第16話:笑顔が見たくて

 トイレへと急ぎ足で向かい、個室に入って鍵を掛けた。

「はぁぁーー」

 溜息なのか、それとも気が抜けたのか、よく分からない息を吐き出して、扉に背を預け、ズルズルと落ちるようにしゃがみ込んだ。


 ——反則だ。


 本当を言えば、一発レッドカードで即退場レベル。……まあ退場したのは私なんだけど。 

 一旦、冷静になるために緑から離れ、クールダウン。顔は真っ赤、動悸は激しく、身体は湯気が出るんじゃないかと思うくらいに熱い。


 クンクンッ。

 腕を上げ、自分の匂いを嗅いでみる……うん、大丈夫。臭くはない。

 一応、念のために汗拭きシートで拭けるところを拭く。

 そして、身だしなみをチェックするために鏡を取り出して、お色直し。デートには欠かせないことである。

 いつも可愛く見られたいもので、女子がトイレが長いのは、あなたの為に化粧を直している最中という事もあるので許してあげてね?

 せっせこと化粧を整えていると、ブブッと携帯が鞄の中で振動する音が聞こえてきた。

 なので一度、化粧を中断して携帯を開くと、緑からのメッセージだった。


『俺、寄りたいところあるから、適当に時間潰してて』


 なっ!? 何なの! 普通は待ってるでしょ!? なんでどっか行っちゃうの!? ありえない!


 ふんすっーと鼻息を荒げ、化粧に戻る。

 鏡を見つめながら、ファンデーションをぽんぽん。

 次にチークをちょんちょん。

 最後にリップをさらりと塗り、これで決まり。


 ぱたんと手鏡を閉じ、鞄にしまう。

 デート中なのに、別行動。

 あるまじき行為である。


 だがしかし! これはある意味チャンスとも考えられる。

 結局、雪菜さんと新くんに遭遇してしまったことで、買い物は中断、緑を私色に染める作戦も同じように中断してしまった。


 だからこそ、この時間を有効活用して緑の服をこっそり買い、サプライズプレゼントしてしまおう! ふっふっふ、喜ばせてやるぞい!

 そうと決まったら、れっつらごー!

