第17話:俺からのセカンドテイク
身体は火にかけられるように熱く、吐き出される息も熱を帯びている。
クーラーもついていない部屋は物静かで、差し込む夕日で部屋は生暖かかった。
心音はバスドラムをツインペダルで連打するみたく、激しく脈打っている。上に乗っかっている瑞希に聞こえてしまうんじゃないかと不安になった。
依然として上から退かない瑞希は涙を浮かべ、ぎこちなく笑う。
聞き間違いなんじゃないかと思った。
でも、そうではない。
彼女の声はハッキリと耳に届いていた。
これで聞こえてないとか鈍感主人公にもほどがあるし、逆に言えばこの物静かな部屋で聞こえないわけがない。
俺の身体はしっかりとあの言葉に反応しているわけで。
瑞希の肩に手を伸ばし、起き上がらせる。自分も同時に起き上がって、上に乗っていた瑞希を退かせた。
「ごめん……急にこんなこと言われても困っちゃうよね。私、どうかしてる」
「……」
言葉がすぐには出てこなかった。
何て言えばいいのかなんて分かっているのに、喉元で詰まってしまい、声として音を出すことが出来なかったのだ。
……違うっ! 今はまともに呼吸すらできていないっ!
立ち上がって、足早に靴も履かずに玄関を出る。
「ぶっはぁー!! し、死ぬかと思った……」
驚きすぎたが故に、呼吸する事すらも忘れてしまっていたみたいだ。
深呼吸をして、玄関の扉に背中を預け、もたれかかった。
「緑、ごめん……」
扉を一枚挟んだ向こう側から瑞希のか細い声が届いてきた。
「今のは……忘れて……」
忘れれるわけないだろう。
知らないのは当たり前だけど、俺が今どれだけ嬉しいと思っているんだ。忘れろなんて言わないでくれよ。
「違うんだ、瑞希」
「でも私……緑と一緒に居たいから、この感情は捨てるから……だから……」
「そうじゃないんだよ」
俺と同じことを考えていた。
きっと好意を持ってしまえば、俺達の友達以上夫婦未満という関係性は崩れることになると思っているのだろう。このままで居たいと。
俺はいつか来る別れを心待ちにしていた。
だけど、今は反対の気持ちだ。
いつか来る別れなんて、存在しなくていい、と。
関係が壊れる、それは片側だけの一方的な感情の場合で、お互いが同じ感情なら崩れることはないんじゃないだろうか。
一人が好きで、一人は別れたい。
このような関係だったら、きっと崩れる。
でも、俺達はそうじゃないとさっき分かった。だからこそ——今、言うべきなんだ。
——離れたくないなら、尚更。
心に閉まったばかりのものを、鍵を開けて引っ張り出して、伝えなければ。
——俺も好きだと。
「俺はさ、最初こそ嫌だったんだ。何も知りもしない女と結婚なんてさ。まあ自分のせいでしかないんだけどなっ」
自嘲気味に言ってみせる。
俺の顔が見えないと分かっていても、伝わる気がした。
「そんなことないよ、私のせいでもある」
「あの時の俺は、一生一人で生きていくつもりでいたんだ。その方が気が楽だし、お金にも困ってない。やりたいことは何だって出来るし、自由だったから」
「うん……」
「だけど、こうして結婚してみて、思ったんだよ——瑞希と結婚して良かったって」
言葉を一旦区切って、瑞希の言葉を待ってみたが、声が聞こえてくることはなかった。代わりに聞こえてきたのは、咽び泣く声だけ。
泣いているのを気にしながらも、そのまま続ける。
「過ごしていく中で、最初と今では全然気持ちが違うんだよ。家に帰れば瑞希がいる。そんな無機質で不気味な部屋に、お前がいるだけでこんなにも違うんだって。瑞希の作るご飯はいつも美味しいから、毎日の楽しみの一つだ。寝る時も最近までは別々だっただろ? なんか物足りないというか、寂しいというか、言葉に表わすのは難しいけど、やっぱり隣には瑞希に居てほしいって何回も思った。……これってさ、瑞希だからこそ、こう思えたんだなって今なら分かるんだよ」
相変わらず泣き声以外の返事は聞こえない。
背中を預けていた扉から身体を離し、玄関をゆっくり開ける。
開けた向こうには、立ったまま口を覆って大粒の涙をこれでもかと流している瑞希がそこにいた。
「楽しいんだよ。瑞希といるのが」
「……うん」
すぅーはぁーっと大きく手を広げ、深呼吸。
「俺も——瑞希が好きだ」
「うん、うん……私も緑が好き……ずっと前から言いたかった。でも、言えなかった。怖かったの、緑が離れていきそうで……隣に居たい。緑の隣にずっと寄り添ってたいよ……私はあなたの隣に居てもいいのかな」
「当たり前だろ。約束する。これからもずっとだ、ずっと俺の隣にいるのは瑞希で、瑞希の隣にいるのは俺だ」
「嬉しいよ……こんなにも嬉しいのは初めてだよ……」
抱きしめたい欲求に駆られてしまうが、抱きしめる事はしない。ひたすらに我慢。
手を取って、ちゃんと伝えるんだ。
「——俺と付き合ってください」
「……もちろんだよ。こちらこそよろしくだよ……」
コクコクと首を縦に小さく振った。
そして見つめ合い、このままキス——の予定だったが……どうも俺と瑞希は考えている事が一緒みたいだった。
お互いに肩が震えている。
笑いたくて、笑いたくて、震えている。
堪えているのだ、必死に。
「「ぷっ……、あはははっ!!」」
もうだめぇと言わんばかりに手を握り合ったまま、ついに崩壊。
