第14話:私だけのセカンドテイク
私はひとしきり泣いた後、とりあえず家に帰る事にした。
でも思うように足は進んでいかない。まるで足に鉛を着けられているかのように、ゆっくりとした足取りで家路へと向かった。
何も考えられない。ただ呆然と道を歩いて行くだけ。前も碌に見ずに、俯いたまま。視線の先は何も変わらない景色。
赤く斜光に晒されたコンクリートだけが見えている。
顔を上げればもっと違う景色が見えるのに、私の頭は言う事を聞かない。
何もかもが重いのだ。
朝とは打って変わってしまった気分。
……帰りたくない。
……でも帰りたい。
会いたくない——けど、会いたい。
今の私の感情は無秩序に入り混じって、好きという感情があんな光景を目の当たりにしても消えたりせず、押し寄せてくる。そして私をどっちつかずにさせてしまう。
恋は病。とはよく言ったもの。あながち間違ってはない。
それから私は自然と緑の家に向かっていた。
電車を乗り、当たり前の様に最寄駅で降りて、いつもの慣れ始めた通勤の道なりを。
実家に帰る事だってできたのに、帰らなかった。
何も知らない母が、緑が、何事だと驚くかもしれないので……って、そんな利口な思考が出来るほど私は強くない。
私の帰りたい場所がそこだから。
結局のところ私は緑が好きだから、好きだと気付いてしまったから家に帰るんだと思う。好きという感情に勝つことは出来ないのだ。
だからダメ男好きというあだ名を付けられてしまうんだろうな。
あははは……笑えないわ。
家に帰り、ベッドに腰掛ける。
そして大きく腕を広げて、大という文字さながらに背中から崩れるように倒れた。
「あーあ。何してんだろう私。……ばっかみたい」
自虐的な独り言を聞いてくれる人はこの場には居ない。
電気が点いていても、この部屋は明るくならない。
欠けているものが何かと知っていながら、それを口には出さず、固く閉ざす。
そうして涙が目尻に溜まって流れていく。
脳裏に焼き付いた光景は、目を瞑るだけで呼び起こされてしまうのだ。嫌だと思っても、思い出したくないものほど、人間は深く記憶して思い起こしてくる。全く嫌な作りなこと。
この部屋にいるだけで色々な事を思い出させられる。
匂いが鼻を通り、感触が肌を伝わり、瞳が景色を入れ込んで、これでもかと沁み込ませた感情を彷彿させて襲ってくる。
あんなに楽しかったのに、あんなに触れ合っていたのに……。
……辛い。
ここに帰ってきても苦しいだけだった。
そんなこと分かっていたのに、脳は理解せず理屈ではなく感情を優先させた。
涙を拭い、起き上がった私は家の鍵だけを持って、家から飛び出した。
♢
瑞希は何処にもいなかった。
風呂に入っているわけでもなく、トイレにこもっているわけでもなく、家自体にいなかった。
メールでは家に居るような感じで送られてきたものだから、アイスを期待して待っていると思っていたのに。
コンビニでも行ったのだろうか。いやいや、アイス買ってくるって約束したし、行く必要がない。
とりあえずスーツを脱ぎ、着替える事に。
「あれ? 鞄置いてあるな」
ベッドの横には瑞希の鞄が置いてあった。
なんだ、帰ってきてはいるのかと少しだけ安心した。
にゃんださんのTシャツに袖を通し、ベッドに座って瑞希に電話を掛ける。
すると、部屋にバイブ音が鳴った。正確に言えば、足から振動が伝わってきた。
鳴っている場所は瑞希の鞄からだ。
失礼します。と一言謝りを申してから鞄を開けると、瑞希のスマホが震えていた。
「携帯くらい持って行けよなぁ……携帯の意味ないじゃん」
とにかく携帯を置いて行くほどの用事ならすぐ帰ってくるだろうと思って、テレビを見ながら瑞希の帰りを待っていたのだが——
——10分。
——20分。
——30分。
——40分。
——そして、1時間。
瑞希は帰って来なかった。
もうすぐ23時になるのに、帰って来ない。
携帯を置いて——そういえば!
もう一度、鞄を開いてあるものを探した。
あった……。財布……。
あいつ何も持たずにどこ行ったんだよ!