 してもないトイレを流し、個室を出た。







 瑞希に連絡は送った。まあ返信は来ていないのだが、既読はついているので、黙認といった感じで捉えても問題ないだろう。

 足早に瑞希がトイレから出てくる前に下の階へと足を運ぶ。

 エスカレーターを降りて、二階を目指す。


 俺は瑞希に喜んでほしい。

 ただそれだけの為にこの行動をしているだけ。決して、物で釣ろうとか考えているわけではない。


 喜ぶ顔が見たい。

 笑顔が見たい。


 恋という感情は俺を突き動かす。

 ここまで長い時間を過ごしてきた。曲がりなりにも夫婦になって、もう四か月とちょっとは経つ。それなのにプレゼントの一つも渡していないのはいかがなものか。


 だからきっかけとしては丁度タイミングが良かった気もする。

 瑞希が好きなものは知らないし、知ろうともしていなかった。これは俺の怠惰な結果でしかないけれど、今はもっと彼女の事を知りたい。


 久しぶりの恋は、存外に悪くなかった。

 いつも壁を作っては取り繕った笑顔を見せ、相手に合わせて逃げてばかり。

 全部が悪いとは思わないけれど、瑞希と結婚して思ったことが少なからずあること。


 ——知って欲しい、そして知りたい。


 それは誰にでもそうであるわけじゃない。瑞希だから、瑞希だからこうやって思うようになれたのだろう。


 彼女は俺を動かす。

 気が付けば身体は動いているし、瑞希をいつも探している。

 ……毎回、どこかに行きすぎな気もするが。

 でも、無意識のうちに彼女を目で追っては、探し回っているのも事実としてある。

 一緒に居たい。楽しい、幸せだと。

 何より、あんなことがあったのにも関わらず、俺は離れることを想像したくなかった。


 どれだけの苦難が待ち受けていたとしても、離れたくはない。

 だからこそ出た言葉だ。


『簡単に離婚なんてしてやらないぞ』


 まるで自分の物かのように言ってみせた。

 瑞希は瑞希で、好きなようにすればいいのに、俺は好きだからそれをさせたくないわけで。

 束縛の激しい気持ち悪い男だと思われてもしょうがないと思う。第三者に何を言われたっていい、俺は瑞希が好きで、大好きなんだと。


 口には出来ない想いは、誰よりも強い。


 ただ……口にしないのは————逃げているだけ。

 関係が壊れるのが怖いから、言葉にして発することを拒んで、喉元で詰まってしまう。想いは告げられない。

 誰にも負けないけど、受け入れられるかは俺の問題ではなく、相手次第だから。

 

 つまり——人間って、面倒くさい。

 これに限る。


 今は瑞希が喜ぶ笑顔を見れるだけで幸せだ。

 言葉に出来なくても、それでいいさ。


 この感情は、心の中に閉まっておこう。

 きっと伝えることは出来ないから。

 

 さて、と。

 目的はあのワンピースだ。

 あの様子だとかなり気に入っていたはず。

 袋も無事手に入れたことだし、隠せる。ありがとう、にゃんださん。あそこの店に売っていて。おかげで瑞希にサプライズできるよ。

 紙袋に入れられたにゃんださんに感謝をして、エヌズコレクションに足を踏み入れる。

 いらっしゃいませと言う声を頂き、先ほど声を掛けた店員さんに声を掛けた。


「あの、さっき……」

「お待ちしておりましたよ。サプライズですね?」


 口に出して言われると恥ずかしいのでやめて頂きたい……。


「は、はい……そうですね。サイズとかって分かります?」

「もちろん。手に取っていたものを避けてあります。きっとあの方はMサイズで問題ないかと。それに無意識のうちにかもしれませんが、手に取っておられたものは全部Mサイズでした」


 マジか……。そこまで考えて服を手に取ってたことなんてないわ。


「じゃあそれのMください。あと——」


 早々に買い物を済ませ、店を出る。

 店のロゴが入った袋を貰い、ビズグラで買った袋の中に入れ込む。

 もちろん、にゃんださんの下に隠して、瑞希には見えないようにね。

 早く戻らないと怒られそうなので、急いで上を目指そう。


 と、その前に。


「あ、もしもし? 今どこ?」

『へっ? 今? 今はねぇ……トイレ』

「そうか。長いな、ほんとに」

『うっさいわね! ほっといてちょうだい!』

「俺は用事済んだから、戻るわ。さっきの話してた休憩スペースで待ってっから」

『はいはい。私もすぐ戻る』







 やばいやばいやばい。早く買わないと!

 ビームスに戻り、あれやこれやをカゴに詰め込んでいき、レジで会計をしていく。


「合計十点で、二万円になります」


 ……買い過ぎた。

 あのワンピースあと一万で買えたじゃん!

 

 ……ううん。いいの、これで。

 私は緑に喜んでほしいだけだから。

 お財布を開けて、諭吉さんを取り出そうとすると——しまった!!

 三千円しかない!

 ぐぬぬ……デート前にお金を降ろすのを忘れていた……。私としたことが……。嬉しさのあまり、うっかりしていた。


「カードでお願いします」


 泣く泣く、使いたくないカードで支払いをし、サインをして商品を受け取った。


「ありがとうございました!」


 袋を手に持ち、もう一軒のお店へ。

 ここは緑が好きそうなストリート系の服が売っているお店で、デザインはシンプルかつ、人気なお店。


 Tシャツは一万を超えたりする、超が付くほどの有名ブランド。

 やっぱり王道がいいよなぁ。

 胸の真ん中の位置に刺繍でロゴが縫われているだけなのに、これだけシンプルなのに、可愛くてシャレオツ。


「緑が着たら絶対似合うよなぁ……」


 口に出す必要もないのに、言葉として発してしまった。

 私の中の緑はかっこいい。


 内面も外見も。

 ……ちょっと待ってよ? 内面はかっこいいかな……? 確かにいざという時はかっこいいけど、そうでもない普通の時は下品だ。


 さっきも『うんこか?』とか当たり前のように聞いてくるところは特にひどい。

 レディよ? これでもレディ。

 緑から見た私は一体どんな風に見えているのだろう。

 友達? 彼女? 奥さん?


