五冊目 『山の上の交響楽』

 捜索対象:中井紀夫著『山の上の交響楽』


『コロナ時代の読書~私たちは何を読むべきか~』https://kakuyomu.jp/special/entry/readingguide_2020


という感想文というか紹介文コンペみたいな企画がひと月前から開催されておりまして。

 石束としては、ぜひとも大好きな『復活の日』(小松左京著)を紹介したくて色々読み返したり資料を集めたりしていたのですが、ぐだぐだやっているうちに他の方が紹介してしまわれまして(笑)

 ……角川さん的にも推しておられる一冊。映画がネット配信され、本屋さんでカミュの『ペスト』と一緒に平置きされて、露出も増えてます。最後の最後まで、誰も手を出さなかったのは、きっと「誰か書くんじゃないか」とけん制しあった結果なんじゃないかと、締め切り過ぎた7月1日にしみじみ思ったりするわけです。


 おんなじ本を選ぶのも芸がない。どうせ準備していた原稿は(感想文なのに)一万字を突破してて、今更二千字にできないし(いつも通り)

 別ので書くか……と、寸前になって選んだのが『山の上の交響楽』でした。


 これは、大雑把に言うと、「全部演奏するには下手すれば一万年かかる楽譜を、八交代で三時間づつ、延々、宇宙が終わるまで演奏しつづける楽団」のお話です。


 独特の味わいというか空気感のある作品を書くこの作家さんが、どちらかというと幾分自分の「におい」控えめにして、さらっと欧米の古典SF風味にバランスの良くして、一読すれば、すっきり終わって読後感もいいという、日当たりのよい喫茶店の窓際の席で頼んだコーヒーが適度に冷めるまで待っているような(猫舌)そんな、ここちよい気分になれるお話なのです。


 そして、話の本筋が(初見の方のためにあえてズラした表現で書きますと)


「音楽活動ってのは好きなだけじゃやってられない。本人が暮らしていくために衣食住が必要だし、楽団を維持するためにすべきことも多い。『演奏会で楽器を弾く』なんて、実はその一部も一部で最後の最後。でも、それでも僕らはそんな音楽なしには、きっと呼吸することもできやしない」


というお話でもあります。


 どうせ本を紹介するなら、コンサートやライブがコロナのせいで中止になって、大変なアーティストの方たちへの応援も込めて、選んでみよう。

 歌ったり演奏したりしている人の見えないところがほんとに大変なんだよ、みたいなことが、伝えられないだろうか?

 

 というのがこの小説を紹介しようと思った意図でした。


 ――で。


 実際に書き始めると脳裏に浮かんでくるんですよ。中止になったコンサートやら、いけなくなった映画やら、中断しているドラマや公開予定が聞こえてこないアニメとか。それでも必死に配信動画の向こうで戦っているアーティストさんたちの姿とかが。

 興奮や熱狂を肌で感じるべきあの場所が、あの機会がもう二度とないのか、マスクとアクリルボードで細切れになったホールで、この先もずっと音楽を聴かねばならんのか、と絶望感が押し寄せてくるんですよ。


「――なにがウィズ・コロナだ。何が新たな生活様式だ。

 こんな目にあわされて何が共存だ。

 画面越しのライブやコンサートを、当たり前に受け入れてたまるか。

 映画は映画館で見るもんだ。初日のぎゅうぎゅう詰めで隣と肩がぶつかるような小さな劇場で、「おおっ」「わあ」とか、他の人の声も聴きながら一緒に見たいタイプなんだよっ!


 僕は絶対に受け入れないぞ。

 アーティストたちが闘っているのに、オーディエンスが受け入れてどうする。

 お前ら、まさかあきらめてるんじゃないだろうな――」


と頭の芯が熱くなり。その一方で。


「じゃあどうすんだ。わかってんだよ、そんなこたぁ! わめくだけじゃなくて代案を示せ。そんなもんねえから仕方ないってみんな納得しているのに、ガキかてめえは。大人になれや!」


とスカしたことを抜かす別の自分が頭の中にいたりしもするので、脳内で延々ドつき合いをしていたために、自己を顧みる時間が無くなりまして。


 一度、そっちに気持ちが「振れて」しまったら、やさしい文章なんてかけません。投稿作品の「紹介文」なんて、あんなヒネたの書くつもりじゃなかったのに、感情が制御できなくて――拗れました。


 というわけで、感情過多になって、肝心の作品についてロクに述べられなかったので(反省)こっちのご近所さん向けの方に、こっそり書いておきたいとおもいます。


◇◆◇




 ――私の作品は、この宇宙の中で、ただ一度だけ演奏されるべきものである。



 天才作曲家・東小路耕次郎は自分の作品をただ一度だけ演奏すべきものとし、二度目の演奏を不可能とするために「宇宙の寿命と同じ長さ」の曲を書こうと考え、そして、すべてを演奏するためには数千年、まかりまちがえば一万年を要するであろう曲をつくった。


 中井紀夫 著の短編『山の上の交響楽』はこの長大な楽曲を演奏する――演奏し続ける楽団員たちの日々を追う物語です。


 初出はたぶんSFマガジン 1987年10月号。

(なぜ「たぶん」かというと、掲載号を確認していないからです)

