第8話:瑞希の過去と、そして——これから

 私があの人とお付き合いを始めたのは24歳になって、夏から秋へと変わろうとしていた季節だった。

 たまたま友達にご飯に行こうと誘われて、行った先に彼がいた。

 普通にご飯だと思って行ったのに、ただの合コンに参加させられていたのをよく覚えている。


 一人だけ足りなくて、数合わせの為に連れて来られたみたいで、顔を引き攣りさせながらも軽く挨拶して腰掛けた。

 男は三人。その中でも際立って顔立ちが良かったのが京介で、私の正面に座っていた。


 そのまま勝手に連れて来られた合コンは盛り上がりを見せ、私だけが場の空気に馴染めていなかったのだ。

 早く帰りたいなーと、盛り上がる場を他所に考えては携帯を見ては時間をチェックして、タイミングがあれば帰らせてもあらおうと思っていたのだが、何かを察したのか正面に座っていた京介が私の隣に来たことで阻まれてしまう。


「つまんないね」


 どうやら彼も同じだったみたい。

 遠くを見るように、盛り上がっている彼らを見て、ぽつりと私だけに聞こえる声で呟いた。

 騙されない。

 浮いている私に気を遣って話しかけてきたのが見え見え。こいつはそういう女を狙ってるんだと直ぐに分かった。

 だから拒絶するように私は言葉を放った。


「だったら帰ればいいじゃないですか」


 棘のある言い方で彼との距離を取る。

 すると彼はふっと笑みをこぼして、「君のことをお持ち帰りしようなんて考えてないよ」と言ってきた。


 はいはい。そういうやつが一番考えてるんだよ。と言ってやりたくなったけど、流石に初対面で毒を吐きすぎるのも良くないと思ってやめておいた。


「私に構ってないで、あの会話の中に入ってきたらいいじゃないですか?」

「いやいや、もう無理でしょ? 見てわかんないの? カップリング成功してるじゃん」


 指を差して、あいつがあの子。あいつはあの子だね。と分かりやすいように線を引くように彼らを繋げる。


「で、僕達は繋がらない余りもの。所詮数合わせの一人にしか過ぎない」


 この人も数合わせ要員だったか。というか、名前すら知らない。覚えていない。


「そうですね」

「瑞希ちゃんだっけ? この後カラオケ行くらしいけど、君はもちろん行かないよね?」

「もちろん行きません。あなたとどこかへ行くつもりもありません」


 先に相手の言葉を潰しておく。やっぱり下心満載じゃない。


「あははっ、よくあるやつには引っ掛からないとでも言いたげだ。この後一緒に抜け出そうぜってやつ? ないない。僕も君に興味なんてないから」


 辛辣な言葉だった。

 今、思い返せばこれは彼の策略だったのかもしれないと。


「私もあなたに興味なんてありませんから、ほっといてください」

「それもそうだね。じゃあ僕はもう帰るよ。せいぜい頑張って」


 にこりと人を馬鹿にしたように笑い、席を立ちあがった彼は「じゃあ僕はこれで失礼するよ」と言って、財布から一万円を取り出して机に置き、颯爽と去って行った。

 私もこのタイミングしかないと思ったので、同じようにとはいかないけれど、五千円を置いて店から出た。


「あれ? もしかして僕に気があるのかな? 追いかけて来ちゃった系?」

「違うわよ。帰れるようにしてくれたのはあなたでしょ」

「あちゃーバレちゃったかー」

「バレバレだし、下手くそ」

「じゃあ無事に帰れたという事で、お礼をしてもらわないと」


 これが始まりだった。

 私達が付き合うまでに至るきっかけだったのだ。

 彼が何股もしている人とは気付かずに。


「抱かせろとか言わないでしょうね」

「失礼だよ、それは。僕はこれでも健全なんだ。だから……その、連絡先でも交換できたらいいな。あ、嫌ならいいんだけど……」


 さっきまでは謎の男感出してたくせに、照れながら顔を赤くして言ってきた彼が少しだけ可愛く見えてしまう。

 あれだけこういう男に引っかからないと思っていたのに、私は単純で連絡先を交換してしまった。

 その後、何事もなかったかのように、その場で解散した。

 送ってあげるよとかもなく、本当に興味なさげに。『じゃあ』って言って帰って行った。


 そして、日が経ち——連絡が来ることは一度としてなかった。

 この時から片鱗が見え隠れしていたのかもしれない。

 違う女がいたから、私となんて連絡取らなくても問題なんてなかったと。

 だけど、あの時の私はどうかしていた。

 私は、蒼井瑞希は、自らして連絡を送ってしまったのだ。


『今度、お茶でもどうですか』と。

 なんとも可哀想な女。

 今になれば、私が馬鹿だったのは言うまでもないだろう。

 結局、まんまと騙されてしまった。

 彼の策略通り。情けない。

 