 ——きっと、友達よりの友達だろう。


 ……自分で考えたくせに、ちょっと凹む。

 せめても、彼女くらいであってほしいなぁー。無理だろうけど。

 まあそんなことは今はどうでもいい。

 ちゃちゃっと買って店を出ないと!

 ここは定番のTシャツを一枚買い、店を出る。

 

 ……喜んでくれるといいな。

 笑った顔、見たい。







 ベンチに腰掛け、瑞希の長い長いトイレをボーっとしながら待っていると、パタパタと両手に荷物を持っている瑞希が目に入った。


「お、お待たせ! 遅くなっちゃった!」

「なに、買い物してたの?」

「あっ、うん。えへへ……」


 ばれちったーみたいな顔をしてるけど、バレバレというかそもそも隠す気ないよな、それ。


「どんだけ買ってんだよ。ほれ、貸してみ」


 荷物を持ってやるよと手を伸ばすと、サッと手を引いた。


「なに、あげないけど?」

「は? 違うから。持ってやるよって意味だわ」

「ぴぴー、注意!」


 今日はサッカーの日なの? 俺、もう退場してるはずなんだけど?


「いいから貸せよ。重いだろ?」

「まあそれなりに……緑っていつからそんなに私に優しくなったの?」

「いつも優しいぞ。俺は」


 ……お前にだけ、だけどな。


「そうかなぁ? まあいいや、じゃあお言葉に甘えて」

「はいよ」


 袋を二つ手に取って、もう一つの袋も貸せと、手首をくいくいとさせる。


「これは自分で持つから」


 その袋は俺が買ったにゃんださんの入った袋で、大事そうにギュッと抱きしめた。

 ふっふっふ。そんなに気に入ったか、にゃんださんを!

 がっはっは!


「にゃんださんの魅力に今更気付いたか、小童よ」

「は? ださいから」

「ぐはっ!?」


 ださいだ……と? 魅力に気付いたから、気に入ったからじゃないのか!?


「もういいから、行こ? そろそろタピオカじゃない?」

「それもそうだな。行こうか」


 ずっしりと服が詰まっているであろう袋を両手に持ち、二階へと再び戻る。

 こんなにも服を買っちゃって……もしかして、あのワンピース要らなかったりしないよね?

