第9話:お前ばっかじゃない


 昨日の喧嘩後、二人でモンブランを食べてから買ってきた布団を車から運び出し、ベッドの隣に敷いてみた。そして布団へダイブ。

 部屋の場所を取ってしまうが、床に寝るよりは段違いにマシ。というか、比べるのが烏滸がましいくらいだった。


 ベッドよりも最高に良い寝心地なのだ。

 それもそのはず、俺が買ったのは北川布団と言った布団メーカーの大御所の布団だ。ブランドというやつで、4万もした。だからこそ、この寝心地は当然の結果だろう。


 ——すると隣に瑞希もダイブしてきた。

 寝転がりながら、気持ちいいーと声を上げ、遂には私もこれで寝たいと言い始めたのだ。

 俺が大金を叩いて買った布団を横取りしようとしてきたのである。


 ……まずい。

 そう思った。俺は押しに弱い。このままでは布団を取られ、やっすいベッドの上で寝なければならなくなってしまう。

 だから条件を出すことにした。

 まあこの時点で甘いのは重々分かっておる。

 絶対に嫌がる条件——それはこの家の家事を全てすることである!


 掃除から洗濯、朝昼晩のご飯、さらには買い物まで。全てだ!

 流石に全て一人でやるのは嫌がると思った。それに全てをやってもらうつもりなんて毛頭にない。一瞬で考えた条件だ。

 ——だが、二つ返事で「いいよ」と言われてしまい、見事敗北。

 彼女はにっこりと笑いながら、だからと一言前置きをつけて言葉を続けた。


「一緒に寝よ?」


 この布団を買った理由を思い出そうか。


 彼女と寝るの嫌だから。

 彼女がくっついてくるのが嫌だから。

 元カレと勘違いされるのが嫌だから。

 狭いし暑いから。

 ムラムラするから。


 とまあ、こんな感じの理由であった気がするが。

 また一緒に寝てしまったら本末転倒だ。


「断る」

「でも私は言われた事をちゃんと全部やるよ? なのに緑は私と寝ることも出来ないのはどうなのかな? それに一歩近づく努力とは?」

「ぐっ……」


 ここぞとばかりに使ってきやがる。絶対了承の魔法の言葉を使うのはやめてぇ。

 言質を取られてしまったが最後だったと、あの時の自分の首を絞めてやりたいとこの言葉を言われるたびに思う。


 こうして一緒に寝る羽目に。

 なら布団買わなくてよかったじゃん……。







 最高級の布団からの目覚めは最高だった。

 最高の目覚めだった。

 起きるといつも抱きついて寝ている奴はおらず、キッチンの方から何やらいい匂いが漂ってきて、その匂いにつられて起き上がると、私服に着替えエプロンをつけた瑞希が立っていた。


「これが奥さんというやつか……」


 目の前の光景に出た独り言。

 ただ残念なのは、キッチンが小さすぎなのと、全体的に小汚いこと。それを除けば、世間一般が理想とする姿がそこにあった。

 あくまでも世間一般だ。俺は一般に入っていないので、理想ではないことを強く念を押して言っておくとする。


「あ、おはよう。だーりぃん」

「朝からうぜぇ……」

「もぉ、うざいって言うのやめてよね。これでも乙女よ? 少しは気を遣ったらどう?」

「はいはい、気を付けます」


 布団から出て、そして畳んでベッドの上に置いた。

 ……このベッド使い道ないな。

 そう思いながら、タンスを開けてスーツを取りだし着替えを始める。

 いつもはギリギリまで寝ており、朝ご飯は食べない。加えて昼ごはんに弁当を持って行くこともない。コンビニで買って会社で食べているので、早起きはする必要がないからだ。


 今日は瑞希が来て初めての平日。

 正直、二時間も早く起きてもやる事がない。スーツを着たら会社に行く、ただそれだけだったからこの違和感に少しだけ戸惑ってしまう。

 彼女は9時出勤らしいが、向こうで着替えるらしいので、8時には家を出ると昨日寝る間際に聞いた。俺はその一時間後に出る。フレックスタイム制なので適当に帳尻合わせしながら出勤している。


