第13話:遅すぎた清算
挙式まであと一か月。
姉が来たあの日からなぜか瑞希がグイグイ来る。これでもかと言わんばかりに物理的距離を縮めてくるのだ。
結構な日が経っても。
——例えばこんな事。
「緑、早く一緒に寝よ? そして抱きしめてほしいな」
いつも寝てますやん。なんで抱きしめないといけないのですか?
「緑、キスしてみる?」
しませんけど。
「緑、ハグしない?」
……どうしたどうした! この前までの瑞希は何処に置いてきてしまったんだ。
と、まあこんな感じでグイグイ来る。
どうしていいのか分からずに、いつも返答がしどろもどろになってしまっている。
そしてその度、くすりと笑って「冗談、冗談」と言いながら話題を変えていく。結局俺は瑞希が何をしたいのか理解が出来ずじまい。言動、行動が不可解すぎる。
日々、グイグイ来る瑞希を躱し続ける俺の身にもなって欲しい。自分を褒めてやりたいくらいにはなってくるもの。
時たまに、こいつ俺の事好きなんじゃねーの? と盛大な勘違いをしそうになるから本当に止めて頂きたい所存である。
全く何なんだ。あれか? 金か? 金目当てか?
……んなわけないよなぁ。あれからというものの、詳しく年収を聞かせろとか、車見たいとも一切言ってこない。
やはり瑞希だけは違った。それだけは間違いなかった。
「ねぇねぇ、緑。行ってきますのチューは? まだ?」
これは毎日のように言ってくる。飽きもせずまあ毎日言える事よ。
「だからあたかも毎日してるようなニュアンスで言ってくるのやめてもらえます!? してないだろ! てかしないわい!」
「っんもう! してくれたっていいじゃない! じゃーね! 行ってきます!」
「はいはい。行ってらっしゃい」
してくれてもいいって何だよ。していいのかよ。いや、しないけど。
「はぁ……どうしたものか……」
瑞希を見送った後はいつも盛大なため息が出るようになってきている。
嫌いじゃなければ、好きでもない。そんな感情の俺があいつとキスやら何やら出来るわけないだろう。それに過ちは後を引き摺る。
今頃、歩きながら笑ってるんだろな……今度、俺から仕掛けてやろうかな?
♡
毎日が楽しい。
緑を
あの日から私は変わった。変えられた。
彼の過去を知り、全てを知って、分厚かった壁が一枚剥がれたから少し距離が縮まった。
緑も大分変わった。重荷が外れたからなのか、前よりもたくさん話をしてくれるようになったし、何より私に対する態度も微妙な変化を感じられるようになったのだ。
お金を持っていることも、外車を持っていることも、私からしてみればどうでもいいこと。だから何だよってね。
未だに車に乗った事もないし、見た事もない。見たところでその車がすごいのなんてわかりゃしないもの。興味がない私からしてみれば、乗れれば一緒だ。
いつか緑に乗せてやるよって言われるまで乗るつもりもない。どんな車かちょっとだけ楽しみにしているくらいで。
軽快なステップを踏み、会社へと向かっていく。
早く帰りたーいなっ!
