第10話:きっと大丈夫


「いいか、これは頭の片隅にでもいいから忘れずに覚えておいてくれ」


 ——キス後、俺は瑞希を離さずに腰に手を回し、引き寄せた状態で話を始めた。

 瑞希は顔を赤くしたままだった。


 けれど、言っておかなければならない。今、この状況で言うのは間違っているかもしれないけど、どうせ言うのであれば、今も後も一緒だと考えた。


「なっ、何かな?」


「これはあくまでも俺の考えだ。そうじゃない場合もある。でも、そう言う事もあると思っておいてほしい。多分、お前の元カレは寄りを戻そうと伝えてくると思う。……が、本来の目的は多分、やりたいだけ。身体目的だと俺は思っている」


 急に連絡をしてきた。そして、今までの話を聞く限り、他にも女性がいるはず。

 ならば、何故連絡をしてきたか? 


 簡単なことだ。

 今までにいた女性が自分の周りから離れていった可能性が一番高い。

 この京介という男は打算的なところがある。

 バレたらポイして、次の女。

 きっとそいつはこれまでも同じように昔の女に連絡をしていただろう。

 それが今回の標的、つまり瑞希に周ってきたというのが今回の連絡のはず。


 いるんだよな。こういう男って。クソが極まった、相手のことを何も考えてはいない傲慢極まりない奴が。

 瑞希にとっては酷なことかもしれないけれど、頭に入れておいてほしかったので、包み隠さず伝えることにした。


「そう、なのかな?」

「淡い期待を抱くと痛い目を見るのは瑞希だ。俺はWebライターやってるって言ったろ? 昔、そう言う話を聞いたことがある。同業者が仕事で取り扱っていたことがあるって。だから、気を付けるに越したことはない」


「分かった。でもその場合、どうしたらいいの?」

「どうもしなくていい。瑞希は自分がしたいことをすればいい。あくまでも予想の話。絶対じゃないからな」

「分かった」

「あともう一つ」


 スマホを取り出し、アプリを瑞希に見せる。


「GPSキャッチャー?」


 このアプリはリアルタイムで共有している相手ならば、どこにいるか把握できるリアルタイム追跡アプリ。

 怖い話だが、勝手にダウンロードされて、知らぬ間に行動をチェックされるという浮気発見アプリに変わってしまっているのが可哀想である。


 本来は子供に持たせてどこにいるか把握できるために作られたアプリなのだが、趣旨が変わってしまっているのだ。


「一応、念のため。共有しておいてくれ。何事も用意周到で臨もう」

「緑って、私の親?」

「……旦那だろ。いいから入れておいてくれ」

「分かったよ」


 それからアプリを共有し、準備万端にしておいた。


 向こうも用意してくるのであれば、こちらだって同じことをするだけだ。


 あくまでも予想でしかない。

 それに、瑞希があっちに行ってしまう可能性もある。

 気持ちは混沌として、どっちつかず、ただ言えることは瑞希が心配って事だけだ。







 涙を拭き、車の中で座っていた俺。

 瑞希が出て行ってから、数分しか経っていない。

 だけど時間が長く感じた。

 時計を見れば、10時3分。

 まだ3分しか経っていないのだ。


 心配だ。

 おもむろにシートベルトを外し、車から降りた。

 鍵を閉め、店の入り口に向かって歩みを進めた。


 予めサングラスをかけ、ちょっとばかりの変装を決めて。

 独特な鐘の音を鳴らし、店内に潜入成功。まるで名探偵の気分だった。気持ちは晴れやかではないのに、こんな事考えられる俺は存外に負けてないと、どこかで思っているみたいだ。瑞希の言葉を信じていられている。

