第1話:瓦解

 季節は八月になり、夏真っ盛り。

 以前連れて来られたカフェに、今度は私が茜さんを連れてきた。

 前と同じ席に腰掛けていた。

 窓から見える空模様はどんよりとして、分厚い雲に覆われており、これでもかと雨粒を降らしている。


「緑の好きなタイプ? っていうかさ、瑞希ちゃんは緑の応援するって言ってなかったっけ?」

「はい。言いました……でも、やめたんです。好きって気持ちは抑えられそうになくて、好きにさせてしまおうって考えたんです」


 それに私達は最近上手くいっていない。

 とりわけ何かが変わったわけではないけれど、些細な変化は私には分かる。私も緑も取り繕ってばかりで、前みたいにというよりはそれ以上に酷い。


 もちろん電話は出ていない。出るつもりもなかった。

 しかし、心は僅かながら揺らいだのも事実。

 あれから電話が掛かってきたことはない。結局、間違い電話だったと私の中で勝手に納得して、頭の片隅に追い込んで仕舞い込んだ。


「少しでも緑に好きになって欲しくて、好みに近づきたいと。そう言う事でいいのね?」

「はい、そうです」

「健気か!」


 あっはっはと声高らかに手を叩いて笑う茜さんだが、こっちは笑えない。

 ひとしきり笑い終え、そうねと一言呟いてから言葉を続けた。


「じゃあ見た目ね。その髪型! 緑はね、瑞希ちゃんみたいなロングは好きじゃないのよ。どちらかと言えば、セミロング? ボブ? に近いような長さが好きなの。この辺かな? 肩に当たるか当たらないかの、きわっきわっ……ってそんなに青ざめなくても。あはは、ごめんね。初っ端から」


 手を肩の辺に合わせて、分かりやすく説明してくれるが……そんなことよりもロングヘアー嫌いとは……。私は落ち込むのが分かりやすいくらいに表情は暗くなってしまっていたようだ。

 生まれてこのかた、ずっとロングで過ごしてきた。

 幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人と見返す写真はいつも同じ髪型でたまに髪の毛を結んでるとかで代わり映えがない。

 なので、肩まで切るのは抵抗がある。


「ロングが嫌い、なんですか?」

「ええ、どちらかと言えば嫌いね」

「ガビーンッ!」


 それを聞いた私は机に身を預けるように倒れ込んだ。

 ショックすぎる。今までそんな事言わなかった。

 そういえば、あの時に一緒に居た女の人はセミロングだった気がする。

 はぁ……余計に落ち込むわ。

 彼のタイプは彼女って事が痛烈に心を切りつけてくる。鋭すぎるナイフは切れ味が抜群だ。


「冗談よ。そんなに落ち込まなくても大丈夫。あとは黒髪より茶髪ね」

「うぐっ……」


 彼女は確か茶髪だった。

 振り抜かれたナイフは再び私を切り上げる。


「それとおっぱいがでかいのが好きよ」

「それは大丈夫です!」


 机に突っ伏していた私は起き上がり、むんっと胸を突き出した。意外とあるんだぞと、ここぞとばかりにアピール。


「もっとよ」

「ガッビーンッ!」


 もう、無理じゃない……。私、完全に敗北してる。

 プスプスと頭から煙が出るように私の生気は抜けていく。まさに白くなった廃人のよう。


「まあまあ、これも冗談よ。安心してちょうだい」


 快活に笑う。この人もしかして性格悪い? 


「今のを聞いて、どこをどう安心すればいいんですか!?」

「落ち着いて?」


 とりあえずアイスコーヒーを飲めと促してくる。私は素直に従ってちゅるりと一口アイスコーヒーを飲んだ。

 一息つき、気持ちを落ち着かせた私は振り絞った声で茜さんに問い尋ねる。


「……でも、こもままじゃ私には勝ち目がありませんよね? どうしたらいいんでしょうか?」

「それはね、うん。自分次第じゃないかな? 髪の毛を切るのも染めるのも。私がそれにしろと言うのはおかしな話だし」


 そうだ。最終的には切るか染めるかは私の判断に委ねられている。どうするのも自由なのだ。


「簡単なことなのに、踏み出す一歩が大きく感じます」

「じゃあさ、もっと簡単なことから始めるとかどう?」

「どういうことですか?」


 指を私に差し、一言。


「服装!」


 私ってもしかしてダサい……? あれだけ人のことは馬鹿にしてたのに?