不安になってきた俺はズボンを急いで穿き、外へ出る。
外へ出ると、大粒ではないがぱらぱらと雨が降り出し始めていた。
「今日雨の予報だったか!?」
そんなことはどうでもいい。今は瑞希を探さなければ。心配だ。もしかしたら何かに巻き込まれてるかもしれないし。先を急ごう。
傘を持ち、階段を駆け下りる。
「どわっ!」
雨で濡れた階段に足を滑らせ、下から三段目の位置で激しく転倒してしまった。地面に溜まった水溜りにダイブ。
せっかくの新品だったにゃんだんさんは酷く汚れてしまった。
「いってぇ……」
だが、今優先すべきは瑞希だ。
立ち上がり、俺は走り始めた。
♡
何時間経ったのだろう。
そう思って時計を見れば、もうすぐ23時になるところだった。
雨も降り始め、ただぼうっと公園のブランコに座っていた。
ぽつぽつと段々強くなってくる雨。
見上げる空はどんより荒れ模様。
街灯に照らされて映る雨粒は、斜めに風に乗って降っている。
雨に打ちつけられていても、その場から動くことは出来なかった。
私は本当に男運がない。……いいや違う。
いつだって私は独り善がりで、相手に期待しているだけで、何も相手の気持ちを考えちゃいない。
緑に好きな人がいてもおかしくないのだから。私達は望んで結婚したわけじゃない。特に緑は。彼は結婚したくないとまで言っていたくらいだし。
タイミングが違えば、私もあんな感じになっていたかもしれない。あの状況が私だったかもしれない。……それすらもないか。
緑は恋愛から一歩引いていた。彼女を作っても取り繕ってしまうと。ありのまま見てくれる人はいないと決めつけていた。
とは言いつつも、それって好きな人がいたから、ああ言っていたのではないのだろうか? しかもあの女の人は緑を知っているような気もした。これに関してはただの女の勘ってやつだけど。
でも好意と交際はイコールじゃない。
好きだから付き合うとは必ずしもならない。現に今の私がそれに近しい。
考えれば考えるだけ、分からなくなっていく。
好きでも付き合えない。その先が怖いからかもしれないし……。
そこには相手の意思が介入して、想い想われの関係性になってこそ、交際に発展する。これが恋愛と呼ばれるもの。
私はそれ以前の問題。
一方的に好意を抱いているだけでは、なんの意味もない。
ただの恋だ。愛はそこには付随してこない。
……一体、彼女は誰なの?
多分、会社の人だとは思う。緑が私に嘘をつくことはないと信じているから。
だとしても、距離感がおかしい。
緑の笑顔も見た事なかった。あんな顔初めて見たよ。
私には見せてくれない笑顔で、引き出すことのできない笑顔だった。
降りしきる雨に髪を濡らし、流れる涙も雨か分からなくなるくらいに、全身を濡らしていく。
俯くと、ズボンはびしょ濡れだ。傘もない。財布も家に置いてきたし、スマホもないから連絡する事も出来ない。というか迎えにきてもらうとかどんだけ図々しいの私。
そもそもまだ帰ってきてもないかもしれないし……。
と、下を見ながら考えていると、上から何かが雨を遮った。そして視界に入る靴。
何だろうと上を見上げると——目の前には、
「お前、こんなとこで何やってんだ。探したぞ。ばか瑞希」
びしょびしょになって、お気に入りだろう服も泥まみれになって、膝を擦りむいて血を流して立っている緑がいた。
「な……んで……?」
「なんでじゃないだろう。せっかくアイス買ってきたのに家に居ないとか何なの?」
「……ごめんなさい」
雨に打ち消されるくらいの声で小さく謝った。同時に落涙してしまう。
「とにかく帰ろう。ほら、立ちな?」
差し出された手は少しだけ泥が付いて小汚い。でも、私はその手を取って立ち上がった。
そして緑の肩に頭を預けた。
「なっ、なんだよ!?」
「……うぅっ」
嗚咽を漏らし、腕を背中に回す。
「本当にどうしたんだよ……」
驚きながらも、緑は私を優しく抱擁してくれた。背中を子供をあやす様に優しく叩いてくれる。
