第6話:ぎゅっと
どうやら簡単には治ってくれないみたいだった。
熱はどちらかと言えば、上がったと思う。
少しだけぼーっとするが、仕事が出来ないほどではない。
それに今日は昼に帰っていいらしい。
でも新幹線は夕方の乗車券だから、それまで時間を潰すか、駅員さんにお願いして時間を早めのに変えて帰るか。
まあ後者だな。
意味もなく東京に居たって仕方がないし、体調も優れているわけでもないので、早めに帰れることに越したことはない。
その前に瑞希から頼まれていた、チーズケーキを買いに行って、帰ろう。
瑞希はきっと楽しみにしてるから。
パソコンと睨めっこしながら、仕事を進めていく。
こういう時に力仕事じゃなくて良かったと思う。多分、力仕事だったら早々に倒れてる。
社内はガンガンにクーラーが効いており、寒い。だが、スーツを着ているので何とか堪えれる寒さだった。
周りは半袖のシャツでクールビズ。ネクタイも締めていないので涼しげだ。
逆に自分がおかしいくらいの格好をしている。浮きまくり。マスクもして、ネクタイもビッチリと締め、スーツを着て。
今、真夏だぞ。あいつ大丈夫か? という視線がちょくちょく送られてくるが、ほっとけって感じ。
見たら分かるだろ、風邪引いてんの。
こっちから言わせてもらったな、クーラーの効かせすぎなんだよ! ここは鍾乳洞か!
「体調戻らないみたいね」
「あぁ」
自分でも驚くくらいにガスガスの声だ。
「でも何とか仕事くらいは出来る」
「無理しないでよ? それと今日家まで送ろうか?」
「そこまでしなくて大丈夫だ。ありがとな」
咳をしつつ、雪菜の提案を断る。
「そう言うと思ったよ」
「まあ、な。ありがとな、雪菜」
「ここは会社です。プライベートと仕事を分けてほしいところです」
ドヤ顔で言ってやったりと。
「……俺の感謝を返せ」
小さく恨み言をぼやき、静かに笑って仕事へ戻る。
彼女は優しい。きっとそれは俺だけに向けられたものじゃない。誰しもにだと思う。
俺には雪菜を幸せに出来なかったが、いつかいい人が現れることを切に願う。
探せと言われているから、それなりに罪滅ぼしではないけど、探してみようとしている。まあでも、いないんだけどね。
♡
緑は大丈夫かな?
仕事中、心配ばかりで中々身が入らなかった。
私は結婚したけれど、あまり彼を知らない。
風邪を引いた時、どんな感じなのか。
簡単に言えば、病院に行くか行かないかみたいな?
一日で治っちゃうタイプなのか、それともズルズル引き摺っちゃうタイプなのか。あとはぶっ倒れるまで我慢しちゃうタイプもある。
どれに当てはまるか分からない。挙げた三つ以外の可能性もあるし。それ以外って何か私には考え付かないけど。
「ねぇ、瑞希。あの人ずっとあそこで座ってない? 何だろう。誰か待ってるのかな?」
視線を下げていたので、全然気付かなかった。
麻里子の言うあの人は、私の視界に入っていなかった。
視線を上げ、正面玄関外を見てみると、そこにいたのは——
その人は白のTシャツに、黒のスキニーを穿いたシンプルな服装の男の人。
綺麗な瞳に、整った顔立で携帯を触りながら誰かを待っているように見えた。
あれは……。
——京介だ。
間違いない。見間違えるわけがない。
二年ぶりに見たけど、何も変わっていなかった。
仕事終わりまで、後少し。
彼と付き合っていた頃からここで働いているので、あの人はまだここに勤めていると思ってここに来た。それ以外の可能性は考えられなかった。
自意識過剰かもしれないけど、彼が待っているのは私だ。
「麻里子、今日は一緒に帰ろ? 裏口から」
「いいけど……ってもしかして、あれって、この前聞いた元カレ?」
「うん……実は昨日、何回も電話掛かってきてて。無視してるの」
あれから何度か着信があった。でも出なかった。
「今日だったよね。旦那さんが帰って来るのって。って事は、今日あの人の事を話すんだよね?」
「うん。そのつもり」
「じゃあまだ会う訳にもいかないね。この状況じゃ。あまりにも一方的すぎるし、流石の私でも会うのはやめた方がいいと思う」
「だよね」
「仕事が終わったら、さっさと帰ろう」
「ごめんね。私の事なのに」
ここで緑に黙って、秘密裏に会うわけにいかない。
私はまず緑と話さないと。そこからだ。
わざわざ会社まで来てるのは、何故? 私に何の用があるの?