「変……ですかね?」


 今日は白のノースリーブにデニムのスキニーパンツにパンプスのコーデ。大人な女性をイメージして、髪型もローポニーテールでアレンジしている。


「変なわけないじゃん。すごくお洒落だよ。でもね、緑はスカートが好きなの」


 ……だからあの時に。

 言ってくれれば穿くのに。


「特にロングスカートがお気に入りらしいよ。でも、たまに穿いてくれるのがいいらしい」

「何ですかその細かいフェティシズムは」

「私が知るわけないじゃん。これは緑本人が言ってたから間違いないよ。あ、あとフレアスカートも好きだよ!」


 ここまで聞いてきて、私がいかに緑の好みじゃないかを知ってしまった。

 なんか悲しいな。


「分かりました。スカートは何着か持っているので今度穿いてみます」

「あとは何かあるかな? んー、特に思いつかないわ。こんな所かしら? 参考になったならいいんだけど」

「とても参考になりました。出来る所から実践していきます!」

「なら良かったわ」


 今回は相談してもらった身なので、お代は全部私がもち、店を後にした。







 ひっきりなしに止むことを知らない雨。

 外気の暑さに、水が蒸発するような独特な匂いが鼻を刺激する。

 じめじめと肌に纏わりつく湿気。陰鬱な気分にさせられる。そんな土曜日。

 ここ最近の休日、俺は202号室から逃げるように201号室へと赴く。


 今日も同じ。部屋を出て廊下で外を眺めていた。

 うざったいほどに打ちつける雨が古びた階段でこれでもかと不協和音を奏でる。

 天井で溜まったであろう大きな一粒がカンッカンッと一定のリズムを刻んで滴り落ちていく。それも相まって、耳障りだった。

 纏わりついて離れてくれやしない。


 人気のない、このアパートの廊下でただぽつんと立ち尽くし、どこを見ているかも自分すら分からない俺をたまたま通りかかった人が奇怪な目で見ていたことに気付いた。

 そりゃ俺だって見る側だったらビビる。

 人に恐怖を与えてしまうのも何となくわかる。だからと言って、ここから動くわけでもないが。……嫌な奴だな、俺。


 振り返れば201と202号室。

 隔てられ、分けられた部屋はまるで最近の俺達の様だ。


 いつも通りだった。

 いつも通りを装っている。と言った方がお互いに似合う言葉だろう。

 いつからかずっとこんな感じ。

 上手く噛み合っていた歯車はあの電話のせいで噛み合わなくなってしまった。

 まるで必要だったがなくなったみたいだ。

 電話さえなければ、俺が見なければ、躊躇しなければ、俺達は仲良くやっていただろうと考えては溜息をこぼす。


 電話一本で俺達の関係は壊れ始めていた。まさに瓦解、だ。

 一緒に居る部屋は息苦しい。酸素の薄い山頂にいるみたいな。

 だから俺はその場から逃げ出すように家を出る。いつものように忌避する。

 瑞希もどこか気を遣うように俺の様子を窺っては言葉を選んで話す。

 そんな取り繕った嘘はもはやバレバレで、俺もそれに合わせているからまたたちが悪い。


 結局、俺はまた同じことを繰り返しているだけなのだ。

 気持ち悪いったらありゃしない。

 いつまでもこんな状態が嫌だと思っていても、何か良い打開策が思いつくわけでもないでいる。

 誰かこの俺に提案してくれ! と他力本願になるくらいに今の俺には足りない何かがあるのだ。


 重苦しい溜息を吐きだして、ようやく部屋に向かって201号室の扉を開けた。

 同じ部屋なのに、空気に重苦しさがない。

 昭和感が漂う隣の部屋が余計に助長させている気がした。汚い部屋には霊が寄ってくるみたいな? そんな空気感が漂っている。多分、一人や二人くらいの霊はいるだろうな。


 今日、瑞希は朝早くから出て行った。

 なんか茜とお茶してくるとか言ってたけど……あの二人はなんやかんや仲良しくやっている。嬉しい事なんだが、もやもやする。

 俺だけがいつも蚊帳の外だな。なんて思ってないんだからね!


 ごほんっ。

 ともかく、現状を打破するために俺はパソコンを起動させる。

 そしてネットへ接続し、検索だ。男には分からないならば、ネットにあふれている女性の声に傾けるべきだ。


『元カレを忘れられない——』


 カタカタとキーボードを打つ手がピタリと止まる。

 なぜに俺はこんな事を検索しているのだ? 違うだろ。検索ワードを間違えている。

 デリートキーを長押しして、検索ワードを変更する。


『彼女と仲直りする方法』


 別に喧嘩してねーし! 彼女じゃねーし!