この行動だって本当は間違っている。抱きついているのは自分の弱さを肯定しているに過ぎない。であれば、普通は拒絶するのが妥当だろう。でも何も知らない緑が来てくれたという現実。泥まみれになって、雨に打たれて、持っていた傘も差さずに走ってくれていたことが私を間違った方向へ動かしてしまう。
「いつまでもこんな場所で雨に打たれてたら風邪引くぞ。早く帰ろう」
背中を叩き、早く行こうと促してくる。
何も聞かない。聞いてこない。
時に優しさは——残酷だ。
緑が差す傘の中に入り、繋がれた手を離すまいと必死に繋ぎとめることしか私にはできなかった。
離してあげた方が彼の為になるのに、それを私が阻害する。
蜘蛛の糸の様に細く脆い繋がった彼との唯一の繋がりを、簡単に切れる関係を切らせないともがくように。
そのまま、私と緑はお互いに口を開くことなく、ただひたすらに家に向かって歩いて行った。
「階段、雨で濡れて滑るから気を付けろよ。俺みたいになるぞ」
指を差した場所は泥まみれになって、ケガもしている場所だ。
「……ここで転んだの?」
「ああ、ド派手に階段から落ちた」
緑はアハハっと笑いながらゆっくりと反省するように上がって行く。
私は繋がれた手を離して、その場に立ち止まった。
階段の一歩手前で。
カンカンと音を立てて上がって行った緑は私が上がって来ない事に気付き、足を止めた。
「瑞希、どうした?」
濡れたズボンをギュッと掴み、俯いた。
ずっと堪えていた涙がどばどばと降っている雨と同じくらいに流れていく。
「……ごめんなさい」
「何が……?」
「ごめんなさいっ……私のせいで……」
涙は流れ続けるが、そのまま言葉を続ける。
「何も知らないのに、意味も分からないのに、勝手にこんなんになって……意味わかんないよね……。傷だらけになったのも私のせいだし、もし……もしあの時、私が勢いであなたと結婚しなければこんな事にはならなかったのに……辛い思いをさせてごめんなさい……」
緑は黙って私の話を聞いてくれていた。
「あのさ……」
とだけ、言って階段を降りて来る。
そして私の目の前に再び立ち、大きく手を振りかぶって、びしりと頭にチョップをかまされた。
「痛っ!? え、なに!?」
「なに!? じゃねーんだよ。こっちが聞きたいわ。めんどくさい女だな。あのな、何があったか知らんけど、勝手に俺を推し量るのはやめろ。これはお前が俺に言ったんだろ。お前だけの気持ちが先行して結婚したわけじゃない。いくらでもやめることは出来たんだ。でも止めなかったのは俺だし、そもそも俺があんなこと言わなければお前もこんな訳の分からん行動はしなかった。お互いさまってことでいいじゃん」
「でも、緑は……」
「でも、じゃないんだよ。俺が悪いんだよ。元凶は俺なんだから。何がどうしてそんな風になったか詳しく聞かないけど、不安になることじゃないだろ」
「なるもん……」
「ならない」
「なるもん!」
「はい、いつも通りになった。とりあえず家に帰ってシャワー浴びろ。風邪引く」
言い包められてしまい、部屋の中に連れてかれてしまった。
玄関に入るや否や、タオルを頭から掛けられて、わしわしと雑に拭かれる。私はされるがままで、時々力が強くて痛いけど、彼なりの優しさを感じたし、言える立場でもないので我慢した。
「緑が先にシャワー浴びて? 私はあとでいいから」
「俺は隣で入ってくるから気にすんな」
緑はバスタオルと旅行用のお風呂セットを持って、家から出て行った。
それから私は言われた通りにびしょびしょになった服を脱いで、お風呂へ入った。
♢
201号室に移動して、泥まみれの服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
この部屋の浴室と瑞希が入っている浴室は隣同士になっているので、普通に水が流れる音が聞こえる。
ひとまず彼女がちゃんとお風呂に入っていることに一安心。
シャワーの蛇口をひねり、お湯を出して体に付いた泥を落としていく。全く散々な目に合った。色んな所を走り回って、やっとの思いで見つけたら、雨に打たれながらブランコに乗っていた。ぼうっと何かを考えるように。
水も滴るいい女という言葉があるけれど、瑞希は井戸の中から出てくる貞子の様にどんよりした空気を纏っていたのでそうでもなかった。美人で可愛いんだけど。
