第9話:京介という男
——キスをした。
これは俺からの小さな反抗心。
少しだけでも、彼女の心に俺の存在を隙間に埋め込む行為に過ぎなかった。
こんな事でもしないと、俺は押しつぶされてしまいそうになるから。
そうさ、俺は嫌なんだよ。
でも、瑞希がこうしていつまでも気にされるのも嫌だ。
瑞希が見たこともない奴と二人きりで会わせるのも嫌なのだ。
顔も知らない、年齢も知らない、性格も、何もかも知らない存在なんだから余計に。
だからこその小さな反抗心。
頭の片隅にでも俺がいるぞという、現実を叩き込むにはこれが一番だと思った。
ただの存在証明だ。
俺がいるぞという、嫉妬心からきたもの。
瑞希が冗談で言ったのは分かっていたけど、都合のいいように使わせてもらっただけ。恥ずかしくなんてない。
だって——だって俺は瑞希が好きなんだから。
♡
——キスをされた。
初めてだった。
一瞬だったけど、緑からのキスは。
素直に嬉しかった。
それだけで心にぽっかりと空いた穴は埋め尽くされて行った気がした。
緑の存在は、私にとってとても大きな存在だと証明してくれうように。
頭の中に焼き付けられる感触。
同時にもっとしてほしいと思う気持ち。
だけどそれ以上にはしてくれなかったし、私も前みたいに欲を出すことはしなかった。
緑がしてくれた。という現実が私を幸せにしてくれたから。
あの人に会える。
やっと決着がつけられる。
こうして緑が背中を押してくれなければ、きっと私はまた同じ過ちを繰り返していたと思う。
だから、ありがとう。
私にとっての一番は——やっぱり緑だよ。
例え、この言葉が貴方に伝えられなくても、私はあなたと一緒に居たい。一緒に居る未来を選ぶから。
本当にわがままだけど、簡単に離婚なんてしてあげないもん。
私は緑が好き。大好き。
♢
わざわざ車庫から車を出して、瑞希を送り届ける。
車内は静かで、瑞希も俺も話すことはしなかった。
沈黙がずっと続いている。
音楽も流さず、聞こえてくるのはロードノイズとエアコンから出る風の音だけ。
お互いにこれから起こる現実に気を張っている。
何が起こるか分からない出来事を覚悟して、進み始めているのだろう。
一駅離れたコメダには辿り着くまでに、さほどの時間は掛からないのだが、敢えてゆっくり走っては迂回して、緊張をほぐしていく。
だが、それも束の間の時間稼ぎでしかないのだ。
いつかは辿り着く場所に、遂に着いてしまう。
駐車場に車を停め、パーキングに力を込めてシフトレバーを動かしていく。パーキングに入れた手は中々に離れてくれなかった。
シフトレバーを掴んだまま。
駐車はもう終わっている。でも、離れてくれやしない手。ギュッと力を込めた手には汗が滲み始めてきた。
すると、その離れてくれない手の上に瑞希の手が重ねられる。
重ねられた手を見て、ゆっくりと瑞希の顔へと視線を動かした。
「緑、ありがとう」
前を向いたまま、瑞希は呟いた。
放たれた言葉にどんな意味があるのだろうかと、意味もなく考えてしまう。答えは一つしかないのに。分かっていながらも、無駄に考えてしまう。
これまでありがとうの意味が込められているんじゃないかと。
そしてこちらに顔を向け、ニコッと笑って見せてくれた。
その表情に安堵した。
覚悟はできている。
けれど、頭の中では決めていても、身体は素直に瑞希を行かせてやる事の出来ない自分がそこにはいた。
いつまでもこうして停止したまま。進むことが出来ない。
「これまでさ……」
俺は言葉を返すことなく、押し黙っていると瑞希が口を開いた。
「楽しかったよ。すごく楽しかった。短い時間だったけど、たくさんの思い出が詰まってる。勢いで結婚したけどさ、私は緑と結婚してよかったと思ってるよ。……だから、信じて」
「うん」
「じゃあ行ってくる。終わったら連絡するからね」
「ああ、頑張ってこい。……もし、もし何かあったらすぐに連絡しろよ。絶対だ」