電話じゃなくても、直接会わなくても、用事があるならメールでも問題はないずだ。
とにかく目を合わせてはいけない。あと10分もすれば、私はこの場から立ち去れる。
だから早急に変える事だけを考えよう。今日は緑が帰って来る日だし。
身の回りの片づけを済ませて、退勤時間が来たら即更衣室に戻れるようにだけ準備をした。
♢
瑞希が言っていたと思われる銀座のチーズケーキの白らら。
そのお土産が入った袋を片手にやっとの思いで着いた名古屋駅。
気怠さは未だに残ったままで、進む歩みも重い。
早く帰って寝たい。でも……瑞希の話も聞きたい。
ゆっくりな足取りを少しだけ速めてタクシー乗り場へと行く。
雪菜も同じ新幹線に乗って帰って来た。
どうも寝ていた時に、雪菜の肩に寄りかかって寝ていたらしく、申し訳ない事をした。さぞ、重苦しかっただろうに。
だけど「あなたは病人何だから、このくらいで謝らないで」と突っぱねられてしまい、ごめんと謝るとまた怒られてしまった。
今回の出張では雪菜に迷惑ばかりだ。
今度、この埋め合わせはさせてもらうとしよう。
そうしてやっとの思いでタクシーに乗り込むことが出来た。雪菜とはここでお別れ。
「雪菜、世話になったな」
「ううん、いいの。これくらい当たり前だから。惚れて私の所へ来てもいいんだよ? あ、でもでも、離婚してからきてね」
「何だよそれ」
「とりあえず、家に帰って奥さんによちよちしてもらいな? ぷぷっー! よちよちされてる緑は結構きもいかも」
「自分で言って、自分で笑うな。でもまあサンキュ。まじで助かった」
「いえいえ、明日しんどかったら連絡して? 休みって伝えといてあげるから」
「何から何までありがとうございました」
「焼肉ね?」
「おう、了解。じゃーな」
窓を閉めて、タクシーの運転手に行き先を伝え、車は家路に向かって走り出した。
あと少しだ。あと少しでゆっくりできる。
♡
何とか京介とは会わずに、家に帰って来れられた。
まだ緑は帰っておらず、家の中は真っ暗だ。
連絡もないし、まだ新幹線の中かもなぁーと考えつつ、私はご飯を作る準備に取り掛かっていく。
緑は風邪を引いているから、喉も痛いだろう。声も枯れてたし、喉に優しいものを作るとしよう。
定番はお粥か雑炊だね。
お粥だとお腹空いちゃうかな? まだ雑炊の方がお腹は膨れる気がするし、味気ないのもあれだから雑炊にしよう。
作るものが決まったので、部屋着に着替え、その上からエプロンをつけて準備完了。
スマホを開いて、レシピの載っているアプリを立ち上げていく。
——カンッ、ガンッ! カンッ!
外から階段を登る音が聞こえてきた。
緑だ! 緑が帰って来た!
アプリを開いたまま、キッチンにスマホを置いて外に出る。
重そうな荷物を持ってゆっくりと上がってきたマスク姿の緑。
近寄って、荷物を持ってあげた。
「おかえり」
「ただいま」
目元だけくしゃりと皺を寄せ、笑ってくれた。
「これ……お土産のチ——」
「ひゃっ! えっ! 緑っ!?」
急に抱きついてきた、と思ったのも束の間。
緑は意識を失って、いや、家に帰って来たことで気が抜けたのか、私に倒れ掛かってきたのだ。
身体がすごく熱い。すごい熱じゃん!?
ひとまず肩に腕を回して、緑を家の中へ引きずるように運んで布団で寝かせた。
結構重いのね。全身の力が抜けているからだと思うけど、どれだけ無理してたんだよぉ、もう!
