を受けた。そしてなんといっても初対面でいきなり空気読まないパンチの効いた物言い。髪も中途半端に伸びてぼさぼさという外見的には典型的なインドアキャラだ。別名オタクともいう。
かたやもう一人の女性。俺と向坂の顔をいきなりジロジロ見るなり満面の笑みを浮かべた。
えっと、何を想像したんですかね、あなたは。
彼女は黒髪のロング。目鼻立ちは地味だが、肌の白さは向坂といい勝負。日本人形のような品のよい美しい佇まいを感じる。普通の大学生という基準では十分に「美人」のカテゴリーに入るだろう。ボーイッシュでスポーティーな印象の向坂とは競合しない美しさだ。
発足したばかりのサークルだから、この二人が俺たちと同学年とは限らない。
メンバーはこれだけだろうか?
予想はしていたが、マンモス校でもあるK大学の生徒が四人しか集まらないなんて……これではさすがに田尻も凹むんじゃないだろうか?
しばらくして田尻は会議室に姿を顕わらした。
田尻は何度か授業で会っている。ただ、改めて田尻と至近距離で会うとなると少し緊張する。最近は向坂に頭の大半を占領されて田尻は隅に追いやられていたが、田尻は俺にとっては憧れの存在だ……って隅に追いやってたのかよ?さすがにそれはまずくね?
田尻はざっと四人の顔を確認してから正面のイスに座った。
「ほう……四人も集まってしまったか」
田尻はそうつぶやいた。
なんだよ、その集まってほしくなかったかのような発言は?田尻が凹むどころか俺が先に凹んだぞ?
田尻はややスリムな体形で背もそれほど高くない。パッと見はどこにでもいる中年のおっさんだ。歳は確か50歳前後だったと記憶する。
ただ、一見どこにでもいるおっさんに見えるが、俺は”あること”に気付いた。
一定距離のある講義では気付かなかったが、改めて至近距離で見ると、田尻は異常なほどに表情が動かない。まるで能面をつけているように。
その実、眼だけは俺らの動きをスキなく捉えているような機敏な動きを見せている。
侮れない……俺は直ぐにそう感じた。
全てを見透かされているのに、相手の表情はまるでロボットのように全く判らないのがなんとも気味が悪く……怖ろしい。
先に会ったKスタジオの上條社長も怖ろしかったが……田尻はまた違った種類の怖ろしさを感じた。
「ここに来たってことは、僕のプロフィールは皆だいたい判ってるんだよね?」
集まったメンバーに田尻はそう尋ねた。
俺たちはお互い顔を見合わせつつ……最後に全員が頷いた。
「オーケー……なら先に君たちの自己紹介をしてもらおうか」
はじまったぞ。
俺は警戒した。
これはただの自己紹介ではない。
”何かを仕掛けられる”そんな気がした。
「おっと……君は?」
「え?……櫻井です」
突然田尻に話しかけられて面喰った。
「櫻井君……そういうのはなしにしよう。これは純粋な自己紹介だ」
っ!!な、なんだ?
もしかして今、俺の思考読まれた?
今の俺の表情から何が解った?あんたエスパーかよ?
「じゃあ、せっかくだから君からいこうか」
田尻は俺が精神的な態勢を戻す隙き与えず、間髪をいれずに追い打ちを掛けてきた。
先手をうたれ、機を制された俺は、動揺を引きづったままたどたどしく自己紹介をするはめになった。
なんだよ、そういうのはなしにしようって。ぜんぜんやってんじゃんかよ?
自己紹介を終えて、いきなりどっと疲れた。
勘弁してくれよ。
のっけから俺のメンタルボロボロだぞ?
そんなドキマギする俺を見て向坂はニヤニヤと楽しそうに笑っている。なんですか?向坂さんは人が苦しんでるのを見ると楽しくなるドSですか?