 スーツを身に纏い終え、キッチンで顔を洗う。適当に髪の毛に水をつけ、寝ぐせを直す。これも毎日の日課だ。髭も生えてきたが、まだ大丈夫。剃る程ではない。


「本当にキッチンで全部済ますのね」


 隣でみそ汁を作っていた瑞希は驚きながらもクスッと笑った。


「ああ、だって洗面所ないじゃんこの家。昨日も二人で歯磨きしたろ? それの朝バージョンだ」

「そうだったね。もう少しでご飯できるから、机の前でテレビでも見て待ってて」

「あいよ」


 当たり前のように俺は机の前に座って、テレビを眺めることに。

 こうして日々は進んでいくんだろう。

 初めだからこそ違和感を感じるもので、繰り返していく中で何も思わなくなってしまう。これがいつも通りだと。


「はい、お待たせー」

「これが朝ご飯というものか」


 配膳されていく料理に目を輝かせる。


「朝ご飯ってこんなものでしょ? 何その顔。今まででも食べた事くらいあるでしょ」

「あるけど、一人暮らしてからは一度も食ってないから」

「本当に言ってるの? 1日2食って事?」

「そうだけど?」

「ありえない! ちゃんと1日3食これからは食べるようにしなさい! 身体に悪いよ!」

「お母さんか」

「妻よ!」


 知ってるわ。


「じゃあ以後よろしく。頂きます」

「はい。どうぞ」


 初めて彼女が——奥さんが作るご飯を食べるな……当たり前か。

 至ってシンプルな朝ご飯。

 スクランブルエッグに焼いたウインナー、納豆にみそ汁、米。

 口に入れ、咀嚼。


「美味しいよ」

「……ありがとう」

「何照れてんだ」

「いや、その……そう言ってもらえると思わなかったから」

「俺を何だと思ってるんだよ。感想くらい言うだろ普通」

「普通……か」


 あ、やべ。これあれだ。昔の男思い出してるやつだ。


「瑞希はご飯も美味しくて、掃除も出来てすごいぞ。俺なんか毎日コンビニ、部屋は汚部屋。どうだ? 最高にして、最低だろ?」


「誇らしげに言ってんじゃないわよ! もう! 私はもう行くからっ!」


 ドタバタと忙しなく、鞄を持って玄関へ歩いて行った。


『今日の名古屋の天気は、午前中は晴れますが夕方には雨が——』


「お弁当はキッチンの上に置いてあるから! じゃ、行ってきまーす!」

「あ、今日雨——おいっ! って、聞こえてーねーし」


 傘いるぞって言おうとしたが、既に手遅れだった。

 というか、あいつ人に飯食えって言いながら、自分食わないのかよ……。








 あー、もうっ! 調子狂うなぁ!


『美味しいよ』


 その言葉が、声が、頭の中を反芻する。

 カンカンッと強くヒールを鳴らしながら、新しい通勤道を歩く。

 怒って道路に当たっているわけじゃない。どちらかと言えば、嬉しくて跳ねている。

 だって今まで何回も作ってきた。

 でも、美味しいと言ってくれたのは、緑が初めてだった。わかるかな、素直な感想を言ってくれたのは緑だけ。


 いつも私から聞いていた。——どう? 美味しい? って。

 でも彼は違った。

 私は料理が得意な方ではなくて、必死に練習してそれなりの物を作れるようになったのだけど、前の人はそれでも美味しいと言ってくれなかった。

 だからちょっと舞い上がちゃっただけ。素直に嬉しいと言わないところ、頑固だと自分でも思う。

 彼は時折、男らしいとこを見せたりするから嫌だ。あれを素でやっているから、たまにドキッとしちゃうし、好きになりそうになっちゃいそうで——なってもいいのにね。

 まあ好きになったところで好きになってもらえないのだから、結局意味がないんだからどっちでもいいんだけど。

 さ、気を取り直して今日もがんばろーっと!