こんなになるまで我慢しちゃだめだよ。
タオルを氷水の入ったバケツに浸して絞り、おでこに乗せる。
それから外に放置したままの荷物を取って部屋に戻った。
今のうちに、ご飯だけでも作っておこう。
ちゃっちゃか準備をして、雑炊を完成させる。
ご飯は冷凍があるから、それを使って……これをああして……それでっと——
——よし、完成だ。
あっという間に完成。小さい土鍋が合って良かった。
味は分からないけど、多分大丈夫だろう。美味しいはず。
緑の元へ移動して、タオルを交換。
顔をちょんちょんと拭いてあげ、同じようにタオルを乗せた。
息苦しそうにしている緑を見ているとこっちも苦しくなってくる。
辛いのにお土産までちゃんと買ってきてくれていた。嬉しいけれど……でも、もっと自分の身体を大事にしてよっ……ばか緑。
汗は酷く、シャツは濡れている。
どれだけ我慢してたのかよく分かる。
ここまで濡れていると逆に冷えて良くないよね……無理に起こすわけにもいかないし……どうしよう。
「緑のばかたれ」
そう言いながらも頭を撫でた。
「っん……みず、き……?」
「うん、瑞希だよ。大丈夫?」
「……ここ、家か……」
意識がはっきりしないのか、私の顔も判断できてない。あ、それは髪の毛切ったからかもしれないね。
「家だよ。ちゃんと帰ってきたよ。お土産もありがとう」
「……あれで、よかったのか?」
「うん。あっ、ちょっと、起き上がっちゃだめだよ。緑、今すごい熱あるんだから」
「でも、着替えたい」
そっか、このままじゃいけないんだった。
「Tシャツとズボンね。今日はちゃんと着ること」
緑が起き上がるのを少しだけ手伝って、タンスからTシャツとステテコを取り出して渡した。
「あ、ちょっと待って。身体拭いてからの方がいいよ。汗がすごいよ」
「じゃあ、タオルちょうだい」
「私が拭いてあげる」
「……自分で拭けるから」
「だーめ。今は黙って私の言うことを聞いて?」
「……はい」
少し濡らしたタオルと乾いたタオルで優しく背中を拭いていく。
「腕上げて?」
と言えば、素直に聞いて上げてくれる。
緑は虚ろげな瞳で、ぼーっと何かを見ていようだが、多分何も見えてないし、見ていない。
半分以上、目が閉じていた。
「じゃあ次はズボン脱いで?」
冗談で言うと、緑は嫌そうな顔をして、手を出してくる。
「下は自分でやるから……」
流石の緑もこれには反対した。それもそうだよね。
タオルを渡すと、立ち上がってパーテーション方へとふらふらとした足取りで隠れた。
そして、着替えてふらふらと戻ってきた。
「瑞希、髪切ったんだな。……似合ってるよ」
「えっと、その、うん……ありがと」
唐突な褒め言葉に狼狽えてしまう。
絶対に言わなさそうな緑に言われると、つい胸が弾む。
茜さんっ! やりました! 褒められました!
「よっこいしょ……」
布団に寝転がった緑は手を伸ばし、私の手をぎゅっと握った。
「……どうしたの?」
「……」
何も言わない。
久しぶりに触れた手は熱く、そして大きかった。
最後に握ったのはいつだったっけ? もう結構な間、緑には触れてなかった気がする。
「悪いけど……話は明日で……今は聞けそうにもない」
「うん。いいよ」
今はこうして私も触れていたい。
触れれたことに嬉しくて、涙が滲む。零さぬように必死で堪えて、私もぎゅっと握り返した。
「……少しだけでいいから、このままでいてくれるか?」
「うん……私もこうしてたい」
私の言葉を聞いた緑は安心した顔をし、そのままゆっくりと寝息を立て始めた。
離すまいと指を絡め、座っていた体勢から一緒になって横になる。
熱い——けど、温かい。
会えない時間が、会えない寂しさが、私を変えてくれた。
離れてやっと気持ちを決められた。
離れてもっと好きになった。
いないと楽しくない。一緒に居るから楽しいんだと。気付かせてくれた。
『……一人だとさ、その部屋なんか気味悪いだろ? 俺気付かなかったけど、瑞希がいるから明るくなるって思ったんだよ』
緑が電話で言ってたのは、こういう事なんだと気付いた。
嬉しい……。本当に嬉しい。
そうやって思ってくれていることが。
あなたがいないこの部屋は暗い。
一人で居るよりも、緑と一緒に居たい。
「好き、だよ。緑」
「……ん、俺も……」
——寝言だ。きっと今のは、寝言。
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