次にヒョロメガネの男が自己紹介を始めた。
名前は小杉健一。心理学部の二年。
先輩か。確かに田尻の講義では見かけなかった。黙々と聞き手の顔色を読まずにマイペースで話をし続ける姿は安定のオタクキャラ。むろん田尻は顔色一つ変えないが小杉先輩は全く意を介さない。
場が緊張している時にこういった「ちょっと残念な自己紹介」をしてくれると「あれでいいんだ?」と思えて次の自己紹介は非常にやりやすいものとなる。
俺も小杉先輩の後が良かったよ、まったく。今日の俺は持ってないな。
ついで和風美人の名前は「森内美幸」……うん、いい名前だ。容姿との整合が取れてていいなあ、などとニヤついていると……向坂さん?俺のリアクション凝視するの止めてくれる?
俺は向坂の視線にアイコンタクトをして不満をぶつけた。
森内美幸は文学部の一年。田尻の図書には一冊読んだだけで、それほど田尻には通じてはいないらしい。そんなんでよく、このサークルにたどり着けたな。
彼女は見かけに反して、なんとガチなオカルトマニアのようだ。前にも触れたが田尻にはオカルトファンが多い。ただ俺のように自分がオカルトに関心があることに全く負い目はなく、偏りまくった持論を自信たっぷりに展開する度胸はむしろ清々しい。
田尻は熱のこもった森内の持論に全く無反応だが、彼女は全くめげない。和風美人なのに、なんて男前。
最後が向坂。自分はミンデルに傾倒していること。ここで何を学びたいかの明確なビジョンを理路整然と語る向坂はやはりK大の中にあっても特に優秀であると改めて思う。田尻は相変わらず能面のように黙っているが、決して印象は悪くないはずだ。
ここまで完璧に自己紹介されたら後からはやり難いだろうと思った。向坂の自己紹介が最後でよかったとつくづく思った。まあ小杉先輩と森内さんはそんなこと気にしないかもしれないが……って俺だけだな、そんな空気を読み過ぎるチキンは。
説明会は、今後どういった活動をしていくか、具体的なスケジュールなどレジュメに従って淡々と進められた。
サークルとはいえ、この説明会を聞く限りこれは田尻の特別講義を少人数制でやるという内容のようだ。大学のサークルにありがちな遊びの要素は皆無。
田尻の講義内容でも感じたのだが、表情からは全く田尻の事は読めないけど恐らく田尻は意外に真面目な男のように思う。
説明会は30分程で終わった。
俺と向坂は部屋を出ようとすると……
「向坂君……ちょっと時間あるか?」
……田尻が向坂を呼びとめた。
ん?なんだ?……
田尻のことだ、向坂という美女を食事に誘いだすなんて特別贔屓な関係をしようなんてことはないだろう。
では何の用だ?
考えを巡らせていると……「はた」と思った。
田尻……
もしかして気づいたのか?
これは十分ありうる話だ。
いや、間違いなく気付いている。
自己紹介で俺の思考を一瞬で読み解いた田尻だ。
向坂の持つ、周りの男を引きつけすぎる「魔性」に気付かないはずがない。
そこまでの想像をした俺の顔色を……田尻はやはり見逃さなかった。
「彼は……一緒の方がいいかな?」
間髪をいれず向坂にそう尋ねた。
田尻はなんで、一瞬でその問いかけにたどり着けるんだ?俺と向坂の関係性まで一瞬で見抜けるのか?
俺は自分の全てが見透かされていることに震えが来た……
向坂はこの一瞬で何が起こったか全く気付けていない。
おそらく自分がなぜ呼び止められたかすら理解できていない。
だから困惑顔で俺の顔を見る。
俺はここまで首を突っ込んだのだから、これから田尻がどんな話を向坂にするのかは当然知りたい。
でも、ここは踏み込み過ぎてはいけないという警戒音が心の底から聞こえる。
「あ、俺はいいです。必要なら後で本人に聞きます」
咄嗟に俺は同席を辞退した。
田尻は俺の顔を凝視した後……顔色一つ変えず
「そうか」
とだけ言った。
「先生、長くなりますか?」
俺は、向坂を待つつもりで田尻に訪ねた。
「10分程度だ」
「分りました……」
「じゃあ、向坂、下の自販機の前で待ってるから」
「え?……あ……うん、分かった」
訳も分からぬまま向坂はそう答えるのが精いっぱいだった。
俺が想像していたイメージと違う。
田尻……とんでもない怪物だ。
俺は会議室を出ても震えが止まらなかった。
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