「うん、必ずする」
添えられていた手は離れてしまい、名残惜しい。
シートベルトを外し、車外へと出て行く。
ドアを閉める間際に瑞希は敬礼をして、不安にさせまいと俺に笑顔と言葉をくれた。
「では、行ってまいります!」
そんな瑞希の後ろ姿を見送る事しか出来ない。
最後、店に入る前にこちらに振り向いて手を振ってきた。なので、応えるべく俺も振り返した。
口パクで何かを言っていたが、流石に分からなかった。首を傾げると笑みを浮かべて店に入って行った。
「はぁ……」
座席に全体重をかけて、もたれかかる。
目を瞑れば、今までの出来事が走馬灯のように思い返されていく。
楽しかったこれまでの日々。
色んな事があって、たくさんの表情を見てきた。
めんどくさいことも、わがままなところも、天然なところも、優しいところも、怒って、泣いている所も。全て見てきた。
結局最後に出てくるのは、瑞希の笑顔だ。
「負けたくないなぁ。今更だけど……」
空虚に零れる独り言。
同時に涙が頬に流れる感触が肌に伝ってくる。
瑞希を信じる。それなのに、どうして涙が流れるのだろう……。
「頑張れよ、頑張れよ瑞希……」
彼女を応援してるのは自分の為でもある。
他人任せにしか出来ないこの状況に、俺はただ瑞希を信じるしかない。
流れる涙を拭って、一人車の中で届かないエールを送った。
♡
店に入る前に口パクで『緑が好き』って伝えてみたけど、どうやら伝わらなかったみたい。少しだけ声に出ていたけど、気にしない。
やり方としてはせこい。
だから伝わらなくて良かったとも思った。
カランコロンッとコメダの独特な鐘の音を聞きながら、店へと入り京介を探した。
「ここだよ」
私が入って来たことに気付いて、立ち上がって手を振って来る。
店員さんに待ち合わせですと一言告げ、京介のいる席に真顔で向かう。手を振り返すなんてしない。
席に辿り着き、合コンの時のように正面へ座った。
「久しぶり、瑞希。こうして話が出来ることを嬉しく思うよ」
「私も」
適当に彼の言葉に合わせて、アイスコーヒーを注文した。
「元気にしてた?」
どの口が言ってんのよ。
「おかげさまで」
棘のある声音で返答する。
「冷たいな。まるで合コンの時みたいじゃないか」
「そうね。こうなるのも当然だと思うけど」
いつも通りで、昔と何も変わってない感じが無性に腹が立つ。
私の事なんてきっと何も考えていない。あんな別れ方をしたくせに、のうのうと過ごしてきたのだろう。そうよね、当たり前に女がたくさんいるんだもの。
「とりあえずさ、渡したかったものなんだけど……」
言いながら、彼は鞄から渡したいと言っていた物を取り出した。
「はい、これ」
机の上に置かれたものをスライドさせ、こちらに渡してきた。
「何これ、私こんなもの京介の家に持って行ってない」
白く小洒落た紙袋。よく見れば、3℃と書かれている。
「これは忘れ物じゃなくて、僕からの瑞希へのプレゼント」
「は?」
「いいから開けてみてよ」
言われた通りに中から物を取り出すと小さな箱が一つ。綺麗にラッピングされた箱。しゅるりと紐をほどいて、箱を開けると、そこには指輪が入っていた。
「どういうこと? 今さらこんなもの貰っても困るんだけど」
婚約指輪だった。
それなりに立派なダイヤがあしらわれている指輪。
全っ然、意味わかんない。
「結婚しよ、瑞希」
その言葉に絶句。
もう何も返す言葉が見当たらなかった。
はいと答える事も、ごめんなさいと答える言葉すら出てこない。意味不明な突然の告白に私はドン引きをしていたのだ。
思考停止、である。
「どうしたの? 嬉しくないの? 約束してたじゃん?」
「あ、いや、その……要らない」
拒否するように私は右手でその紙袋と箱を彼の方に押し返した。
この人、私の左手についてる指輪に気付いていないの? 馬鹿なの?
