第4話:ファーストテイク

 世の中は自分が思っているよりも、上手く回らないようにできている気がする。それは勉強でも、仕事でも、人間関係でも、恋人でも、例え結婚相手でも。


 いずれは壁に当たって問題を提示されてしまう。考えれば考えるほどに回らなくなり、停止する。

 現に今の俺達の問題は摩擦し合って火花を散らし、停止に向かっている状態だった。


 だから瑞希から掛かってきた電話を思わず切ってしまった。


 その内容に驚いて、つい。

 部屋を見渡す。


「……この家に住むだと?」


 笑わせてくれる。


 俺が住んでいる家は、一般的なアパートじゃない。二階建ての築48年、ワンルームのボロアパートだ。いつ倒壊してもおかしくないくらいにはボロボロで、トラックが家の前を通るものなら震度3くらいの揺れを体感できてしまうくらいには古き良きボロアパートだ。


 なぜこんな家に住んでるかと言えば、金が掛からないのと家にこだわりがないからとしか。家賃は共益費、管理費込々で3万円。そして駐車場を入れると3万5千円。こんなお値打ちな家はあまりない。ましてやここは名古屋市内。価格設定間違えてるとすら住人の俺が思うくらいだ。

 ある程度の衣食住が出来れば、人間生きていけるもの。


 ——ただ、俺が住むだけといった話で。

 彼女が住むには如何せん厳しいものがある。

 かつて、彼女がいたころの話だが、俺はこの部屋の惨状を隠していた。


 隠していたというか、幻滅されると思って取り繕い、家に上げなかった。ずっと実家暮らしと嘘をついていたり、逃げたりしていた。


 生活を知られれば幻滅されると思ったから。

 この歳になってやはり気にするのは、家とか、車とか、見た目で判断しかできないものに変わってくる節がある。


 金がないからこんなボロアパートに住んでるんだとか、金がないから軽自動車に乗ってるんだとか。そんな外見的判断をされやすくなる。相手のスペックみたいなものだろう。


 だからいつもは髪型を整え、髭も剃り、そして身だしなみも整えてデートに向かう。


 傍から見れば、普通の彼氏になって自分を取り繕って、分厚い仮面を被りながら彼女に会ってきた。


 しかし、時間が経てば経つほど彼女は家に来たがるもので。

 めんどくさくなった俺は彼女を家に招いた。

 住んでいるアパートを目の前にして、出た最初の一言は「ボロッ!」だ。


 確かにボロいのは否定しないが、だから何だと。

 そして家に入れ、俺はこんな人間なんだと打ち明ける。部屋は散らかっているし、広くない。


 ——すると彼女はドン引き。まあそうだろう。大体の人はそうなる。

 部屋が汚いのは自分のせいだし、これに関しては俺が悪いから仕方がない。


 それから彼女と会う時間は減っていき、自然消滅。そんな事は何回もあった。

 笑えるだろ。

 結局、俺はその程度でしか愛されてなかったのだと。


 期待するのも烏滸がましいと分かっている。そんな期待なんてする立場にない事も分かっている。だけど、それでも、やっぱりくるものがあった。


 これが本当の俺だと、受け入れてくれるものは誰もいなかった。

 部屋を片付けてみても、変わらない。

 結局、見た目がダメなんだと悟った。


 ここのアパートは割と気に入っている。大家さんの人柄もいいし、いつも良くしてもらっている。よほどの事がない限り出るつもりもない。


 だから、俺は付き合うのはやめた。取り繕ってもダメ、本性を見せてもダメ。なら、もういいやと。


 煩わしい事を排除してしまえば、きっと自分は楽になるし、気にしなくても良くなる。


 それが最適解と気付いたのだ。


「本当にめんどくさいことばかりだ」


 はぁぁぁーと長嘆息が出る。


 片手に持ったままのスマホを開き、着信履歴を表示させる。

 めっちゃ大好きな奥さんと書かれた履歴。


 ふっと笑ってしまう。


 ……こいつなら——なんて野暮な期待を持つのはやめよう。


 そしてに電話を掛けなおした。


『もしもしっ!』


 早っ! 出るの早っ!?


「出るの早いな、ワンコールもしなかったぞ」

『う、うるさいなっ! 丁度触ってたのよっ!』


 お前の声の方がよっぽどうるさいわ。


「そんな事はどうでもいいんだけど、とりあえず、その、あれだ、切ってすまんかった」

『え? ああ、いいわよ。そうなるだろうと思ってたから。気にしなくても』

「それでなんだが、無理だ。急に来られても困るし、うちは広くない。一人暮らし専用の家だからな。瑞希が住んでいるような立派なマンションではない」


 幻滅も幻滅。マンションからボロアパートに格下げになるんだ。彼女が住めるような家ではない。


 胡坐をかき、部屋を見渡すと自分で肩を落とすくらいに散らかっている。自分だけが住むならまだしも……。


『で、でもさ! もう引っ越し業者頼んじゃっているみたいだから、どうしようもないんだけど……』

「なら、キャンセルしてくれ。何なら俺がキャンセルしてやってもいい。電話番号を教えてくれ」

『ちょ、ちょっと待ってね!』


 そう言うと、受話器の向こう側から『お母さーん』と呼ぶ声が聞こえてきた。……保留にしろよ。

 暫くすると、戻って来たのか、ドサッと何かに座る音と共にもしもしと一言。


『教えてくれない……』

「使えねー」

『仕方ないじゃない!』

「何とかして、阻止するしかない」

「……ねぇ、そんなに私と暮すのが嫌、なの……?」


 そういう訳じゃない事もない。

 俺の中ではまだ先の事だと思ってたから。まだ自分の時間があると思っていたから、あまりにも突然すぎて対応できていないだけだ。それにこの家に住まわせるなんて、できない。