会社で嫌なことでもあったのか? と思ったが、さっきの発言だと結婚のことに悩んでいるようだった。
だとしても、急にどうしてだ。朝も元気だったし、メールしていた時も元気そうだった。
……だめだ。よく分からん。
壁に手を置いて、壁を挟んだ向こうに問いかけるように小さく呟いた。流れるシャワーにかき消されると分かっていながらも。
『なあ、瑞希。結婚したことを後悔しているのか?』
聞きたくても聞けないことを。
♡
お湯を止めると隣からシャワーの音が聞こえてくる。
浴室が隣同士になっているんだろうと思い、再びお湯を出し頭から被るように身体を濡らしていく。
涙と共に、頬を伝い、首に、鎖骨に、胸に、お腹に、足に伝いながら排水溝に流れていく。
この感情も一緒に流れていってくれればいいのに……。
そんなことを思いつつ、壁にそっと手を置いた。
私達の距離みたいだね。
こうして壁が私達の間にはある。きっといつまで壊されることのない、見えない壁が。
私だけが一方的で。壊したくても壊せない壁が。
お姉さんが言っていた言葉の意味を今になってやっと理解した。あの頃から私は緑のことが好きだという行動を見せていたのだろう。
でもこの恋は実ることのない恋だから。
『緑、私あなたの事が好き』
言いたくても、言えない想いを吐露した。
♡
シャワーを浴び終え、緑も部屋に戻ってきた。
私は髪の毛を乾かし、ベッドに寝転がる。
こんな状況で一緒になんて寝られないから。
「一緒に寝ないのか?」
「今日は……やめとく」
「今日はって、初めてだろ……」
確かにこの家に来てから、一緒に寝なかった日はなかった。毎日一緒に寝ていた。
「そうだね」
「んじゃ、もう電気消すぞ?」
「……うん」
カチカチと紐を二回引っ張ると部屋は真っ暗になった。
——それから10分も経つと、緑は疲れていたのか寝息を立てて眠りについてしまった。
私はというと、中々眠れない。
一人で寝ているからか、それとも目を瞑るとあの光景が浮かんでくるからか。
……どっちだっていい。
そして起き上がってベッドから降りる。
緑の布団にちょこりと座って、寝顔を眺めた。暗闇に目が慣れたのでそれなりに見えてくるもの。
髭も生やして、おっさんくさいのに寝顔は可愛い。伸びた髪の毛も癖があるのか所々跳ねているのも可愛い。
そんなあなたが、好き。
「……好き……だよ」
聞こえないと分かってて言葉にする。言ってないのと同じ。
涙腺はどうやら緩みまくっているみたい。
これで忘れるから。この気持ちは最後にするから。
私達にはいらない感情はもう捨てるから。
だから……許して。私の勝手な行為を許して。
頭を撫で、顔を近づける。
——二度としないから。
……そっと……彼の唇に私は触れていく。
時間にして3秒も経っていない。
離し難い。でも離れないと……。
感情を押し殺し、重たい頭をゆっくりと上げていく。が、その時。堪える涙が一滴。緑の頬に落ちていってしまった。
それでも緑は起きず、寝息を立てて深く眠っていたことにホッとした。
——もう忘れる。この感情とはさよならだ。
明日からはあなたと出逢った頃の私になるから。
……許してね。
これが——最初で最後の私だけのセカンドテイクだから。
*****
あとがき
こんばんは。えぐちです。
更新遅くなりました。ごめんなさい。
えー、今日は少しだけお話です。
僕はTwitterで更新するしないを呟いております。
おい、こいつ更新まだかよ! と思っておられる方には、フォローしなくていいのでTwitterを見ればすぐわかると思います。
と言いながらも、今日は更新すると呟いていないので、説得力がないのですが。
とりあえずTwitter見ればわかるよ! って話でした。
プロフィールから飛べるようになっているので、良ければ。
最後までお読み頂きありがとうございます。
皆さんにはとても感謝しております!
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