まだ始まってもない、家を出たばかりの私は早く帰って緑との時間を過ごしいと思っている。
歪な関係だが、言葉にすればあれだ。
——友達以上夫婦未満。
これが今の私達を差す言葉としては一番近いだろう。
でも、今はそれでいい。
前まではどっちも以下の関係でしかなかったんだから。
すっ飛ばして登り詰めた階段を一段ずつ降りていっている。私達は戻って行かなくちゃいけないから。
それが正しい道だから。私達にとって、正しくある道を、階段を戻って行く。決して悪い意味ではない。逆だ。
だからこそ、私は嬉しい。
道中にいる会社員や高校生に奇怪な視線を送られるが、知ったこっちゃない。
だって今の私は最高に気分がいいから。
♢
会社に出社して、ドサッと気が抜けるように腰を下ろした。
「緑、おはよ」
「おう、おはよ」
相変わらず会社で名前を呼んでくるなこいつ。そもそも苗字で呼ぶ気がない。まるで志世が大きくなったバージョンだ。
「ねえねえ、今日デートしない?」
「それは語弊があるな。飲みに行こ? ってのが正解だよな?」
「そうとも言う! で、どうだい?」
「うーん、すぐには返事できないから昼でいいか? 考えさせてくれ」
「何を考える必要があるの? 今返事してくれていいじゃん」
「色々あんだよ。俺はこう見えても意外と多忙な人間なんだ」
「嘘じゃん。前までは二つ返事でOKだった! だからそれは嘘!」
雪菜には結婚したことをまだ言っていない。というかなんだか言い辛い。
引け目を感じているからなのか、ただ言いたくないのか。どちらにせよ今の今まで黙っていた。いずれ打ち明けなくてはならないのに、引き伸ばしている。
とにかく瑞希に聞いてみて、その返事によって行くか行かないかは決める。ご飯作るとか色々あるだろうし。勝手には決められない。
「あれはたまたま暇だったからだ。ちょっとトイレ行ってくる」
この場に居たら是が非でも今答えなくてはならなさそうなので、逃げるという選択を取った。
スマホを持って立ち上がると、雪菜は俺の手を掴んで阻んできた。
「もしかして下着の色を確認するのかな? それはもしかして飲みに行くと捉えてもいいのかな?」
「なんで俺が下着の色を確認する必要があるんだよ。勝負下着なんてないわ。しょんべんだよ。というか、やめてくれ」
「私は……んーん。なんでもない」
首を振り、握られていた手はそっと離された。
「じゃ、また後で返事するから」
そう言って、俺はその場から逃げるようにトイレへと向かった。
事実、彼女とは一度だけ過ちを犯した。お互いに。
だからこそ、冗談でもやめてほしい。本気でも……。
俺達は付き合ってもいないのに、一線を越えたんだ。お互いが何かを求めるように、寂しさを埋めるように縋るように。
あれは過ちでしかない。
トイレの個室に入り、用を足すフリだけをする。誰に見られているわけでもないのに、フリだけは一丁前にしておく。
スマホを取り出して、瑞希に連絡を送る。
〈今日、会社の人から飲みに誘われてるんだけど、行ってもいいか?〉―10:00
向こうも仕事中だから返信が来るのは昼だろう。
便座の蓋を閉めて、腰を掛ける。
はぁ~とまたもや違う意味のため息が漏れてしまう。
雪菜にはもっと気にしてほしいところだ。
あの日、彼女は互いにこれは一時の感情だと、ただのワンナイトと言い切った。これからも普通に接してと言ったのは彼女なんだ。
なのに、ああして気にするようなことを言ってこられると、こっちも気にしてしまう。
雪菜は彼氏がいない。あの日の前日に別れた彼氏以来いないことは知っている。
彼氏募集中としつこく言っている割には、全然作る気がない。本当に欲しいと思っていない。
容姿も性格もいい。すぐできるはずなのに、飲みに行っちゃあ「告白された。でも振った」と一々しなくてもいい報告をしてくる。
募集中なら振るなよといつも言っているのだが、タイプじゃないとか、性格の不一致と理由をつけては断っているらしい。
いつしか緑みたいに気を遣わなくてもいい人がいいなぁとか緑みたいな人がいいとか言ってきたりもした。
その都度、俺も悪い気はしないし、付き合わないでいる雪菜にホッとしている自分もいる。
……俺は雪菜の事がまだ好きなのだろうか。
あの日からずっと彼女を見ていた。気にしなかったことはない。
以前からあった交友関係なのも事実としてあるし、あの頃に戻れたらなんて考えた事も何度だってあった。けどそれは叶うはずない過去の産物で。
瑞希という奥さんがいるのにも関わらず、最低な思考だと理解はしている。きっと抱いてしまったからこそ、そんな感情があるだけ。勘違いだと思う。
「今日話すか……」
独り言を漏らすと、スマホが振動した。
タップして画面を開くと、瑞希からの返信だった。仕事中に携帯触んなよ……俺も人の事言えないけど。俺はサボってるから俺の方が悪いな。と勝手に自己解決。
〈嫌だって言ったら?〉―10:05
瑞希は質問を質問でよく返してくる。
〈嫌なら行かないと断るだけだ〉―10:06
俺は意外と素直なのだ。相手が嫌がるなら嫌がることをしない。基本中の基本をしっかりと守っているつもり。
特にだが、瑞希の言う事は聞いている。……だって怖いもの。
スマホ画面を開いたままにしていると直ぐに返信はきた。
〈冗談よ。気にせず行っておいで。その代わりにアイスね〉—10:07
そうは言いつつも、しっかりと注文を付けてくるところは可愛くない。でもそれに従うのが俺。
〈分かった。何アイスが食べたい?〉—10:08
〈ソフトクリー〉
文字が途切れて送られてきた。最後の一文字を見なくても分かる注文だ。ソフトクリームを買っていけばいいのね。
さては誰かお客さんが来たのだろう。
つい、フッと笑えてしまう。焦った様子が想像に容易いから。
〈じゃあ仕事頑張ってな〉―10:09
スマホ画面を消し、立ち上がってしてもいないトイレの水を流す。水道代が勿体ないかもしれないが、ここは俺の家ではなく会社なので良し。
そしてトイレの扉を開けようとすると、またもやスマホが振動した。
開ける扉の手を止めて、スマホを開く。
〈緑も頑張ってね!〉—10:10
うしっ! 今日も頑張りますか!