「……そういう訳ではないかな?」

『なんで疑問形なのよ! 少しくらい歩み寄ろうとしなさいよ!』


「とにかくだ。俺の母親とお前の母親はどうやら頭のネジがぶっ飛んでいるみたいだ。嫌な事にそのどちらも引き継いでしまっているという、情けない現実から目を背けたくなってしまうな。……おっと、話が逸れたな。今は現実的かつ普通の考え方で戦うしかない。壊れたネジを作り直すために説得してくれ」


『……私は別に嫌じゃないんだけど……』

「は? 何? 聞こえない!」


『なんでもないわよ! 説得すればいいんでしょ! 分かったわよ!』

「頼んだ」


『一ついいかしら? あなたの家はそんなに狭いの?』

「あぁ。ここは……ここは人が住む家じゃない」


『どんな家よっ!!』


 めっちゃぼろくて、掃除していない汚い家だよ! と言ってやりたいが、言えないのは自分のせいだ。


「言い方を間違えたな。お前が住むような家じゃない。じゃあな。またなんかあったら連絡してくれ」

「ちょっ——」


 何かを言いかけたが、聞きもせず電話を切った。








 あの電話から、結婚してから3日が経った。

 仕事を終えた私はある場所へと足を向かわせていた。


 まだ指輪は届いていない。だから会社の人、ある一部を除いてはまだ知られていない。隠しているわけではないが、まだ報告しなくてもいいだろうと思ったから。


 カツカツとヒール音を鳴らせ、歩いて行く。


「えっと……ここを右に曲がって、次の交差点を左に曲がると見えてくるのね」


 スマホの地図アプリを見ながら、教えてもらった住所にやっとの思いで辿り着いた。


「すずき荘、これね」


 目の前にあるのは築年数が高そうなアパート。階段は鉄で出来ており、昔ながらのアパートと言った感じだった。


 カンカンッと心地よい音を鳴らして、階段を上がっていく。


「確か202号室だったよね……」


 玄関前に立ち、表札を見ると紙に適当に書かれた『文月』という文字。


「何も言わずに来ちゃったけど……まあ、いっか」


 インターフォンに手を伸ばして押すと、経年劣化しているのか、ギギギっと妙な音が鳴り、外にまで中の音が聞こえてきた。


「はーい」


 と、中から久しぶりに聞く声が届く。

 ゆっくりと開けられる扉に、少しだけ緊張してきた。……私は一応奥さんなのだけれど。


「どちらさ——って、おい! 何でお前がここに居るんだよ!!」

「———ッ!?」


「おい、聞いてんのか!?」

「ふ、ふ、ふふふ、服くらい! 着なさいよぉっ!!」


「あべしっ!?」


 思わず彼の頬をぶん殴ってしまった。

 どさりと倒れる音が聞こえるが、両手で顔を覆い、見ないように隠した。


「ってーなあ! 何すんだよ!」

「あ、ああ、ああんたが! パンツ一丁で出てくるからじゃないっ!」

「はぁ!?」

「とにかくっ! 服を着てちょうだいっ!」

「はぁ……急に来てんじゃねーよ。こっちにも事情があるだろ……ちょっと待ってろ」


 嫌な顔をしながら、バタンと扉を閉めて部屋に戻って行ってしまった。


 それにしても、意外といい体してた……。

 ……っ!? 私ったら何をやらしい事を!?


 頭を振り回し、よこしまな思考を振り払った。

 というか、家の中で待たせなさいよ! ちょっと寒いじゃない! 今は4月といえども、流石に外にずっといるのは寒い。


「お待たせ、何の用だ」


 彼は部屋を隠すように扉を閉じた。


「ちょっと家を見せて貰おうかなって……思って、ごめんなさいっ!」

「……それはあれか。説得できなかったって捉えていいんだな?」


「はい。そうです」

「やっぱりか。……俺もダメだった……」


「でしょうね……」


 沈黙が流れる。彼は頭を抱え、悩み込んでいた。


「あ、あの寒いんだけど……」

「じゃあもう帰れ」


 はぁ!? 何それ信じられない!