そりゃそうだ。
ちゃんちゃらおかしい。
よく考えなくても分かる。
俺達はそもそも結婚しているんだ。
なのに、付き合ってくださいって……くくくっ、あほすぎる。
瑞希も瑞希で、よろしくとか言っちゃってさ、何なんだよっ、無理だろ笑わないなんてっ! かぁーーほんと馬鹿だよ。馬鹿。
「俺達って、ばかもいいところだよな」
「本っ当、頭おかしいわよっ、あはははっ」
腹を抱えて笑うくらいだ。
自分たちが一番理解している。
「でもさ、らしいよな?」
「うんっ、私たちっぽいかも」
順番をすっ飛ばし、結婚した。
他から見れば間違っているだろうけれど、俺達はこれが合っていたのだろう。
きっと出会いが違えば、こうして好きになることもなかった。
あるべき順番を取り戻すために、登り切った階段を降りて行くしかない。
一段一段、ゆっくりでもいいから降りて、始めて行くしか。
ゴールをした、でもそれは本当のゴールではない。
偽物で、気持ちを誤魔化して、他者をも巻き込んで欺いていた詐欺師でしかないのだ。
だから、俺達はこの日からちゃんと始めよう。
今日が——本当の記念日だ。
「緑はいつから私のこと好きなの?」
「あ、それは俺も聞きたいんだけど……とりあえず家に上がらないか? こんな玄関で話すのはやめようぜ」
「それもそうだね。じゃあ、お茶用意するよ」
「俺はビールで」
「じゃあ私も久しぶりに飲んじゃおっかなぁ?」
「お、いいねぇ」
こうして玄関から布団の位置に戻り、記念日乾杯! という感じで、缶をぶつけ合った。
♢
「んでさぁ、いつから好きなの?」
「俺から言うの? 瑞希から言ってよ」
「やっ! 緑から!」
うへぇ~と、缶ビールを片手にチー鱈をハムハムと食べる瑞希は、どうやらもう酔いが回っているようだ。
「分かったよ……そうだな。好きだなって思ったのは、出張の日だったな」
「おっそ! 私はもっと前から好きだったんだよぉ~」
遅いの基準が自分基準なのはどうなの?
目を細め、じーっと見ていると「何?」と言うように、小首を傾げた。
「瑞希はいつからなの?」
「うーんとねー」
隣に座っているので、俺にもたれかかり頭を肩に預けてくる。
「私はー、雪菜さんと一緒に飲んでる所見た時に気付いちゃったんだよねぇ」
「早っ、割と序盤!」
そう言うと、むっとリスのように頬を膨らませた。
「しょうがないじゃん! 気付いたら好きだったの。緑が悪いんだもん!」
「なんで俺のせいなんだよ……」
「女とイチャイチャしてるから嫉妬して泣いた。ベンチでずっと考えてた。でもそこに緑が来たの。正直反則だよ、あれ。せっかく自分の中で諦めを付けようとしてたのにさぁ」
「あの時のあれってそっちなのかよ……てっきり、今日聞いたのは、俺は雪菜が好きなのに、私のせいで恋愛が出来ない。みたいな感じかと思ってたわ」
自己嫌悪に陥って、雨に打たれてたのかとばかり思っていた。
「違うよ……好きって気付いて、だけど緑には好きな人がいたから、泣いてたの。この気持ちはどうすればぁーってさ」
「言葉足らずだな、互いに」
「緑はそれでも私に寄り添ってくれたじゃん」
それはどうだろう。
昨日の問題が解決するまでは意外とそうでもない気がするんだけど。
「例えば?」
「茜さんを呼んでくれた。デートに連れてってくれた」
「茜って……もしかしてさ、あいつには俺の事が好きってあの時から伝えてたの?」
「伝えた。でもあの時は諦めるって言ったかも?」
茜の奴……それはあなたがするべきことって、こういう事だったのか。
後になって、当時の状況を知るとは、如何せん気に食わない。俺が未熟だったってのもあるけど。なんかなぁ、何とも言い辛いもので。
「なんかあれだな、もっと話をした方がいいのかもな。俺も瑞希を信じようとしてたけど、結局あいつが好きなんだと思ってたし……会話って、大事だな」
「確かに答え合わせしてるかんじだよねぇ……間違いが多かったのかも、私も緑も」
缶ビールをごくごくと飲んでいき、カンッと音を鳴らして机に置いた。
俺も負けじと、グビグビと呷る。
対抗する意味なんてないのに、美味しそうに飲むからつい。
「難しいものだ」
「違うよ。自分たちで難しくしてただけで、紐解いていったら実は簡単だったんだよ」
言う通りだ。
自分たちで難題を作り上げて、ややこしくしていただけなんだ。
最初から話し合えばって思えば、簡単な事なんだけれど、簡単じゃないからこうなったまで。
いつだって話し合わず、殻に篭って自分で勝手に自己解決し、いい訳として残しておいた。だからここに辿り着くまでに時間が掛かりすぎたのもあるのかもしれない。
まあポジティブに考えれば、
——結果良ければ、全て良し、だ。
夫婦でありながら、付き合い始めた俺達はまだスタートラインに立ったばかりだ。
「これからよろ——」
と、言いかけて言葉を噤んだ。
肩に寄りかかっていた瑞希は缶ビール一杯で夢の中へ行ってしまったようで、すやすやと寝息を立ててしまっていた。
「あぁ、本当に締まらないやつだ」
だから、俺が締めてやろう。
これは俺だけのセカンドテイク。
今度は同意の元でよろしくお願いします。
——そして、そっと瑞希の唇に触れた。
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