「僕は瑞希と別れて……気が付いたんだよ。瑞希が好きだったって。だから、他に付き合って女の人と別れて、自分を見つめなおして頑張って来たんだよ?」
だから何よ。
あなたの勝手な理由に私を巻き込まないで。
「私はこんなくだらないものを受け取るために来たわけじゃないの。決着を付けに来たの。私が遊びだったのか、本気で愛してくれていなかったのか。ただそれだけ。ずっと気になってたことを今日、直接あなたに聞くために来たの」
「だから僕は今答えを出したじゃないか。本気だよ。瑞希が好きなんだ。だからもう一度やり直したい。付き合っていた頃みたいにさ、仲良くしたいんだよ」
カランッとコーヒーに入っていた氷が溶け、音を鳴らした。
一口コーヒーを飲み、平静を保つ。
「遊びだったんでしょ。あの時は」
「当時はね? セフレみたいな感じ? 都合のいい時に遊んでやれば、やらせてくれる女みたいな? 中々、やらせてくれなかったけどね、瑞希は」
「……」
やっぱりな。
私はこいつの性欲処理でしかなかったのか……。本当、最低。
にしてもセフレとか笑える。
別れて気が付いたって何よ。セフレに別れるもクソもないでしょ。やって飽きて、バレたらポイの癖に意味わかんない。
「結婚しようって約束もその場しのぎで言ったってことね?」
「当たり前じゃん。結婚とか重いよ。当時幾つだと思ってるの? 25だよ? まだまだ遊びたいに決まってんじゃん」
ちゃんと話を聞くまでもなかった。
今日だってきっとその気でいただろう。……無理、気持ち悪い。
何度もこいつに抱かれてきたことを考えたら吐き気がする。
「けど、気付いたんだよ。僕は瑞希の事が好きだったって。瑞希も僕の事好きでしょ? 寄りを戻そうよ。僕達ならきっと幸せになれるよ」
「なれるわけないじゃん。そんな甘い言葉で私が『うん、やり直そっか』ってなるわけないでしょ。どんだけ頭の中お花畑なの? 大概にしなさいよ。それに私は結婚したの。あなたよりもっと素敵で優しくて、かっこいい人とね。例え結婚してなくても、こっちがあなたなんてごめんよ。気持ちが悪い」
私は言いたいことを言い切った。
これでいい。
すると、私の言葉を聞いた京介はニタリと口の端を吊り上げ、不気味な笑みを浮かべて携帯を指差した。
「興覚めだな。せっかく用意させたものも台無しだよ。君なら楽に落とせそうだったのに」
舐められたものだ。
「残念ね。じゃ、私は帰るから。話せてよかったわ。さよなら」
「いいんだ? それで」
立ち去ろうと立ち上がると、京介が声を上げた。縋るわけでもなく、脅しじみた言い方で。
嫌な予感がした。
ぞわりと全身の毛が立ちあがるような感覚。寒気すら感じてしまった。
「僕のこのスマホに何が入ってると思う?」
「知らないわよ」
「瑞希とのハメ撮りだよ」
低い声音で発されたことは、嘘だと直ぐ分かった。
「そんな嘘に引っ掛からないわよ。そんなこと私が許すわけない」
「くくくっ、あはははっ! 瑞希が知らないだけ。隠して撮影したんだからなぁ」
——っ!?
冗談よね……? え? は? ちょっ、ちょっと待ってよ……。
「見るかい? ここにあるんだよ。ほら、覚えてる? この部屋」
スマホ画面を見せつけてきて、再生ボタンの奥に見えるのは裸の私と京介だった……。
「……消してよ。……お願い、消して……」
「消すわけないじゃん。馬鹿なの?」
「やめて……そんなの……消してよ……」
ぽろぽろと涙が零れてくる。
腰を抜かし、崩れ落ちる。
「まあ結婚なんて最初から嘘なんだよねー。これも前の女に返されたものを代用しただけ。あはは、まあ瑞希ならいけるかなって思ったんだけど、最初からこうしてればよかったな。結婚してるなんて予想外だよ」
京介の言葉を片耳に入れながら、俯いた顔は上がらない。
ばかばかばかばかばか。なんで私はこんな男と……付き合って……こんなに引きずって……ほんと馬鹿みたい……。
「……何をしたら消してくれるの」
「僕の家に来てよ。……もう、分かるよね」
ただやりたいだけ。
私はそんな扱いだったとこれでもかと知らさられる。
「……嫌だと言ったら?」
「この動画をネットにばらまいちゃおっかなー」
……緑、ごめん。
……約束守れそうにないや……。
「——分かったよ……。行くから消して……」
……ごめんなさい。
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