「おはよー」

「あ、瑞希おはよー。今日はなんか嬉しそうな顔してるね」


 会社のロッカールームで先に着替えていた同僚の麻里子。


「え? そう?」


 ペタペタと顔を触って、ロッカーの鏡で確認してみるけど、いつも通りの顔しか映っていなかった。


「私には分かるわ。男でしょ?」

「違うよ!」

「あーそれそれ! その反応は男ね」

「違うってば!」

「やっとできたのね。2年越しに」


 どうやらお見通しみたいだ。出来たと言えば、出来たのだけど。彼女の言う、男とは彼氏のことで、旦那じゃない。

 私にできた男は、あくまでも旦那。夫。だーりぃんだ。


「できたと言えば、できた」


 麻里子にも結婚したことを言っていない。知っているのは上司の林原さんだけ。

 どうしても書類上の変更をしなければならないので、住所と苗字の変更を伝えた。


「どんな彼氏なの?」

「うーん、ズボラ?」

「出たよ! 生粋のダメ男好き!」


 だからそれやめてよ。変なあだ名付けないでよ。


「ダメ男好きじゃないし!」

「前付き合ってた男は?」

「浮気ばかりしてて、私が4番目だった男」

「ほら、ダメ男じゃない。その前は?」

「借金まみれの男」

「もういいわ。なんか私が悲しくなってきた……」


 憐みの目で私を見ないで……。私まで悲しくなってくるから。


「で、その彼はズボラなだけ?」

「うーん、まあそんなところ? 意外としっかりはしてるけど、頭のネジは2、3本ぶっ飛んでるかしら?」

「瑞希ちゃん? それしっかりとしているとは言えないよ?」

「しっかりしてはいないけど、仕事はしてる!」

「その基準をまずやめようか……」


 なんで!? 働いてるんだよ! ちゃんと!


「いい人なの。それでいいじゃん」

「私が何かを言った所であなたは変わらないものね。それで年収はいくら?」

「出た! 金で判断する系女子だ!」

「当たり前よ! この歳になればある程度の収入は必要よ!」


 収入か……。そういえば聞いてないなぁ。でも緑の会社は名古屋駅にあるって言ってたからそれなりに収入はあるんじゃないかな? どうなんだろう。今度聞いてみようかな。


「知らない。聞いてない」

「彼の会社の名前は?」

「知らない。でも大名古屋ビルヂングにある会社らしい」

「それは当たりね! 同僚紹介して!」


 この子はお金しか興味ないのかしら。


「無理でしょ?」

「いいじゃん! ここから近いじゃない! 仕事終わりにでもご飯いけるわ!」


 彼女の言う通り、ここから緑の勤めている会社は割と近い。歩いて行ける距離にある。目と鼻の先にあるのにも関わらず、私達は今まで出会うことなんてなかった。もしかしたらどこかで会っていたかもしれないけど、気付くわけがない。それだけ世界は広くて、狭いのだ。


「絶対嫌がるから。基本家から出ないって言ってたし、私服めっちゃダサいし」

「あははははっ! 何それ! ウケる! 逆に見てみたいわ」


 NYANDASAを着た緑の姿が頭の中に思い浮かぶ。……やっぱりちょーださい。


「ほんとにひどいから。笑い事じゃないから」

「で、そのださい彼とはどこで?」

「お見合いだよ」

「お見合いって、昭和か! 今どきしてる人は少ないんじゃない?」

「そうかもだけど、ほら私って男運ないじゃない? だから今回はお母さんの知り合いの息子さんだったの」

「それで意気投合したってわけね。まあ……よかったじゃない?」


 意気投合してないし、急に結婚迫られて、私も盛り上がって結婚したんですけど。それと、微妙な間を開けるのやめて。


「ありがと」

「お見合いって事はさ、結婚前提なの?」

「あー、いや、どうなんだろう……」


 この手の質問は困るなぁ。でも、隠す必要もないんだけど、麻里子なら話しても問題なさそうだし、いずれ結婚指輪が出来たら会社には着けてこようと思っているし……。どうしよう。


「それじゃ何の意味で付き合ってるの?」


 ええい! 話しちゃえ!