瑞希の連絡を確認し、自分を鼓舞してトイレから出た。
♡
ふふっ。ふふふっ。
自然と笑みが零れてしまう。今日も一日頑張れる気がしてきた。
「瑞希、きもいよ顔」
麻里子が顔を歪めながら、辛辣な言葉を発した。
「きもいは言い過ぎ」
「いや、本当にすごかったよ。今の顔。ニヤニヤってもんじゃないし、だるんだるんに頬を垂らして、まるでブルドックの様だったわ」
「それはブルドックに失礼だし、あれはあれが可愛いんじゃない。ブルドックに謝りなさい」
「自分は可愛いと言っているようなものよ」
そうよ! 私はそれなりに可愛いもの。……なんて冗談は置いといて、顔を作り直す。人差し指でクッと口角を上げて、営業スマイル。
「これでいい? 変じゃない?」
「うんうん、さっきより大分マシ」
「ちょっとそれ、普段もひどいって意味じゃない!」
「ジョークよ。さ、お客さん来たから。予定表確認して」
「んんもうっ!」
「惚気は家でお願い」
「惚気てなんてないわ。少し頑張れる気がしただけよ」
そしていつも通りに業務へと勤しんだ。
♢
終業後——
お昼の時点で雪菜には行くと伝えておいた。
その時の彼女の反応は、にぱぁーっと晴れるように笑顔になって嬉しそうだった。そんなに俺と飲みに行きたかったのかと思うと嬉しく感じてしまう。
隣では荷物を急いで鞄に詰め込んでいる雪菜。
財布の中身を確認し、「よしっ」と一言。お金の確認ね。うんうん、大事。
「準備完了! じゃあ行こ!」
「お待ちしておりました。じゃあ柴ちゃん今日は先に失礼する」
「えっ! 今日どこか行くんですか?」
「あぁ、白石と飲みにな」
「雪菜さん! 私聞いてないんですけど!」
「だって言ってないもーん! 今日は許してね?」
ペロッと舌を出して、悪びれている様子ではない。どちらかと言えば、喧嘩を売っているようにしか見えない。
俺の腕を掴んだ雪菜に引っ張られ、連れていかれそうになる。
「じ、じゃあな柴ちゃん。また今度一緒に行こうな」
「はいっ! 次は私と二人でいい所連れて行ってください!」
ちゃっかり2人でいい所でって注文つけてくるところ、抜かりないな……。
まあいい。後輩だからな。たまにはいい所に連れて行ってやろうじゃないか。
それから引きずられるように、会社を出た。
今日はどうやら居酒屋ではないらしく、英国風パブに連れて来られた。
「今日は久しぶりにここ! テラス席でお洒落に決め込もうじゃないか!」
「お洒落……? 普通に若者が多い店だろ。でもまあここの飯は意外と好きだし、いいんだけど」
「まあまあ、たまには居酒屋じゃなくてもいいじゃない。こういう所でちょちょっと飲んでも」
ここは店員さんに注文して、料理やお酒を提供してもらう後払い制ではなく、自分でレジに言って注文する先払い制になっている。
飲み物はその場ですぐ作ってくれるので、自分が飲みたくなったらお金を払って飲む。要は自販機みたいなものだ。
料理は圧倒的に軽食的、おつまみメインで注文すると番号札を渡される。
その番号札を机に置いておけば店員さんが運んできてくれる。そこは居酒屋と変わりない。
ただ問題として上げるのならば、ナンパが多いことだな。
瑞希がここに来たら多分すぐにナンパされる。可愛いから。
一緒に来ている男としては面倒でしかないのだが。
さっき雪菜が言ったように、ここに来たのは初めてじゃない。
ここはあの日の夜に来ていた店でもある。
「ささっ、緑は何飲む?」
「ビール一択」
「だと思った! じゃあ私買ってくるよ! 一杯目は私が誘ったから私のおごりね!」
「まじか! あざっす」
まだ時間が浅いのでそこまで人の入りは少ない。段々と人が増えると、レジに行くのにも一苦労する。
そういえば、俺って瑞希と呑んだことないな。あいつがお酒を飲んでるところ見た事ない。今度誘って呑みにでも出かけてみるか。
