第5話:決意

「本当にいいんですか?」

 

 声は震えていた。

 念を押して聞いてくる。これで三回目だというのに。

 そう何回も聞かれると、こちらとしても、大丈夫かな? やめておいた方がいいのかな? と不安になってしまう。

 良いと言ったら、良いの! 早くやっちゃってよぉ! 気持ちが変わる前にぃ!

 とは、声を大にして言えないので、普通に返す。


「お願いします」

「……分りました」


 濡れた髪の毛にハサミが通っていく。

 耳近くで鳴る、ジョキッという音。

 鏡を見れば、私の髪の毛は段になって肩近くまで切り落とされていた。

 

 ——さよなら、私の髪の毛よ……。


 緑の出張二日目の夜。

 私は仕事終わりに予約しておいた、美容院に足を運び、決意の断髪式を行っていた。

 大人になってからずっと通っている美容院で、ずっと私を担当してくれている美容師さん(店長)に切ってもらっている最中だ。

 切る前のカウンセリングで、店長にとても驚かれてしまった。


『え!? 切っちゃうの!? 肩ら辺まで!? 失恋!?』


 こんな感じで、驚いていた。

 こうなるのも仕方がないっちゃ仕方がない。

 以前から私はずっと同じ髪型で、店長もそれを知っている。

 急にこうしてバッサリとミディアムボブまで切るという事に驚かざるを得ないだろう。


 まあ、言っちゃあ何だけど? 私は失恋したわけじゃない。そもそも告白なんてしてないし、振られるという状況にすらなってないわけで。

 これからかもしれないし、もしかしたら……なんて都合のいい事は考えないようにしている。期待すればするだけ、ダメだった時に辛いから。 いわゆる、抑制だ。

 そもそも私が緑に告白するとも限らないし。


 ただ、今回は緑の好みに合わせるわけではなく、決別の意であって、たまたま条件が重なっただけ。……本当だから。うん……本当だからぁぁ!