 いや、これ信じてないからこうなっているのでは? いやいや、ポジティブにいこう。

 この行動は瑞希が心配だから、だ。


「1名様ですか?」

「はい」


 店内を見渡し、瑞希の姿を探す。


「空いてる席どーぞぉー」


 瑞希はっと……あ、あれだな。

 後ろ姿しか分からないというか、頭しか見えていない。座席と座席の間にはそれなりに高い壁がつい立てられているので、横に座ってもバレる心配はないはず。

 頭の形だけで分かる俺もどうなの。結構きもいのでは……? まあ、そんなきもい俺の事なんてどうだっていい。


 正面に座っている奴を捉え、サングラス越しにガン飛ばし。気付くわけないのにとりあえずかましておいた。

 結構なイケメン。

 だからこそ、なのかもしれないな。

 瑞希に、そして京介という男に気付かれないように偶然開いている隣の席に腰かけた。


「ご注文はお決まりですか?」

「えっと……」


 いかんいかん! ここで声出したら確実に瑞希にバレてしまう。

 ごっほんほん。

 意味不明な咳ばらいを披露し、声音を変える。

 いつもより低く、そして渋みのある声で。


アイズゴービィーをびどづアイスコーヒーを一つ


 フッ、完璧。


「もう一度お願いします」


 あれれーおかしいぞぉー? 伝わってなかったなぁ?


「アイスコーヒーを一つ」


 結局、小声で店員さんに近づいて注文した。

 大丈夫。バレてない。

 奇怪な眼差しを送られてしまい、そっと目を逸らした。そんなに見ないで、怪しいものじゃないので……。


 ともかく、何とかここまで順調に来られた。あとは耳を傾け、をしてしまえば、完璧。

 ホッと一息ついて、隣の席の声に耳を集中させた。


『遊びだったんでしょ。あの時は』


 瑞希の声が聞こえてくる。

 相手の反応は……。


『当時はね? セフレみたいな感じ? 都合のいい時に遊んでやれば、やらせてくれる女みたいな? 中々、やらせてくれなかったけどね、瑞希は』


 当然のように発せられた言葉。

 拳に力が入る。

 瑞希の事を何だと思っているんだこいつ。

 我慢だ。我慢するんだ。



 そして、会話は進んでいき、瑞希は正面にいる男をバッサリと切り捨てた。

 安堵し、小さく吐息をこぼした瞬間だった。


『いいんだ? それで』


 引き下がらない男。

 酷く低い声音で言った言葉は脅しにしか、俺には聞こえなかった。

 いや、これはただの脅しでしかなかった。弱みを握っているという話で、それをされたくなければ、俺の言う事を聞けという最低且つ一番最悪な現実だった。


 予想通りと言えば、予想通りかもしれないけど、それを上回る最悪さ、悪辣さだ。


『瑞希とのハメ撮りだよ』

『僕の家に来てよ。……もう、分かるよね』


 彼から、いいや、こいつを彼と呼ぶ必要もない。そんな奴を彼と優しく呼ぶ必要なんてない。クズだ。


 クズが言ったことに対する、瑞希の答えは間違ってないけど、間違っていた。

 声は震え、涙を流す姿。

 見るに堪えなかった。だからと言って、今飛び出しても店の迷惑になる。


 殴ってやりたい。今すぐにでも本当は殴ってやりたい。

 こんなクズに、抱かれてしまえば結果同じ事の繰り返しだ。

 瑞希だって本当は分かっているはず、でもそれが出来ない。……分かるよ。その気持ち。間違ってない。

 誰だってこの状況だったら、ばら撒けばいいわ。なんて言葉を言える人はなかなかいない。


 こうなるのも仕方ない。

 でも、違うだろ? 瑞希……お前には俺がいるだろ。

 言ったはずだ、頼れと。何かあればすぐに連絡をしろって。

 それが間違ってることだぞ、瑞希。


 信じてほしいって言ったなら、信じさせる行動をしろよ。俺を頼れよ、ばかやろうが。


 そうして立ち上がった瑞希は店の外へ出て行ってしまった。

 クズはへらへらと笑みを浮かべ会計を済ませて、出て行く。


 本当にどうしようもない。


 本当にっ! ……瑞希のばかが。


 スマホが振動し、ゆっくりと手に取る。

 画面に表示されたメッセージは……。



 俺は立ち上がり、走り出した。







「釣りはいらないっ!」


 そう言って札を1枚渡して、足早に店を出る。

 道路に出て、左と右を交互に見ても二人の姿はなかった。


 そうだ! アプリ! 