「驚かないでほしいんだけど——実は、もう結婚したの」


 告白すると、麻里子は固まった。

 当然の反応だけど……。


「まじ?」

「まじ」

「りありい?」

「りありい」


 同じ言葉で疑問形を返していく。


「苗字は?」

「蒼井から文月になりました」

「韻を踏んでる系?」


 一瞬何を言ってるのか分からなかったけれど、すぐに理解した。


「踏んでる系」

「ちょっと林原さんに聞いてくる!」


 そう言って私の話を信じずに、ロッカールームから出て行った。

 私も着替えを終えて、職場に向かった。







 瑞希が仕事に行ってから、食べ終わった食器を流し台に置いて洗ってみることにした。

 洗い物をしてないと帰ったら怒らられそうなので、一応だ。一応やっておいた。

 暫くゆっくりし、時間になったので傘を持って家を出た。


 この家から名古屋駅まで電車を使って15分といった所だ。

 伏見で乗り換えたら次は名古屋駅。そこから徒歩5分も掛からずにつく。こんななりをしているがこれでも大都会で働くサラリーマン。


 どこで働いてるの? と聞かれれば、ドヤ顔で『大名古屋ビルヂング』と答える。ま、聞かれることがそもそもないんだけどもね。

 大名古屋ビルヂングは言い方悪いけど、墓みたいな形をした立派なビルで最近に建て替えられ名古屋の一つのシンボル的な感じになっていると、俺は思っている。


 くだらない事を考えながらも、電車を乗り継ぎ、会社へとたどり着いた。

 社員証をかざして、地下鉄のようなゲートを通って会社に入る。これに憧れてここに入社したという下らない理由をここで紹介しておく。


「おはようございまーす」


 適当に挨拶をしながらオフィスに入る。


「おはよー! 緑!」


 元気な声で、当たり前の様に名前で呼んできたこいつは白石雪菜しらいしゆきな。唯一の同期で、高校時代の同級生である。


 そして、俺の童貞を奪った女——あるいは俺が処女を奪った女、とも言う。


「だからその呼び方やめろ」


 高校を卒業し、大学進学して少し経った頃まで付き合っていた。

 だが、俺達は別々の大学だったので時間が合わず、久しく会えば喧嘩をしたりとか、連絡が疎かになって喧嘩をしたりと、すれ違いが増えていき結局別れてしまった。

 それからというものの、彼女とは一切連絡を取らなくなり、気が付けば大学を卒業して、ここの会社に就職した。

 運命なのか、それとも必然なのか。

 こうして大人になり、再び彼女と再会したというわけだ。


「緑は緑じゃん」


 彼女は瑞希と比べると真逆と言った感じで、背は低く、髪の毛は短い。染色しており、髪の毛はピンクが少し混ぜられている茶色。あんまりピンク感はない。でも本人曰く、ピンクが少し入っているらしい。胸はでかい。生で見た事あるから、これだけは太鼓判を押しておく。高校生の頃から豊満だ。