「少しでいいから上がらせて! 中も見てみたい!」

「絶対に嫌!」


「おーねーがーいー! 見せて見せてー!」

「うるさい! 早く帰れ!」


「少しだけでいいから! 先っちょだけでも!」

「おかしいからそのセリフ。お前が言う事自体も」


 長らく押し問答していると私がしつこかったのか、遂に諦めて家の中に上げてくれた。


 この人、押しに弱いと新たなプロフィールが私の中で更新された。








 何でこうなってしまったんだろう。

 これまで散々避けてきたのに。


「意外と広いじゃない! 少し散らかってるけれど、これなら私も住めるわ!」


 ——だが、彼女の反応は違った。


 今まで何人も見てきた。

 なのに、それなのに、瑞希の反応は初めてだった。

 俺は驚いて、ただ呆然と彼女を眺めることしかできず、自分の家なのに玄関から動けず仕舞いで。


「緑? 何してるの?」

「あ、いや、何でもない」


 誤魔化す様に靴を脱ぎ、家に上がり彼女の隣に腰を下ろした。


「なんかいいねぇ! この昭和な雰囲気が」

「そ、そうか……」


 予想外の反応しかしないので、何を言ったらいいのかとしどろもどろになってしまう。


 既に自分の家のようにくつろぎ始める彼女。


 全面土壁で、畳の家。昭和な雰囲気というか昭和に建てられたものだから当たり前なんだけど、彼女はそれがいいと言った。


 俺は何か勘違いをしている。


 ここに住めないと決めつけていたのは自分で、彼女の意見なんて聞いたところで幻滅されると当然のように思っていて、見せてもいないのにずっと、きっとそうなると思っていた。


 自分自身の勝手な憶測で決めつけていた。

 過去がそうだったから、この人もそうだと。


「んーでも、もうちょっと片付けた方がいいね。雑誌とかゴミとか結構落ちてるから」

「これが俺の通常なんだよ」


「緑にとってこれは綺麗な方なのね。そこまで汚いかと聞かれたら、そうね……綺麗な方だわ」


「それに俺は家では常にパンイチだ」

「いいんじゃない? そのうち慣れると思うし。さっきはあまりにもびっくりしただけよ」


「髭も髪の毛も本当はぼさぼさに生やしてるんだ。滅多に剃らないし、この前みたいに身だしなみを綺麗にすることもない」


「え! 髭生やしてるの!?」


「ああ」

「見たい!」


 俺は何をしてほしくて、何を思ってほしくて、この話をしているのだろうか。


「それに外を歩く時だって、ステテコにTシャツだ」

「私と外を歩くときだけは、普通の格好してくれれば、何の問題もないよ」


「俺は……朝から酒を飲むし、家の事は何もしないし、ぐうたらして休みを過ごすし、キッチンで髭を剃るんだぞ」

「いいよ」


「……なんでだ」

「何が?」


「何でもっと嫌がらないんだ。俺はみっともなくて、だらしなくて、こんなボロアパートに住んでて、部屋も汚いし、狭いし、結婚なんてしたくなかったと今でも思ってるのに、ずっと一人で暮らしていくって決めてたのに……なんで、なんでこんな俺を受け入れるんだよ」


 当たりようのない怒りを彼女にぶつけ、自分が惨めになる。これは勝手な怒りだ。



「そんなの決まってるじゃん」



「私はあなたの——だから」



 

 純粋無垢な笑顔に、もう何も反論すら、自分を卑下する言葉も見出すことは出来なかった。


 彼女は今までの女とは違う。


 間違っているのはきっと俺だ。

 世の中は上手く回っていないんじゃない。自分だけがそれに逆らうように生きていて、上手くいっていないような錯覚に陥っているだけで、世の中は、世界は上手く回っている。


 結果がどうであれ、巡り巡って結婚をした。

 これも多分一つの壁なのだろう。

 何やかんや、なるようになる気がする。上手く収束する。そうなるように出来ている。


 ——ただ、それを受け入れられるかどうかは、全部自分自身の気持ち問題なのではないだろうか。


「瑞希って、俺が思っているよりいい女なのかもな」

「きゅ、急に何よ!」

「何でもない」


 ふっと笑みが零れた。


「それ!」

「ん?」


「その笑った顔が私は好き!」

「ばっ、ばっかじゃねーの!」


「何でよ! ほら、もう一回笑ってごらんなさいよ!」


 俺に近づいて、頬を両手で掴む。


「やめほ!」


 前のめりになりながら頬をぐにゃぐにゃといじくる。そして脚を俺の股の間に入れ、さらに近づいてくる。


「はい、ほら、笑って! 笑顔!」


 後ろにのけ反って逃げると、床に落ちていた空缶ビールに手を置いてしまい、滑るようにずるりと倒れてしまう。


「おわっ!?」

「きゃっ!?」


 これは事故だ。

 上に重なった彼女は中々離れてくれない。


 放心状態である。

 肩に両手を置き、固まっている瑞希をゆっくりと起き上がらせ、隣に座らせた。

 ちょこんと縮こまりながら、俯く。


「だ、大丈夫か……?」

「……うん」


 顔が真っ赤になった瑞希は撫でるように唇をなぞった。



 ——そしてこれが、俺と彼女のファーストテイクだった。


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