 スマホを取り出して、GPSを開く。

 そこに映し出されたのは、この場所からそう遠く離れたところではない。割と近くにまだいた。


 よし、と走り出そうとした時に店員に声を掛けられてしまい、足止めを食らうが、足を止めることはしない。


「あの! お釣りはちゃんと!」

「ああ! じゃあそれはちょっとの間、そこに車を停めさせてもらう駐車料金としてくれ! 悪い! ちゃんと車は取りに来るから!」


 走りながら答え、前を見る。

 あの馬鹿。連絡が遅いんだよ。

 って、俺もすぐに追いかけなかったのが悪いんだけどさぁ! 



『助けて』



 この一言だけ、送られてきたメッセージ。

 これを送るのに、どれだけ苦労したんだろう。

 やむを得ない状況だったかもしれないから、不問としておこう。

 とにかく今は追いつくことだけを考えるのが先決だ。


 息を切らしながら、止まることなく走り続ける。

 スマホを片手にチラチラと見ては、道を辿って。


 こんなに走ったのは高校以来だぞ。

 俺は言っちゃ悪いがインドア派なんだよ。普段家から出ない男なんだよ。だから普通に辛いんですけどぉ! もぉ! 


 後は曲がり角を曲がって、このコンビニを通り過ぎて、右に曲がったら見えるはず。頼むからもうちょっとゆっくり歩くようにしてくれ、瑞希。


 そして曲がり角を曲がり、見えた二人の後ろ姿。

 肩に手を回されて、萎縮しているようにも見える瑞希がいた。


「瑞希ーー!!」


 自分の中で今出せる最大の声量で名前を呼ぶ。

 瑞希は振り返り、その瞳には涙を浮かべていた。

 クズも同様に振り返って、誰? みたいな顔をしている。


 視線を無視して、瑞希に駆け寄って、彼女の手をこちらに引き取る。


「緑……私……」

「説教は後だ」

「ちょっとお前さ、何なの? こいつは俺の女なんだけど? 汗まみれで気持ちわりーなおっさん」


 おっ、おっさん!? まだこれでも20代だぞ。殴るぞてめえ。


「黙れクズ」


 涙を流す瑞希を抱き寄せ、背中を優しくぽんぽんと叩く。


「俺がいるから。もう大丈夫だ」

「うん……うん、うん……」


 瑞希を離して、少しだけここで待っててくれと伝えて、俺はクズに詰め寄った。


「おいおいおい! 何やっちゃってんの?」

「お前だろ。何やっちゃってんの? 人の奥さん脅して、自分のやってること分かってる? 頭大丈夫? ほんと、顔だけだな。てめえ」


「お前が瑞希の旦那かよ! あっはっは! おぉ、瑞希! こんな奴のどこがいいんだよ?」


 盛大に笑いながら、俺から身体を逸らして瑞希に問いかけた。


「お前の話す相手は俺だろうよ」

「あ? 黙れよ。これから俺は瑞希とお楽しみの時間なんだよ。そこどけよ」


 横切って瑞希に近寄ろうとしたクズを押さえ、引っ張り上げ再び正面に戻す。


「ってーなっ! 何すんだよ!」


 イラついたのか殴り掛かって来る。

 だが、喧嘩慣れしてない。ほんと顔だけ。これから恋愛のれの字も出ないくらいに顔殴りつぶしてやろうか? 