 目は垂れ目で、優しそうな顔をしているし、その通りで性格も優しい。ただ、怒るとめんどくさい。

 まあ要は綺麗系じゃなくて、可愛い系だ。


「ここは会社だ。プライベートと区別してくれ。文月と呼べと何回も言ってるだろ。

「でも周知の事実だよ? 暗黙の了解あるよ?」


 何だよそれ。初耳だよ。

 だからか。なんか背中に視線が刺さるのは。


「とにかく使い分けしてくれ」

「あれ? 緑さ、なんかあれ?」

「どれだよ」

「何だろう、なんか雰囲——」

「文月さんおはようございます」


 雪菜の言葉は遮られ、元気よく挨拶して来たのは、後輩の柴田芽衣しばためい。呼称は柴ちゃん。人懐っこい妹的存在の5つ下の24歳の女の子だ。

 セミロングの黒髪で、天使の輪が出来るほどの艶々な髪の毛だ。この人生で髪の毛を染めた事すらないと言わんばかりの艶。

 彼女は俺と雪菜の唯一の後輩である。他にも同期がいるらしいが、彼女の入社メンバーは全員別の部署らしい。


「ああ、柴ちゃん。おはよ」


 だが、俺達は後輩が彼女でよかったと思っている。

 抜けているところもあるが、気真面目で心優しい子だ。いつも課長にお茶を出したりと、やらなくっていい事もやってしまうくらいだ。

 そのたび、俺が課長に怒るくらいだからな。そんなもん自分で淹れてこいと。人の時間を奪うなと。何回も言ってるいるのだけど、中々癖付いたものは直らないらしい。やっかいだ。


 デスクは雪菜、俺、柴ちゃんの並びで座っており、男性社員からは羨ましいとよく言われるが、知ったこっちゃない。

 こちらから言わせてもらえば、元カノが隣にいる方が気まずい。


 この会社に入ってから何もなかったとは言えないし余計に。

 彼女は気にもしていないかもしれないが、俺は気にする。

 あれは——黒歴史。俺史上、最低な事をしたと思うくらいには最低。黒歴史じゃなくてただの過ちだ。お互いに……な。

 とまあ、こんな感じでいつも3人で仕事をこなしているわけで。


「その柴ちゃんってのやめてほしいです。私これでも24歳ですよ? ここに入社してから2年も経つのに。なんか距離感じちゃいます」

「逆に聞くけど、なんて呼べば?」

「ずっと言ってるじゃないですか。芽衣って呼んでくださいよ」

「君もプライベートと仕事を分けようか」

「むむむ! 芽衣ちゃん? 今話してたのは私よ?」

「あ、雪菜さんいたんですね。小さくて気付きませんでした」

「ねぇー緑! 芽衣ちゃんが意地悪言ってくるんだけどー」

「知らん」

「ぷふっ」

「あー! 笑ったぁ!」


 柴ちゃんに指を差しながら、俺の腕を掴み揺すってくる。


「もういいから、仕事始めようぜ……」

「ですね」

「二人して私をいじめてるの!?」


 うるせー。高校の時の健気さはどこ行ったんだよ。



 そして時間は経ち、17時半、仕事終わり。


「緑、今日飲みにでも行かない?」


 外を見ると、雲は厚くかかりどんよりとして、今にも雨が降り出しそうな感じだった。


「悪い。今日は用事があるんだ。また今度なら」

「そっか。じゃあまた誘うね。じゃあ仕方ないから芽衣ちゃん行かない?」

「ちょっとその言い方は気に食わないですね」

「芽衣ちゃんと飲みに行きたいなぁ!」

「ふんっ! 行きませんよ!」

「行ってやれよ。泣きそうだぞこいつ」


 うるうると瞳に水を溜め、今にも大声で泣き出しそうな雪菜。


「はぁ、仕方ないですね。おごりならいいですよ」

「うんうん! おごらせて!」

「今言いましたからね」

「はい!」

「じゃあ今日は二人で楽しんで。俺はお先に失礼する」


 荷物を纏めて立ち上がり、会社を後にした。







「あーあ、仕事終わったころにはまだ降って来ないと思ってたんだけどなー」


 麻里子が会社の入り口の方を見ながら静かに呟いた。

 その声に反応するように外を見ると、地面を叩きつけるようなほどの雨が降っていた。


「私傘持ってきてない……」

「ありゃりゃ、今日の朝のニュースで言ってたよ?」


 朝……あっ、なんか家出る時になんか呼ばれたような気がしたけど、もしかして傘を持ってけって言おうとしてたのかな? いやぁ、あんなズボラでだらけている緑に限ってそんな融通の利く事が言えるわけないよね……。