見た目はすごいお酒強そうだけど、弱かったりしてな。それはそれでギャップがあっていいんだけど。
「お待たせぇー! 一番でっかいやつにしたー!」
「本当にでっけーなおい。こんなん飲むの初めてだぞ」
床に置いて立ってみたら膝上までありそうなほどの高さのグラス。というか計量カップ的な? そんな感じのコップだ。
「私も同じのだから!」
そう、彼女は2本持っている。2本という表現の方が分かりやすいだろう。それくらいに長いのだ。
「じゃあかんぱーい!」
長い。乾杯しづらいなおい。
零れないようにコップをぶつけた。
机の位置からじゃ飲みにくいので、少し横にずれて口に運んでいく。
「ぷはぁぁ! 飲みづら!」
「だろうな。一体これ一杯いくらだよ」
「千円超えてた!」
「贅沢か!」
「まあまあ、たまにはこういう贅沢もいいじゃない。せっかくなんだし」
何が折角なのか全然分からないけど、自分のお金じゃないから良しとする。
「ここに来るのも久しぶりだね? 何年振り?」
「さあな」
もう2年以上は前な気がする。
「今さら聞くけどさ、どうだった?」
とても曖昧な聞き方だ。言い辛いのも分かる。けど、聞いてどうするんだ。
「何が?」
「あの日が私は忘れられないの。緑に久しぶりに抱かれて、これでもかって愛されてさぁ、やっぱり私は緑なのかなってすごい感じちゃったんだよね。でもそれはお互いが辛い経験をした後だったから傷の舐め合いでしかなかったけど、私はそれでも緑をすごく感じた」
俺も……なんて言えない。言っちゃいけない。
変に期待させて、裏切る方がよっぽど辛い。確かにあの日に俺は雪菜と戻りたいと思った。でも結局戻らなかった。それは一時の感情だと自分が一番理解していたから。あれはお互いが寂しさを埋めていただけ。
こうして俺も曖昧な態度をしてやり過ごしてきたからいけない。
いつかそうなりそうな節はたくさんあった。薄々気付いていた。でもそれに目を逸らして、逃げてきた。いつもの悪い癖がここに来て自分を彼女を痛めつけている。
「今さら掘り返してどうなるんだ? もうお互いに忘れようって言ったのは雪菜だろ? この話はやめようぜ」
「そうだね。でも聞いてほしいのはそれだけじゃないの……」
「……そうなのか」
適当に返事をして、グビグビと1リットルくらいあるビールを喉に通していく。
「私さ……もう一度緑とやり直したい。私は緑が好きなの……緑が私に興味がないのは分かってる。それでも私は緑の隣にいたい!」
雪菜は言い切るとビールを一気に飲み干して、空になったグラスを持ってレジへ歩いて行ってしまった。
「言い逃げはやめろよ……」
そして戻ってきた雪菜はテキーラ3杯を机の上に置いた。
「おい、雪菜これはやりすぎだって!」
「いいの! とりあえず気持ちは伝えたから!」
一気に呷る。
1杯。
また1杯。
また更に1杯と。
レモンも噛まず、カンッと勢いよく机にグラスを置いた。
「ぷひゃぁー。緑も飲みなぁ?」
対面の席に座っていた雪菜は俺の上に座り、ぐでぇっと背中を預けてきた。
「おい、やめてくれ」
「嫌。後ろから抱きしめてほしいの。前みたいに」
できるわけないだろ。ここは公共の場だぞ。歩道を歩く人から、車を運転する人までに丸見えなんだぞ。
「雪菜。離れてくれ」
「んもうっ。仕方ないなぁ」
ゆっくりと席から立ち上がり、対面の席に座った。
「じゃあこれしてあげる。はい、あーん」
お酒回るの早すぎだろ。仕方なしに、付き合う事にしてやった。
「あ、あーん」
「なーんてね! はむっ」
俺の口に運ばれたカリカリパスタは雪菜の口に入っていっていしまった。
「なんだよっ!」
「あははっ」
先ほど告白したことを忘れたかの様に笑う彼女に釣られて俺も笑ってしまった。
♡
今日に限って仕事が早く終わってしまった。
なので、珍しく違う道で遠回りをして帰ることにした。