 それからというものの、私が連絡してからは連絡を取り合うようになった。

 休日に会ったりして、デートを重ねるたびに私の恋心は増していくばかり。

 そして、遂にその念願が叶う日が来た。


『僕と付き合ってください』


 待ちわびた言葉だった。

 二つ返事で私は「はい」と返す。

 こうしてカップルになり、手を繋いだり、キスをしたり、身体を重ねたり、大人の恋愛をしていった。


 日を増すごとに彼への想いは強くなり、結婚したいと思うようになった。

 京介も私と結婚したいと言ってくれて、心は踊り昂り、二人で結婚式を挙げるための貯金を始めていくことになり、仕事をより一層頑張ることに。


『愛してるよ、瑞希』

「私も愛してるよ、京介」


 愛の言葉をこれでもかと重ね、幸せの絶頂だった。


 ——だがしかし、それは突然壊れる。


 ある日、京介が仕事があるから会えないと言ってきた。

 まあしょうがないかと思った私は一人で出かける事にして、名古屋駅へ。

 ぶらぶらと歩いて、服やら何やらを見て回っていた時に偶然見たくもないものを目にしてしまう。

 言わずもがな——京介だ。


 女の人と仲睦まじく歩いている所を目撃してしまった。

 腰に手を回し、激しいくらいのスキンシップをして、周りにこれでもかとイチャイチャを見せびらかしていた。

 私は目を背けた。見間違いだろうと、何回も自分に言い聞かせて、すぐには問い詰めなかった。


 だけど、それは一度や二度じゃなく、日が過ぎて行く中で、段々と会う回数は減っていったのだ。

 会える日に、いや、会ってくれる日に私はついに彼の携帯を覗き、携帯の連絡アプリを見た。

 寝ている時にこっそりと。

 パスワードもこれまでの間に何回もこっそりと覗き、解読。解除できるようにしておいた。

 まあ簡単に言えば——黒だった。そりゃもうどす黒。オフホワイトなんてもんじゃない。


 連絡を取っていた女性は一人。多分、あの時の女の人だ。

 現実を知った私は静かにスマホを消して、眠りについた。

 おかしいのか、涙が出ることはなかった。

 思った事はただの一つ。……やっぱりな、だけ。

 きっとどこかで腹を括っていたのだろう。だから涙が出なかった。


 次の日になり、京介の浮気の事を尋ねたら、「あーうん、お前、俺の中じゃ四番目だから」と言われ、何事もなかったかのように家から出て行ってしまった。


 それから連絡は来ることもなく、送っても既読すらつかないようになり、私は振られたんだと思う。自然消滅とは違った形で。私の意思なんて無視。一方的に振られた。


 何も知ることもなく、涙も流すことなく、ただぽっかりと穴が空いただけ。

 結論を言えば、私は遊びだったということだけが現実として残されたのだった。







 仕事中なのに、あまり気が入らなかった。

 どこかぼんやりと、今日緑に話すことを、過去の出来事を整理して考えてしまう。


「……き、……ずき! 瑞希ってば!」


 麻里子に肩を叩かれて、やっと呼ばれていることに気付く。


「あぁ、うん。何?」

「あれ!」


 指された正面玄関。その方向を見ると、またもや京介が来ていた。


「……また来てる」

「旦那には話した?」

「ううん。まだ」

「なんで!? 昨日話すって言ってたじゃない」

「話せなかったの。帰ってきたと思ったら、熱が酷くて目の前で倒れちゃって……色々大変だったの。それに朝話そうとしたら、仕事終わったらゆっくり聞くって言われちゃって」

「……それじゃあ仕方ないか」


 だけど、今日こそ話す。

 そう決めているんだから邪魔しないでほしい。


「裏口から帰ろっか?」

「……うん。ごめんね、麻里子」

「いいのよ。仕方ないわ。もう終わるし、バレないように帰ろう」

「ありがと」

 

 定時になり、私と麻里子は早々に後処理をし、着替えて裏口から外へ出た。


 ——っ!?