 そんな不安を覚えつつ、タピオカを飲みに行ったのだった。







「はぁー、楽しかったぁ!」


 デート後、私達は家に戻り、ぐでぇーっと身体を伸ばす様に布団へ寝転がっていた。


「久々に歩きすぎて疲れたわ……明日は筋肉痛だ。間違いない」

「長井秀和か!」

「古いわ! 年齢バレるぞ」

「別に隠してないわい!」


 背中を向けて寝転がっている緑の背中をペしりと叩いた。


「疲れたね」

「ああ、本当に疲れた」

「……緑は楽しかった?」


 不安げに小さい声で私は問う。


「楽しかったよ」

「……良かった。私もすごく楽しかった」

「あ! そうだ!」


 急に何かを思い出したかのように、大きい声を上げて立ち上がり、今日買った唯一のにゃんださんの入った袋に駆け寄った。


「どれだけにゃんださん好きなのよ」

「それもそうだが、そうじゃない」

「ん?」


 ポイッと放り出されたにゃんださんTシャツ。

 そんな扱いはやめてあげて! ……って、私も朝はこんな感じで緑の服をぽいぽいしてたわ。

 そして緑は、袋から一つの袋を取り出し、「これ」と言って渡してきた。

 袋にはエヌズコレクションと書かれている。


「え……? なに、どうしたのこれ……」

「俺からのプレゼントだ」

「なんで? 私、誕生日でも何でもないよ?」

「別に誕生日じゃなくてもプレゼントしたっていいだろ……」


 こちらを見ることなく、頬を掻きながら恥ずかしそうに言う緑はなんだかぎこちない。


「開けていい?」

「俺、ちょっと外出てくるわ。なんか暑いなぁー」

「だめ! ここに居て!」


 片手で緑の服を引っ張り、逃げようとするのを止める。


「……わかったよ」


 素直に座った彼の目の前で、袋を開ける。

 中を覗き見て、私は固まった。というか、嬉しくて口を覆った。

 見たらすぐ何か分かった。

 緑が勧めてくれたワンピースが一枚入っている。欲しかったけど高くて買うのをやめた、あのワンピースが。

 口を覆ったまま、緑を見る。


「瑞希……?」

「……あれ、なんでだろ……止まらない……」


 悲しいからじゃない。

 これは嬉しいから。


「だい、じょうぶか?」

「大丈夫なわけないじゃんっ……もうっ……ほんとにばかぁぁぁ……」


 止まらない。

 滝のようにあふれ出してくる涙。

 拭っても、拭っても、ダバダバと流れてくる。


「どうしてくれるのよぉ……」

「え、なに? もしかして要らなかった?」

「……逆だよぉ……嬉しいのぉ……」


 浮かぶ水越しにホッとした顔を見せ、笑う緑。


「あのさ、瑞希。泣かないで笑ってくれよ」

「無理じゃん~そんなのぉ~」


 崩壊するようにわんわんと泣いていると、そっと抱き寄せられる。


「はいはい、よしよし」


 頭を撫でられ、私は緑の肩に顔を埋めた。


「ありがとぉ……みどりぃ~」

「どういたしまして」

「わだじもぉ~緑にブレゼンドあるのぉ~」

「マジで!?」







 一旦、泣きまくっている瑞希を離した。

 赤ちゃんのようにハイハイして、買った袋を持ってきた。


「これ、全部……」

「え?」


 俺が持った荷物。

 それは全部俺の物だったらしい。人の買ったものだったから、見ないようにしていたので、全然気付かなかった。


「全部緑の為に買ったのぉ……」

「えっ、いいの? こんなにも」

「私色に染めてやろうと思ったの……」


 おいおい、こいつ泣きながらとんでもないこと言ったな。

 しかし、染められるのは悪くない。いや、むしろ染められたい……あれま、俺、大丈夫?


「ありがと、瑞希。めっちゃうれしいよ」

「どういたしましてぇ……ぐすっ……」

「言い辛いんだけどさ、そのワンピース取り出してほしいんだけど?」

「なんで……?」

「いいから」


 素直にワンピースを取り出した瑞希。

 そして、また視線を袋に戻し、こちらを見た。


「……これ……もう……反則ぅ……」


 実はもう一枚、買ったのだ。

 水色のワンピース見る前に、俺にどっちがいいか聞いてきたあの黒と白のワンピース。

 どっちの色が本当に欲しかったのかは分からなかったけど、俺がいいなと思った方を買った。


「それに関してはごめん。どっちが欲しかったか分からんかった。だから俺がいいなと思った方を買ってきた」

「……白……正解だよぉ……」

「おっ、よかった」

「緑のばかぁあ!」


 今度は飛びついてきた。

 勢いが強すぎて、支えきれずに倒れてしまう。


「ばかばかばかぁー」

「痛いって……落ち着けよ……」

「どうしてくれるの……? 私どうしたらいいの……もう、だめだよこんなの……」

「何が……?」


 悲しみとは違う涙で、嬉しさという涙ってのは分かっているつもりだが……。


 胸にうずくまっている瑞希は顔を上げた。


 ——そして、


「緑が好き過ぎちゃって、どうしたらいいの……?」

「……はい?」


 それはあまりにも突然で、予想すらしていなかった告白だった。

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