「瑞希、お疲れ様ねー!」
「うん。麻里子もお疲れ様!」
日が延びて、まだ外は明るい。日中は暖かいけどこの時間になってくると少しだけ冷える。
朝とは打って変わって、ゆっくりとした足取りで駅に向かっていく。周りにはたくさんの会社員。これから飲みに行くのだろう。皆笑顔で、楽しそう。
コツコツとヒールを鳴らして光景に目を配る。
あまり仕事終わりにご飯を食べに行くことはなかった。お酒が苦手だし、早く帰りたいから。
そういえば緑と外食したことないな。私もいつかは緑と外にご飯を食べに誘ってもいいかな? そんな思いを抱きながら歩いていると——見覚えのある姿を見つけた。
「緑……?」
間違いなく彼だ。
楽しそうに可愛い女の人とじゃれている緑がいた。
「……あれ……なんで……涙が、あれ……おかしい……どうしちゃったんだろ……」
必死に流れてくる涙を拭うが止まってくれない。
目の前にある光景に涙が止まってくれない。
こっちを見られたら気付かれてしまう。まずい、早くこの場から立ち去らないと……。
「お姉さん、大丈夫?」
「ごめんなさい。大丈夫です」
駆け足で声を掛けくれた男の人をあしらって、走り始めた。
どうして、どうして涙が出るの……。
人を掻き分け、人通りの少ない道に出てしゃがんだ。
「うぅっ……嫌だ……緑……」
冷静に考える事なんてできない。例えあれが会社の人だったとしても、あの距離感は間違いなく——
あははは……私ってばかだなぁ。なんでいつもこうなるんだろう。
彼だけは違うと思ってたけど、そうでもない。いや違う。私達は最初からこうだったから、彼に好きな人がいてもおかしくない。
そうだよね……突然こうなっちゃったんだからそうよね……。
いつだって舞い上がっているのは私だけだった。
同じであったらいいなんて理想を押し付けていただけなんだから。そこに彼の意志なんてなかったんだもん。
この時の涙の意味に——私は気付いてしまった。
自分の感情が変わっていたことに。
「私って緑が好き——だったんだ」
——本当に馬鹿みたい。
♢
酔っ払いに酔っぱらった雪菜を何とか担いで家まで送り届けた。
ベッドに寝転ばせ、着替えて寝ろよと伝えて帰ろうとすると、手を掴まれる。
「ふーくん……行かないで……」
「……こんな時ばっかり、その呼び方はやめてくれよ……」
なぜ今になって言うんだ。
今までにもタイミングなんてたくさんあったのに。なんで今なんだ。
「ふーくん……」
俺はベッドに腰を下ろし、雪菜の頭を撫でた。
「雪菜、ごめん。俺はお前とやりなせない。俺は……結婚したんだ」
「……」
すぅーすぅーっと寝息を立てて、どうやら俺の声は届いていなかった。でもそれでいい気がした。だってこんな状況で言った所で、多分彼女も覚えていないだろう。
お酒を飲んでる時に言うのは反則だ。
ちゃんと意識がはっきりしているその時に伝える必要がある。だからまた今度しっかりと話そう。
こうして、彼女に握られていた手をそっと離し、布団の中に手を入れる。
玄関のカギを締めて、ドアポストに突っ込んだ。
あとはメールで鍵はドアポストに入ってると言えばいい。
ありがとう。俺もずっと好きだった。
♢
日付を越している時間ではない。
そしてまだ寝る時間でもない。
なのに、外から見ると俺の部屋の電気は消えていた。
片手に持ったビニール袋を一回見て、頬がつり上がる。コンビニにある中でも特段にいいソフトクリームを買ってきた。
急いで階段を登って、鍵穴に鍵を挿す。
ガチャリと音を立てて、ドアを引いた。
「ただいまー、瑞希ー? 寝てるのか?」
終電でもない時間に寝るのは珍しいなと思いつつ、電気をつけると——
照らし出された部屋。
——そこに瑞希の姿はなかった。
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