 自分で打っておきながら、何拗ねてんだ。馬鹿か。


「だぁー!! もう訳わかんねぇ! なんでこんなことしてるんだ! そもそも京介って奴が電話してこなかったらこんな事にならなかったんだろ! あいつどんだけ瑞希の中に入り込んでだよ! 今は俺——」


 そこまで言いかけて、正気に戻った。

 ……今、俺は何を……。

 ——やめよう、考えるのはやめだ。


 いくら考えても答えは出てくる気がしない。知恵熱を出しかねんからな。

 気晴らしに散歩でも……って無理か。雨降ってるし。いや、無理じゃない。傘を差せば立派な散歩だろ。サンダルで外を出れば、濡れても拭けばいいだけだし。……よし、出るか。

 思い立ったら即行動。

 椅子から立ち上がって、玄関の扉を開けた。


「あっ、えっと、その丁度今帰って来た所で。居なかったからこっちかなって思って、ノックしようと思ったんだけど……」


 ビクッと驚きながら、ドアノブを握ろうとしたまま固まっていた瑞希がそこにいた。

 目が泳いでいる。

 俯きがちで、少しばかり顔が赤い。

 ……もしかして、さっきのむしゃくしゃ聞かれてた、か?


「……おかえり」

「……ただいま」

「聞いた……のか?」


 そう尋ねると、瑞希は無言で首をブンブンと振って全否定した。でも顔は赤い。

 こいつ絶対聞いてたわ。


「ちょっと散歩してくる……」

「こんな雨なのに?」

「そんな気分なんだよ」


 廊下に出て、俺は瑞希を横切っていく。


「待って!」


 手を取られ、引き留められた。


「何?」

「……私も行っちゃだめ、かな……」


 気晴らしなのに、瑞希がいたら気晴らしにもならない。


「だめだと言ったら……どうするんだ……」


 試すようなことをつい口走ってしまう。

 すると手は力が抜けるように離された。そして表情は一瞬だけ影を落とすが、すぐに取り繕ってけろりと笑顔を見せた。


「そうだよね! 一人がいいんだもんね! ごめん、気を付けて行ってらっしゃい」


 違うのに、本当は違うんだよ。

 こんな事言いたいわけじゃない。

 瓦解していく関係を俺は取り戻したい。けど、上手くできないんだ。

 いつまでも相手を窺って過ごすなんて何も楽しくないのだから。

 戻りたいのだ。あの電話の前のようにやっと思えた感情に。

 もう一か月もこんな状態だ。

 正直、あの電話一本でここまで崩れると思ってもみなかった。


「やめてくれよ……そんな顔するのは……。俺はだめなんて言ってないだろ……」

「で、でも、嫌って言ってるようなものじゃない……私どうしたらいいのか分かんないよ……」


 そんな事、そんな事——


「俺だって分からない! お前がどうしたいか、何を考えているのか! 全然! これっぽちも! 電話したいならしろよ! 会いに行きたいなら行けよ!」


 ——違う。違うのに。


「いつまでも気にした表情して、携帯が鳴るたび気にして、よそよそしい態度で! こんな状態で俺はどうしたらいいんだ! どうしてほしいんだ! どうにかするのはお前だろ! 気になるなら、こんなところに居ないで好きな奴の所に行けよ! 結局、俺達は最初からこんな関係なんだよ! お前が誰と居ようが、俺が誰と遊ぼうが関係ないんだよ!」


 怒りという感情は人を間違った方へと誘ってしまう。

 こんな事言いたいわけじゃないのに。いつも間違えてしまう。

 我に返り瑞希を見ると、涙を流していた。


「……ごめん。言い過ぎた。やっぱ一人で行くわ。頭冷やしてくる……ごめん」

「……いいの。私が悪いのは分かってるから……」


 泣いている瑞希を置いて、俺は傘を持って階段を降りていく。

 ちらちらと見ても、俺が何をしたって意味がないのに、後ろ髪を引かれてしまう。

 そのまま気にしながらも、俺は歩みを進めて行った。


 怒ったって何も変わらない。

 怒りという感情は余計に関係を壊していく。そんな簡単な事を分かっていながらも、分かっていないのだ。

 何がしたい。俺は自分自身がどうしたいのか分からない。

 仲良くしたいのか? 仲良くしてどうなる? その向こう側に何を求めているんだ? ……本当にどうしちゃたんだろうな、俺達。


 持った傘も差さずに、雨に打たれてとぼとぼ歩いている自分は惨めだった。







 私は緑が去った後、その場に崩れるようにしゃがみこんでしまった。

 涙は止まらない。

 ぽたぽたと雨のように、コンクリートを濡らしていく。


「私が悪い事なんて、分かってるよぉ……ばかぁ……」


 自分の太ももをこれどもかと殴る。


 ——どうしたらいいの? 

 ——どうしたらこの壊れ始めた関係は元に戻るの?

 ——ねぇ、どうしたらいいの?


 考えても考えても、答えは出てこないのだった。

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