第2話:出張
家を出てから一時間が経った頃に俺は家に帰った。
瑞希が公園のブランコでずぶ濡れになっていた時のように俺もあの公園のブランコでずっと座っていた。
冷静になるために、何も考えずに、ただ座っていただけ。
玄関を開けると、床に一枚のバスタオルが一枚置いてあった。瑞希が置いてくれていたみたい。
その場で服を脱ぎ、頭と体を拭いていく。
瑞希はリビングでベッドに背を預けながら、うたた寝をしている。
起こさないように、家に上がり瑞希に近づくと、彼女の頬に涙が流れた跡が少しだけ残っていた。
「ごめん……瑞希……」
♢
俺達は土曜のあの時から会話という会話をすることなく月曜日を迎え、仕事に励むわけだが……。
昼休憩後、課長に呼び出された。
「白石、文月。ちょっとこっちに来てくれ」
課長に呼ばれ、二人で課長のデスクに行く。
「なんだろうね?」
「さあ、分からんな」
呼ばれる理由が俺達にはよく分からなかった。
「課長、どうしましたか?」
「急で悪いんだけど、二人で明日から出張だ」
「「はい?」」
突然の出張命令に俺と雪菜は驚きを隠せなかった。
いつもだったら前もって教えてくれていたのに、急にしかも、雪菜と二人で。
「なんでまた?」
「ああ、どうも東京の本部の方で問題が起きたらしい。だから少し人手を借りたいと向こうからの打診があったんだ。だから優秀なお前たち二人を送ることにした」
「それって、何日間ですか?」
「明日から3日間。火、水、木まで。ホテルはもう手配してある。新幹線の席も確保してあるから、今日は早めに帰っていいから、出張に向けての準備をしてくれ。あ、これチケットな。それと金曜日は昼からの出勤でいい」
「分かりました」
そう言って渡される新幹線の切符を受け取り、俺達の出張が決まった。
デスクに戻り、椅子に腰かける。
「文月さん、課長に呼ばれてましたけど、何だったんですか?」
柴ちゃんが問い尋ねてきた。
「あぁ、なんか俺と白石は明日から出張って話」
「えっ!? 私は!?」
「柴ちゃんはここの仕事をするだけだ。さほど忙しいわけでもないから、多分課長は柴ちゃん一人でも出来るって判断したんだろう」
明日から出張って事は瑞希にも伝えとかないとな。
……少しだけ安堵してしまう。
今は気まずいし、何を話したらいいのかもわからないから……。
「えぇーそんなぁー」
「ごめんね。芽衣ちゃん。仕事だからさ、私達も頑張ってくるから、芽衣ちゃんも頑張ってね!」
雪菜の顔はなんだか嬉しそうだった。
何でとは言わないけど。分かり切っているから。俺もそろそろ言わなくちゃいけない気がする。いつまでもいつまでも引き伸ばしていくのは関係を悪化させるから。
頭で理解していても、どこか言い辛いし、気を遣う。
俺が話すことによって関係が崩れるかもしれないし。このままの関係でいたいと考えてしまう。でも、ずっとこの関係がいい訳でもない。
当たり前のことを出来ない自分に少々腹が立つ。
「ともかく、明日から悪いけど柴ちゃんは頑張ってくれ。何かあったら白石が対応するから」
「なんで私なのよ! 緑がやってよ!」
「もうどっちでもいいですから……頑張ってください」
呆れ顔でやれやれと言わんばかりに、ため息をついた柴ちゃんだった。
♢
仕事を早めに切り上げ、帰宅した。
早速、明日の準備を始めることに。
三日分となれば、それなりに荷物は多くなる。
Tシャツに、ワイシャツ、パンツに靴下。トラベルセットをキャリーケースに詰め込んでいく。
スーツは着ていくからいいとして、他に何がいる? うーん……と唸っていると、瑞希が帰って来た。
「ただいま」
「おう、おかえり」
流石にこのくらいの挨拶はしている。
気まずい中でも多少は会話をする。瑞希の様子を窺って、瑞希も俺の様子を窺って。その繰り返し。
「出て行くの……?」
その言葉に思わず吹き出しそうになってしまうが、なんとかギリギリで持ちこたえた。
だって普通出て行くなら、瑞希だろ。ここ俺んちだぞってね。
「違う違う。明日から出張なんだ」
「そうなんだ」
「だから、木曜の夜まで帰って来ないからさ、弁当も夜ご飯もいらないからな」
「うん。分かった」
どこか寂しそうな顔をした瑞希。
「たまには実家にでも帰ってやりな? ここに一人で居ても暇だろ」
「そんな事ないよ。まあでも考えておく。明日は朝早いの?」
「どうだったかな……」
渡された新幹線の切符を財布から取り出して、乗車時間を見ると7時半出発になっていた。って事は、家を6時50分には出ておきたいよな。雪菜と合流する時間も含めて。
「うーん。7時前には家を出るかな」
「朝ご飯は? 食べて行く?」
「いや、いいよ。新幹線でなんか買って食べるわ」
「……分かった」
こんな感じ。
いつもと違う。些細な変化だけれど、会話に楽しさはない。まあこの会話に楽しさがあるのもどうかと思うけど。
キャリーケースに荷物を詰め終わり、ぱたんと閉じてファスナーを閉めると、机に置いてあった俺のスマホが音を鳴らした。
——これは一体、何の悪戯だろうか。
あの時と一緒だった。
逆の立場になって、瑞希の気持ちが少しわかった気がする。
瑞希はスマホの画面を見て見ぬふりをしたのだ。
「緑のスマホだよ。鳴ってるの……」
中々取ろうとしない俺に瑞希は小さく言った。