 床を見れば、髪の毛の束がたっぷりと落ちており、鏡を見れば、段のついていた髪型はきれいに切りそ揃えられていた。

 今までとは違う自分の姿に少々驚きながらも、気分は新鮮で悪くなかった。


「もう後戻りはできないからね?」


 ひとまず切り終えると、店長は悪戯に笑いながら言った。


「似合ってますかね?」

「似合ってるよ! こっちもいいよ! 完成を楽しみにしておいてね? ご要望通りのボブにして、最高に可愛くしてあげるから!」


 女の人を想像してるかもしれないけれど、店長は男で割と年齢は上だと思う。

 前に年齢を聞いたら、そういうのは聞いちゃダメだよ? と言われたので、この人はそっち系の人だと私の中で纏められた。


 一度シャンプーをして、乾かされていく髪の毛。

 濡れている髪の毛と乾いた後の髪の毛では長さが少し違う。ちょっとだけ乾いてる時の方が短く見える。


「これから少し整えて切っていくからね。前髪はどうする? 切りそろえる? それとも横に流す?」


 髪型の雑誌を手に取り、ペラペラとページをめくっていく。


「横に流すとこんな感じですかね?」

「そうそう。もう少しだけ切って、目にかかるくらいにするよ。今はちょっと長すぎるからね。それでセットする時は巻きアイロンで流す感じかな?」

「分かりました。なら、これでお願いします」


 雑誌に載っているお姉さんを指差し、お願いした。


「了解。じゃあ切っていくねー!」







「ごほっ! ごほっ!」

「ちょっと、大丈夫?」


 出張二日目にして、風邪を引いた。

 どうやら昨日、身体が熱かったのは気持ちの問題ではなく、単に風邪を引いていたからだったみたいだ。いや、でも気持ちも熱かったのは間違いない。


 雪菜が背中を優しくさすってくれる。

 昨日あんな一件があったのにも関わらず、彼女はいつも通りにしてくれていた。

 感謝しかない。本当に。

 俺達の関係は壊れると思っていたから、こうして普通にいられるのは雪菜のおかげ。

 何もかも助けてもらってばかりで、自分が情けなくなる。

 どことなく遠慮してしまっているのは俺だ。

 だから俺が遠慮するのは失礼だろう。きっと雪菜もそんなことは望んでいないはずだ。


「大丈夫だ。普通に風邪引いただけ。薬局で薬買うわ」

「じゃあ私も一緒に行く。心配だし!」


 会社からホテルに戻る途中、どうやら風邪は本気を出してきたみたいで、仕事中は今みたいにしんどくなかった。


 喉と頭が痛い。少し熱が上がって来たんだろう。疲れと同時に。寝れば治るはず。


「昨日、どうせ腹出して寝てたんでしょ?」

「股間以外は出して寝てた。いつものスタイル」

「パンイチかよ! 分かりづらい言い方やめてよねっ! もう! 服くらい着て寝なさいよ」


 いつも通りのスタイルだから。それは無理。瑞希も何も言わないし。

 ただ抱きつかれている時はいつも服は着た方がいいと思うくらいで、結局着ないんだけど。男だもの、仕方ない。気付かれてないからOKなのだ。


それに風邪の理由はそれじゃない。

 雨の日に傘も差さずに、外を歩き回って、ブランコで座ってたからだと思う。自分が一番分かっている風邪の原因だ。


 と、考えると瑞希って身体強いよな。だって、あいつもずぶ濡れでいたことあったけど、風邪引いてないし。……丈夫なんだな。


「今日はちゃんと服着て、暖かい格好して寝なさいよ!」

「……お母さん」


 手で口を覆い、感動しているポーズをしてみた。


「誰がお母さんじゃいっ!」


 素早いツッコミだった。

 うん、雪菜のこういう所は好きだ。友人として、一緒に居て楽しいと思える。


「ま、薬飲んで早めに寝るとするわ。明日は最終日だし、何とかする」

「あんまり無理しないでよ? あんた昔に倒れたことあるんだから」

「大袈裟だ。大丈夫」


 いつしかそんな事もあったな……。


 そして、薬局で薬とポカリと冷えピタとインスタントのみそ汁やヨーグルト、ゼリーをぼんぼんとこれでもかと言わんばかりに詰め込んでいく、雪菜。俺じゃない。


「こんなにいらねーよ」

「だめだめ! いるの!」

「食えんって」


 どんだけ食わせるんだ。こいつ。ゼリーなんか三つも入ってるし。


「どうせ喉痛いんでしょ? 昔もそうだったじゃない。本当は辛い癖に強がって、最終的にぶっ倒れるじゃん」

「昔のことだろ。今は強がってないから、本——ごほっ!」

「ほら! 咳出てるし! あ、マスクマスク!」


 会話をしながらも、雪菜の手は商品を取っては、カゴにを繰り返していた。

 俺は諦めて、黙ってその様子を見ていると、小首を傾げ「何?」と言ってきた。


「いや、何でもない」

「言っておくけど、これ今日一日の分じゃないから。明日の分も入れてるんだからね! はい、最後はレジ前にあるのど飴を買って終わり!」


 詰め込まれたカゴを強引に渡され、レジへと向かう。

 ……にしても、買い過ぎなんだよなぁ。