「瑞希、久しぶり」


 私は足が止まってしまった。

 だめ、だめ、だめ。私は緑と話したい。今はあなたじゃない。話すべきじゃない。


「瑞希、行こ」


 麻里子に手を引かれ、横を通り過ぎて行く。


「また電話するよ。今度はちゃんと出てね」


 すれ違いざまに私だけに聞こえるように、あの日みたいな声音で言った。

 無言を貫き通し、足早に去る。

 京介も追いかけることはしてこない。少しだけホッとした。






 仕事が終わり、家に帰宅した。

 風邪もなんとか治ったみたいで、雪菜にやたらと弄られて、まあ疲れたことよ。

『よちよちしてもらったのかなぁ? 愛のパワーすごいねぇー? あんなに苦しそうだったのにねぇ?』と、うざいほど言われた。


 まあ確かに瑞希に会って次の日に治ってるとそう言われても仕方がないと思ったけども。

 瑞希の看病のおかげなのは間違いないし、愛のパワーも否定しない。

 だけど今、矢印が向いているのは俺だけ。

 この後、瑞希が帰ってきたら、例の話を聞くことになっている。


「……ただいま」


 なぜか帰って来た瑞希の表情は暗く、声も少し元気がない。

 もしかして、風邪移ってしまったのだろうか。


「おかえり」

「うん、早速だけど、いいかな?」


 お、おう……。まさかこんな早くに話されると思っていなかった。……というか、もう早く話したいといった感じだ。


「ちょっと待ってくれ。何か飲み物をだな……」

「はい、これお茶ね」


 そそくさと準備をされ、机の前で正面を向き合い、並んで座った。


 もう逃げられない。

 いや、覚悟しなければならない。

 いつまでも逃げてばかりなのはやめよう。

 覚悟をしなければじゃなくて、覚悟を決めろ。仕方なしになるな。

 大きく息を吸い込み、吐き出す。


「じゃあ、聞かせてくれ」

「うん」


 目を見て、ちゃんと話を聞こう。

 現実から目を背けてはいけない。

 これが俺の試練の一つだ。


 向き合え、瑞希と。

 向き合え、自分自身と。


「京介ってのは、私の元カレってのは、知っているよね?」

「うん。寝言聞いたし、名前も見たから」


「私ね、その人と結婚する約束してたの」

「うん」


「でもね、違った。私だけだった。私だけが本気だった。向こうは遊びだったみたい」

「うん」


「本当に好きだった。愛してた。だから私は結婚するために色んなことを頑——違う。色々やってきた」


 頑張って来たと言おうとしたんだろうけど、言葉を止めてなぜか言い換えた。言い淀んだ感じではない。

 だからそこを突っ込むのは藪蛇だ。やめておこう。特に他意もなさそうだし。


「それで浮気現場に遭遇して、その日を境に会える日も減っていった。そしてその数少ない会える日に私は彼の携帯を見たの。そしたらやっぱり浮気してて……」


 浮気ね……俺もされたことある。


「その次の日、私は彼に聞いたの。それで私は四番目だからって。四番目って、他に三人もいる。もしかしたらもっといるかもしれないとも思った。そのままあとは何も言わずに家から出て行って、音信不通。私はその時点で振られた。何もかも真実も知らないまま」