見られていけないことはないのだが、どこか居心地が悪い。
きっとあの時の瑞希の気持ちはこんな感じだったんだろう。
やましい事があるわけでもない。ましてや瑞希は電話に出たわけでもないし、向こうが掛けてきただけ。何も瑞希は悪くないのに、俺があんな態度を取ってしまったが故にこうなってしまったんだと改めて自分の醜さに辟易する。
「……分かってる」
机に置いてあった、未だに鳴りやまないスマホ。
その画面に表示されているのは『雪菜』という名前。
きっとあの時の瑞希の気持ちはこんな感じだったのだろう。でも、瑞希はこの人を知らない。それだけが唯一の救いだと思った。
せこい考えかもしれないけれど、良かったと思ってしまった。
「……もしもし」
出ないわけにもいかない。仕事に関する電話だろう。
俺は普通に出た。表情を変えずに。
『あ、もしもし。雪菜だけど』
「何だ?」
『明日さ、新幹線乗る前の待ち合わせ場所どこにするか決めるの忘れてたから。どこにする?』
「銀時計でいいだろ。何時にする?」
ちらちらと電話をしながらも、瑞希に目を配ると彼女もまた居心地が悪そうだ。
『んー、7時?』
「分かった。じゃあまた明日、な」
『うん! 楽しもうね!』
仕事に行くんだぞ。何言ってんだこいつ。
「はいはい。じゃーな」
電話を切り、机にスマホを置く。
だんまりとして、正座をして座っている瑞希は、聞き辛そうに口を開いた。
「あ、明日の……その、出張は女の人と行くの?」
「……そうだけど」
「そっか……頑張ってね」
ぎこちない笑顔。
無理して作ってる笑顔。
いつしか見る事が出来なくなった瑞希の笑った顔を思い出してしまう。
——あの頃は本当に楽しかった。
♢
そして月曜日になり、朝早くに目を覚ますと瑞希は既に起きていて、何やらキッチンでおにぎりを作っていた。
最近一緒に寝る事も無くなった。
瑞希がベッドで寝て、俺は布団で寝る。
彼女が布団に入ってくることもなくなった。
「早いのな」
「ひゃっ!?」
後ろから声を掛けたものだから、驚いて肩が跳ねていた。
「悪い。脅かすつもりじゃなかったんだけど。その……おはよう」
「おはよう」
「……何でおにぎり作ってんの?」
「えっと、緑がお腹空いた時にでも食べるかなって……いらなかった?」
「そんな事は言わないよ。ありがとう。新幹線で食べる。節約にもなるしな」
普通にありがたかった。
こんな状態でも、俺のことを考えておにぎりを作ってくれるなんて思いもしない。
瑞希もこの状態を何とかしたいと考えているのかも……。そう考えるだけで、心は少し落ち着いていく。
「着替えるわ」
「うん、出てくときまでには包んでお弁当の箱に入れておくから」
「ありがとう」
予め準備しておいたスーツを身に纏おうとした時に、ある一つの事に気が付いた。
シャツがアイロンがけされていたことに。
……こんな綺麗だったか?
パッと後ろを向くと、箱におにぎりを詰めている瑞希。まあ……しかいないよな。
そう思いながらも、シャツに袖を通し、着替えていく。
そして準備を終えた頃、丁度時間になったので、キャリーケースの取っ手にビジネスバックを引っ掛け玄関に向かい、靴を履いた。
よいしょと声に出して立ち上がると、瑞希がこちらに寄ってきた。
「はい、これ。おにぎり3つと少しだけおかずが入ってるから、時間がある時にでも食べてね」
「ありがとう。じゃあ行ってくる。夜の戸締りだけはちゃんとしておくんだぞ」
「分かってるよ。心配しなくても、大丈夫だから」
「そうだな、俺達は大人なんだし。……じゃあもう行かないと時間が……瑞希、シャツありがとな。行ってきます」
「え、あっ、うん。頑張ってね」
瑞希から受け取った軽食は温かく、なんだか自分も温まった気がした。
俺もいつまでも意地を張っている場合じゃない、この出張での3日間で整理を付けよう。
雪菜の事も、瑞希の事も。
♡
私は緑が好きだから。
自分に出来ることをするしかない。
それが結果として表れなくても、やるしかないのだ。
今やれる事をひたすらに、ただ真っすぐにやっていくしかない。
これから3日間、会えない。
だからこそ、その間に整理を付けよう。私が私であるために、しっかりと緑と向き合うために。
見送った後、振り返ると空っぽの部屋。
……寂しくなるなぁ。
こんな状態でも緑がいてくれるだけで、こんなにも違うんだと空っぽになった部屋を見て思う。
空虚な空間が私を苦しませる。
——当然の報いだ。
私が悪い。
きっと昨日の緑のように電話に出て、私が突っぱねさえすればこうはならなかった。
でも、ああして出られるのも割とくるものがあったけれど。私がした事は1番、
あの電話はこの前、ご飯を食べていた人だろう。
『雪菜』と表示された画面を見て心が痛くなった。何回も刺された。痛みは止まらなかった。
ずっと頭の片隅に残っている。
だけど、私が彼の事をとやかく言う筋合いもないから、見て見ぬふりをした。
心は痛いまま、今もこの先も多分。
……読んでくれるといいな。手紙。
仕事頑張ってね。
心の中で、密やかに緑にエールを送った。
「私も頑張るから」
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