 俺が買うんだから、少しくらい選ばせてほしいもの。と思いながらも、言われた通りに飴をカゴに入れて会計に進む。


「合計2600円です」

「……はい」


 高いわ。まじで買い過ぎだろ。

 仕方なしに、財布から野口さんを三枚取り出し、支払いを済ませた。







 切り終わった髪の毛。

 どこかへ行くわけでもないが、セットしてもらった。

 一応、これからは自分でセットしないといけないので、教えてもらいながらした。

 自分の姿は今までに見たことない、変わった自分。

 失恋で髪の毛をバッサリ切る人の気持ちが分かった気がする。してないけど。

 すべてを忘れるために切るわけじゃない。過去とさよならする意味があるのだと思う。


 生まれ変わった自分がそこに居た気がしたからそう思えた。

 私は失恋じゃないけれど、変わる必要があった。

 似合うとか似合わないとかの問題じゃなくて、変わりたかった。

 外見を変えたって何の意味もないと言われてしまうかもしれないけれど、私には効果絶大だった。

 変われる——きっと変わる。


「よしっ!」


 胸の前で拳を握りしめ、美容院を後する。

 外はもう夜の喧騒に包まれていて、酔っぱらったサラリーマンがそこら中に歩いている。顔を赤くして、時には肩を組んで歩いていたりと。

 名古屋駅周辺は少しだけお酒臭いなーと思いつつも、帰りを急ぐ。

 別に家で誰かが待っている訳でもないけれど、私はあの家に帰る。

 そこは私の場所だから。帰りを待つ相手がいるから。


 地下鉄に乗り、ドアが閉まっていく。

 笛を吹く駅員さんに合わせるように電車は動き出した。

 ガタンゴトンと一定のリズムも段々とピッチを早くして、進んでいく。

 そしてトンネルの中に入り、窓に映し出される自分の姿。

 改めて見ると違和感しかないけど、変わったんだという実感も沸く。

 いつも映し出される姿とは全然違う。表情も、纏うオーラも、心の気持ちも。全部が一新されていた。

 


 そして家に着き、ホッと一息を付いているとスマホが鳴った。


 ——嫌な予感。


 鞄からスマホを取り出して、画面をみると『緑』の一文字。

 ……良かった。


「もしもし」

『もしもし』


 緑の声は少し枯れていた。


「今日はどうしたの?」

『特に理由はないけど……』

「そっか。仕事は大変だった? なんか声枯れてるけど、疲れた?」

『そんな事ないんだけど、少し風邪引いたみたいで。ごほっごほっ……悪い、うるさかったな』


 風邪って……あの時が原因だよね。……私のせいだ。


「ごめんね」

『違うから。そうじゃなくて、今日はそんなことを話すために電話したんじゃないぞ』

「うん……じゃあどうしたの? 昨日も電話したよ?」


 んーーと唸ってから、緑は口を開いた。


『……声が聞きたくなったから電話、したんだよ……』


 声が小さすぎるのと、歯切れが悪すぎて何言ってるのか全然聞こえなかった。

 無理してる。本当は喉が痛いんじゃないのかな……。


「よく聞こえなかったから、もう一回言ってくれるかな?」

『だから、瑞希の声——』


「あ、ごめん! なんかキャッチ入っちゃったみたい」

『ああ、じゃあまた明日、な。早めに帰るようにするから』


「うん。また明日。ちゃんと暖かい格好して寝るんだよ? パンツ一丁はだめ」

『母か』


「奥さんだよ。心配して当然でしょ? ゆっくり休んでね」

『そうだな、じゃあ……お休み。声聞けて良かった』


 声、聞けて良かった……って言ったよね? 

 ん~! もう! 

 切り際に言うのはずるいよ! 私も声聞けて良かったって言わせてよ!


 ぷんぷんと怒りながらも、割り込んできた電話に切り替えようと耳から外すと、その電話も切れてしまった。

 誰だっただろうと、履歴を見て折り返そうとしたが、その手は止まった。


『京介』


 と、残っている着信履歴。

 あの日から一度も掛かって来なかった電話がこうして再び掛かってきた。

 もう間違い電話じゃない事だけが確信に変わる。


 なにか用事があるのだろう。

 だからと言って、出るわけでもないし、折り返すこともしない。


 まず私がやるべきことは、この人と話すことではなく、緑と向き合うこと。

 画面をスワイプさせ、ホーム画面に戻した途端、画面は切り替わり、再び着信が入る。


 ……しつこいな。

 そう思った私は、音量ボタンを押して、消音にした。

 ベッドに放り投げ、お風呂へ入ることに。


 

 シャワーを浴びながら、考える。

 私はどうすれば一番いいのかを。


 きっと自分がしたい事は、緑にとって一番の最悪手だと思う。


 でも私への罰だ。

 ここを乗り越えなければ、私はいつまでもダメ。

 これで終わってしまうのなら、私はそれを受け入れる覚悟でいる。

 間違えてはいけない。



 だから——ごめんね、緑。


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