「みーずきちゃん!」


 そんな事を考えていると、このビルに勤める男、更科貴一さらしなきいちに声を掛けられた。

 彼はよく私に声を掛けてきて、ご飯に行こうと誘ってくる少しめんどくさい人。これっぽっちも興味がなくて、何回も断ってるのにも関わらず執拗に誘ってくるのだ。

 顔は良いけど、このノリと言うか誰にでも声を掛けてそうな感じが嫌。


「こんにちは。どうかしましたか、更科さん」

「たまたま傘を持って来てない話が耳に入っちゃってね? 俺傘持ってるんで、良かったら送ってきますよ?」

「お気遣いありがとうございます。私は大丈夫なので」

「そんなこと言わずにさ、たまには格好つけさせてよ」


 ああ、もう! 本当にしつこい。一回断ったんだから、諦めて帰りなさいよ。



「——あれ、あの人初めて見る」



「ですから、大丈夫です」

「たまにはいいじゃん。駅まででもさ!」


 麻里子の声が聞こえて、視線をさらしなさんから正面玄関へと移すと——


「瑞希、多分新規のお客さんかも」


 肩を叩かれるが、驚きのあまり返事が出来なかった。

 どうして彼が今この会社に来ているの……。

 彼から目が離せないでいると、彼はキョロキョロと周りを見渡してこちらを見た。そして目が合ってしまった。

 持っていた傘を閉じ、スタスタとこちらへと歩いてくる。

 待って、どうして……?