 聞いた話は俺でも辛さが分かる。

 何も知らずに、今までの時間を無に戻されて、なかった事にされる。

 付き合う時はいつも二人の共通認識が必要なのに、別れる時は一方的で。

 これほど辛いことはないだろう。


 もしかしたら瑞希だって許していたかもしれない。到底許されることではないけど、それを決めるのは本人だから。

 だけど、それすらもさせてもらえず、目の前から消えて行った。

 当たり前の様にあった現実が、今までの幸せが全て無に帰されたということはしんどい。

 だからあの日、瑞希は躊躇したんだろう。

 俺が瑞希の立場だったら、多分同じような反応をすると思う。


「今から私が言う事で、もしかしたら緑は嫌な思いをするかもしれない」


 大体の予想はついている。


「いいよ。続けて」

「あれから何回も電話が掛かってきているの。それともう一つ、昨日今日で会社に本人が来てる」

「は? それはストーカーでは……?」


 そこまでして会いたい理由……俺にとってはいい事ではなさそうだな。


「それに近いね。でも私は電話も出てないし、今日話しかけられたけど、無視して帰って来た。私が話す相手は緑だから」

「そう言ってくれるのは嬉しいけども……」


 だからと言って、ずっと無視している訳にもいかないだろ。


「私は緑が一番大切なの。だけどね——京介に会いたい」


 瑞希の目はいつになく真剣だった。

 分かってた。そうやって言うことを。

 冗談でもなく、躊躇しているわけでもない。真面目に言っていた。

 目も泳いでいないし、瑞希の覚悟は決まっているようだ。


 ——逃げるな。


 俺はどうしたらいいのかを考えるんだ。

 いつまでも逃げてばかりで、嫌な物からまた目を背けるのか。


 違う。

 俺は変わりたいんだ。ちゃんと瑞希と向き合いたい。

 これでだめになったらなんて、今考える事じゃない。


 じゃあもう答えは一つしかないだろ。


「分かった。会ってこい。ただ……条件付きだ」



「……条件?」

「喫茶店で会ってくれ。俺もそこに行く。あっ、違うぞ。一緒に居るわけではないから安心してくれ。車でその場まで送って行く。これは瑞希とその相手の話だ。俺が介入することはない。だから、終わるまで待たせてほしい」

「うん。分かったよ」

「あー、あと一つ。絶対に家に行くことはしないでくれ。これは絶対に約束してくれ」

「約束する」


 これでいい。例えどんな結果になったとしても。

 俺は彼女の背中を押すことにした。


 好きな相手だから、好きな相手と居てほしい。彼女にとっての幸せを俺は望む。

 でもこれは強がりと言われても仕方がないものだ。


 結局、言いたいことは言えないけど、向き合えたと思う。

 多分、元カレは寄りを戻したいと言ってくるだろう。悪い意味で。

 これほど執拗に連絡してくるという事はだ、間違いなく良い事ではない。きっとそういう事だと思う。男の俺だから、男の気持ちじゃないけど、考えは分かる。とても理解はしがたいものだけど。


「緑」

「何だ?」

「話を聞いてくれて、私のわがままを聞いてくれて……自分勝手でごめんね。こんな風にしたのも私なのになんて言ったらいいのか……」

「あのな、俺は前も言ったけど、簡単には離婚してやらんからな」

「……私もそうだよ?」


 だったら、その言葉を信じて——君を待つよ。







 電話が掛かってきた。

 表示を見なくても分かる。京介以外に電話を掛けてくる人はいない。

 私は緑と目を合わせ、頷く。

 ふぅーっと深呼吸をし、応答ボタンを押す。

 緑の前でちゃんと出る。


「もしもし」

『やっと出てくれたね。嬉しいよ』

「会社まで来て、一体何の用事?」

『瑞希に謝りたくて、今度会えないかな?』

「うん、いいよ。丁度私も会いたかった」

『じゃあ明日とかどう? 瑞希は土日休みだったよね? 空いてる?』

「いいよ、明日ね。場所と時間は?」


 淡々と言葉を続けていく。

 大丈夫。平静でいられる。


『渡したいものあるからさ、僕の家でどうかな?』

「それは嫌。渡したいものがあるなら、持ってこればいいじゃない。家には行かない」

『別に何もしないよ』

「それでも嫌。こっちから指定させてもらうわ」


 場所はいつもの喫茶店とは違う、一駅離れた同じ店名の店を指定した。


『分かった。じゃあ時間は朝の10時で』

「はい、じゃあまた明日」

『ちょ——』




 何かを言いかけたが、電話を切った。

 緑は不安そうな顔でこちらを見ていた。


「……終わったか?」

「うん。明日の10時にコメダに行くことになった」


「そうか。分かった」

「私の事、心配?」

「当たり前だろ。ちょっといいか?」


 手招きをされ、緑に近づくと、手を取られて引っぱられる。


「えっ、緑!? どうして……」

「頑張れ。俺はこんな事しかできない」

「……ありがとう。頑張るよ」

「待ってるから」

「うん」


 抱き寄せられた身体に私は応えて、手を背中に回す。


「……そろそろ飯にしないか……自分でしといてなんだけど、恥ずかしくなってきた」

「ふふっ、何それ! もうせっかくいい気分だったのに」


 緑の体は少しばかり熱い。

 ちゃんと終わろう。


「緑、あの日みたいにキスしてみる?」


 身体をのけ反らせ、腰に回していた手を肩に置いて緑の目を見て言ってみる。


「はぁっ!? しないだろ!?」

「冗談よ、じゃあご飯作るから」


 肩に置ていた手を外し、離れようとしたら……緑が離してくれなかった。


「何……? どうしたの? また熱?」

「いいや、違う」

「じゃあどうしたの?」

「あっ! あれって!!」

「えっ!? 何々!?」


 釣られて横を見るけど、何もないじゃん。


「何もないじ——」


 突然、だった。

 顔を緑の方へ向き直した時。


 唇に柔らかい感触が伝わってきた。


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