 アホらしい、こんな奴に臆する事もない。


「なっ!?」

「なっ!? って、何だよ。情けねーやつだなぁ。止められたことがそんなに驚くことか? 舐めんなよ、お前」


 胸ぐらを掴み、とりあえず一発。


「がはっ!」


 倒れ込むクズに跨り、もう一度胸ぐらを掴んで、拳を振り上げた。

 ——すると、スマホを取り出して、画面を見せつけてきた。


「お前、これが何なのか分かるか? お前が一番見たくないものだぞ? 俺と瑞希が愛し合ってる動画だ! 今ここで大音量で流してもいいんだぞ!」


 ぴくぴくと震えながらも顔は笑っている。

 この脅しで、俺が引くと思ったんだろう。確かに映っているのははっきりと太陽の明るさであまり見えないが、裸の瑞希だ。

 まじまじと見て、あることに気付いた。


「だから何? 流せるものなら流せばいいじゃないか」

「は? お前これ流したら傷つくのは瑞希だぞ」

「流せばいいじゃないか。ほら、流せよ。さっさと流せよ!!」


 怒鳴り声をあげると、ひぃっ!? と小さく声を漏らした。


「流せないんだろ。瑞希には効いたかもしれないが、俺にはそのやり方は通用しない」


 そう、それは——動画ではないからだ。


 脅し文句に加工された写真でしかなかった。

 パッと見では気付けないだろう。

 再生ボタンをただ加工して、動画っぽくしているだけ。


「自分が何してるのか分かってるのか? 立派な脅迫だぞ。瑞希の気持ちを踏みにじって、またおもちゃのようにしようとして、一体これまで瑞希がお前と別れてから、どんな気持ちで過ごしてきたか分かんねーのか! 真剣だったんだ、お前と一緒になりたいと思ってた。でもお前はどうだ! 自分の性欲の処理でしか考えてなかった。その結果がこれだ。全部自分の過ちだぞ、これからどうなっても全部してきたことが返ってくるたけだ! お前はこれで人生終了だ! 一生後悔して生きていけ、このクズ野郎が!」


 掴んでいた胸ぐらを乱暴に離して、胸あたりに足を置き、電話を掛ける。

 もちろん、警察に。


「あ、もしもし。西警察署でよろしかったですか? 脅迫の件でお電話したんですけど——はい。証拠もありますし、当事者もここにいます。今から来てもらえますか? ……はい、わかりました。お願いします」


「おい、やめてくれよぉ! それだけは勘弁してくれよ! 俺にも大事な家族がいるんだ!」


 縋るように足を掴んでくるが、払ってどかせる。

 まあ、せいぜい警察のお世話になって、家族にも見放されて、どん底を生きればいい。

 誰もお前になんて同情しないのだから。


「だったら尚更、ちゃんと罰を受けるべきだな。出るとこ出ようか」


 情状酌量の余地なんて与えない。

 これはお前がやってきたツケだ。泣き喚いたって何も変わらない。

 これでさよならだ。





 こうして、しばらく時間が経ち、警察官が2人来た。近くの警察署に連行され、俺も瑞希も警察に同行した。

 車内では瑞希はずっと黙ったまま、俺の手を握っていた。

 何も言わずに、静かに。







 事情聴取をされ、証拠となるコメダでこっそりと録音したスマホの録音を提出し、瑞希も被害届を提出した。やっとの思いで解放された、午後14時。

 顔を殴った俺は厳重注意されたけれど、まあこれは俺悪いから仕方がない。


 コメダまで警察が送ってくれたことは驚きだった。

 紅林京介くればやしきょうすけは逮捕となると、送ってくれた警察官が教えてくれ、彼の携帯に入っている写真は全て消去すると約束してくれた。


 家に着き、玄関を開けた。

 その間もずっと手は繋いだままで。

 離れざる得ない状況だと離して、車から降りて歩き始めるとさりげなく手を繋いでくる。

 だけど、何かを話す訳でもなく、静かに歩幅を合わせて歩いて行く。

 俺もわざわざ口を開いて話したりはしない。きっとこうしていてほしいと分かっているから。


 家の中に入り、いつもの日常に帰って来た。

 でも俺も瑞希も家に上がらなかった。

 玄関で靴を履いたまま、その場に立ち尽くして動かない。いや、動けない。

 ギュッと握られた手を見て、手を離した。


「瑞希」


 優しく引き寄せて抱擁する。


「よく頑張った」

「……うん」

「瑞希は頑張ったよ」


 泣くのを我慢していたのか、胸の中で彼女は嗚咽を漏らした。


「……やっぱり緑の言う通りだった……私は結局遊びだったって……」

「そうだな。でも、前に進んだじゃないか。バッサリと切り捨てたじゃん。俺はすごいと思ったよ。同時に嬉しくもあった。もしかしたら瑞希はって考えてたけど、全然違った。かっこよかったよ」


「ぐすっ、わたしぃ、頑張ったぁ、頑張った、んだよぉ……」

「うん。知ってる。よく頑張った」


「もう、前に進む……進める。やっと、終わった……、ちゃんと自分の口から言えた……私、言えたよ、決別できた……」


 ちゃんと自分の口から言ったのを聞いた。

 ちゃんと見届けたよ。

 

 だから、その涙はちゃんと俺が受け取るよ。


 きっと大丈夫。

 明日からはいつも通りに戻るさ。

 瑞希は頑張ったよ。


 でも——この後は残念ながら、お説教だ。

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