「あの……」

「はい。本日はどうされましたか?」

「どうしたかですか……そこにいる固まってる方に用があるんですけど」


 私を指差し、緑はそう言った。


「おい、お前なんだよ?」


 カウンター越しにいた更科さんが緑に突っかかり、詰め寄った。


「失礼ですけど、あなたこそ誰ですか? 礼儀ってものがあると思うのですが?」

「俺は更科だ。ここにいる瑞希ちゃんの彼氏になる男だ」


 すると彼はフッと笑い、「あ、失礼」と言って、更科さんの体に一歩近づいた。


「何だよ?」

「彼氏になる。あくまで予定ですよね?」

「そうだ」

「残念ながら、それは叶えられませんよ」

「はぁ? お前何様のつもりだよ」

「あのお客様——」


 麻里子が仲裁に入ろうとしたところに緑は手を出して抑止させる。


「俺はそうですね。あなたにとって酷かもしれませんが」

「彼氏か?」

「俺は瑞希のだ」

「え!?」


 更科さんより先に声を上げたのは麻里子だった。

 酷く冷たい声音で言い切った。追い打ちをかけるように、更に言葉を続けた。


「言ってる意味わかるよね? 君は最早、友達にもなれないし、それ以上になることもできないんだ。俺がいる以上、彼女に手を出すことは許さない。分かったらさっさと帰れ」


 ……ばか。


「結婚してたなら言えよ! お前人の事弄んでたのか! ちょっと顔がいいからって調子乗りやがって!」


 標的が緑から私へと変わった。


「も、弄んでません……私はずっと……断って——」

「おい。とりあえずお前いっぺん表出ろ」


 襟を掴んで、引っ張り出して行ってしまった。


「……」

「瑞希、あんたの旦那ちょっとかっこよすぎじゃない? 顔も、内面も。それにあの髭。ダンディーすぎ」

「……そうかな……」


 放心状態。今の私の状況を例えるならこの言葉が一番ぴったりな気がする。

 初めてだった。あんなに怒ったところを見たのは。当たり前なんだけど、ちょっと……かっこよかった……。

 暫くすると、ロビーに戻ってきて恥ずかしそうにポリポリと頭を掻いた。


「……すまん」

「……え、あ、うん。……ありがとう」


 しどろもどろに返事をすると、麻里子が口を開いた。


「今の話って! 本当ですか? あなたが瑞希の旦那さんなんですか!?」


 緑は目を見開き驚きながらも、しっかりと答える。


「まあ……一応、本当ですけど」

「きゃー! 今のめっちゃかっこよかったですよぉー」

「やめてください……恥ずかしいです……」


 うっわー猫被ってるわー。


「今日はどうしたの? こんな突然に」

「あ、いや、その……傘、持って来てないだろ? だから、仕事早めに切り上げて、その、何だ、迎えに来たんだけど……」


 緑の言葉にキュンッと胸が鳴る。


「……ばっかじゃないの。あと三十分で終わるから……」

「お、おう……じゃ、じゃあそこのカフェで待ってるわ」


 そう言って、ロビーから出て行く緑の後ろ姿を見送り、ホッと一息つく。


「付き合いたてのカップルか!」


 麻里子のツッコミが的を得すぎて、言い返せない。

 付き合いたてではないが、出会ったその日に結婚したとまでは流石に言えないから、何も言えない。


「……さっきのは反則でしょ……」

「やばかったねぇー。私も惚れそうだったよ」

「ダメだよ!」

「冗談じゃない。真に受けないで?」


 しまった。つい……。


「愛しの旦那さんが待ってるから、ちゃちゃっと帰らないとね。受け付け後の業務は私がやっておくから、今日は早く行ってあげな」

「いいの?」

「いいわよ。その代わり、男紹介してね?」

「……分かった。なんとかしてみます」


 それから業務が終わり、緑の待つカフェへと急いだ。







 あぁ、俺はなんて恥ずかしい事をぉーーーーーーーーーー。


 カフェに入り、コーヒーを注文して、席に着いた俺は頭を抱えながら羞恥に悶えていた。

 『俺は瑞希の旦那だ』って何を格好つけていってるんだよぉおれぇ!

 間違ってはないけど、間違ってるよぉ!


『彼女に手を出すことは許さない』


 ってなんだよぉ! 俺自身も手すら出してないのに、どの口が言ってんだよぉ!

 あぁぁぁぁぁぁ!

 恥ずかしい! 絶対あとでいじられる。茶化される。彼女の事が間違いなく言ってくる!

 まじでどうかしちゃったよぉ!

 そんな感じで悶えていると、頭上から例の者の声が聞こえてきた。


「お、お待たせ……」

「お、お疲れ様」


 もじもじしながら俺の横に立ったまま座ろうとしない。


「座らないの、か?」

「えっと、すぐ行くかなって思って……」

「そうだな、じゃあい、行こうか」


 コーヒーを一気に呷り、飲み干して店を出た。







 あーもう! 

 恥ずかしい!


 スーツ姿で歩く彼の隣を深く寄り添って歩く私はなんだかドギマギして歩き辛い。

 さっきから緑は上の空というか、どこ見て歩いているのか分からないし、私は私で俯いて下ばかり見て歩いている。

 上手く顔が見られない。

 名古屋駅までの短い距離ならまだしも、家までの距離は結構ある。長い時間を相合傘で家に向かうのだ。

 人気のないこの道で歩いている私達は、回りから見たらどんな感じに見えているだろうか。

 勇気を出して顔を上げて緑の顔を見ると、頬が火照っていた。それと傘をこっちに寄せているので、少し右肩が濡れている。


「ちょっと濡れてるよ」



 グイッと緑の方へ傘の柄をずらす。


「いいんだよ」

「ダメ!」


 ぐいぐいと押し問答を繰り返し、珍しく引かない緑にイラついた私は傘を持っている腕に抱きついた。


「ちょ、お前くっつくな!」

「こうすれば濡れないじゃん! 人の言う事聞かないからだよ!」

「ぐっ……」


 苦虫を噛んだように、顔を歪めた。


「……あのさ」


「何?」


「嬉しかったかも」


「何が」


「さっきの……あれ」


「やめろ。黒歴史だ。掘り返すな。お前は俺の事いじるのが趣味になってないか?」


「そんなことない……本当に——」




 ——嬉しかったんだから。




「……私ばっかり、じゃないだろ?」



 そのセリフはずるいよ。


 ——ばか。





****


あとがき


こんばんは。えぐちです。


昨日は更新できなくてスイマセンですた。


今日もまたこんな遅くになってしまいごめんなさい。


今回は一万文字とすごく長い話になってしまいました。どうかお許しを。


では、おやすみなさい。


いつも読んでくれている皆様、本当に感謝しております。

ありがとうございます。





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