 もう少し時間があれば、これ以降のバックナンバーもあたって読者の(おそらく当時の日本中でもっとも目の肥えたSFモノたちの)反応を調べたかったのですが、そのためには県立図書館に半日くらい籠る必要があるので今回のところはご容赦ください。

 ただ「反応」というということでは隠れもない大きな反応がありました。

 この短編小説は、翌1988年に星雲賞(日本短編部門)を受賞するのです。


「星雲賞」はもちろん権威ある賞(日本でもっとも古いSF賞)ですが、むしろ毎年行われる日本SF大会参加登録者のファン投票により選ばれるという点が面白い賞で。


 第五回の時には日本SFの巨人小松左京が9年の時を費やして書き上げた大作『日本沈没』が長編部門で選ばれ、この『日本沈没』を読んで「面白い!」と興が乗った(悪ノリをした)人々がからんで、最終的に皮肉と諧謔の魔人筒井康隆が「数時間」で書いた『日本以外全部沈没』が短編部門を受賞した……ということもあるくらいで、まじめに真剣に選びながらも、どこか

「SF好きが寄ってたかって『一番』を決める」

……みたいな「遊び」とか「祭り」を感じさせる賞です。


 もちろん、受賞作はどれも面白く、手に取って間違いはありません。また当時のSF界隈を象徴する一本が歴代受賞作品に名を連ねており、順番に見ていくと、ある意味「現代SF史」を俯瞰しているようにも思えてきます。


 たとえば――

『山の上の交響楽』が星雲賞を獲得した1988年の長編部門は、前年にトクマ・ノベルズ版の10巻目が出て本編が完結した『銀河英雄伝説』(田中芳樹 著)。

 そして映像部門の受賞作品は、SF大会のOPを作るために集まったアマチュア集団が企画をバンダイに持ち込み、二時間映画の予算を獲得して制作のために会社を設立。ついに完成にこぎつけた『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(ガイナックス)だった。


――と申し上げれば(なんとなく)現在との時間的距離と当時のSFを取り巻く世界が(雰囲気だけでも)伝わってくるような気がする……んじゃないかと。


(蛇足ながら。この年の4月にスタジオジブリによる『となりのトトロ』『火垂るの墓』が公開されています。『となりのトトロ』は翌年1989年の星雲賞映像部門受賞作です)


 1980年代というのは、それまで「文章だけで想像させていた」SF小説というジャンルが、高度な技術と豊富な人材を得てまさに円熟期に入ろうとしていた「アニメーション」というパートナーを得て、「想像を超えた映像を見せることができる」ようになった時代の「入り口」だったのではないか。

 誰もが「一番すごい映像で、その物語を見てみたい」と思うようになって、そういうお話を一生懸命さがしていたのじゃないか、と思います。


 つまるところ、そんな――1980年代末に。


 SFマガジンだけでも結構な作品が一年で発表されている中。「なんか面白くて新しいSFは無いか?」と探し回っていたSFファンたちにとって。

『山の上の交響楽』は「なんだこれ、おもしれえ!」と衆目一致で一番に推される小説であった、ということなのです。


 ――なのに、なんで『山の上の交響楽』映像化という話が出てこないのかっ!

 私には絶対納得できないっ(結論でこれがいいたかった)


◇◆◇


『山の上の交響楽』は群像劇です。


 素晴らしい曲――な、だけでは、こんな途方もない曲を演奏することなど不可能。

 実現するためには、優れた才能が、とてつもない「量」で、必要になります。


 だいたい音楽に関わる人間は仙人ではない。住むところも食べるものも必要です。長い長い、とてつもなく長い曲を演奏し続けるためには、楽団員の生活を保障し、適正に健全に組織を運営する必要がありました。


 物語の主人公・音村は、交響楽の作曲者たる東小路の死後、実に三百五十年も後の時代に、楽団の事務局で働いています。


 演奏が始まってすでに300年。交響楽と奏楽堂のある風景はそこに生きる人の世界の一部となり、日が昇り日が沈むのと同じように、今日も演奏が続いている。


 そんな楽団にあって、彼の仕事は八つのオーケストラと各団員の間を折衝し、三時間づつ八交代で昼夜わかたず続く演奏を、遺漏なく続行させつづけること。

 しかし。わがままな指揮者、写譜屋こと調子のよい楽譜の管理者、頑固な楽器職人に、弦と管の争いのような仕事関係に人間関係、さらには誰も見たことない未知の楽器の製作等々、彼がなんとか円滑に演奏会を運営しようすればするほど、様々な問題が立ちはだかります。

 そして、なにより。

 八つのオーケストラが一堂にステージに上がる楽団始まって以来の難所、『八百人楽章』が目前に迫っていました。


 トラブルがあっても演奏は続きます。彼はさまざまな人々の協力を得ながら、問題解決に、ひいては、演奏を続けるために心を砕く。

 一つづつ、丁寧に。これまで通りに、これからもそうであるように。


 そんな日々を過ごしていく中で音村は、ヴァイオリニストの雨藤良子から問われました。


 ――山頂交響楽を誰が聞いているというのか。


と。


 ――最初から最後まで通して聴けるものはだれもいない。

 ――どうして始まったのかを知るものもいない。

 ――それなのに、なぜ自分たちは、演奏し続けているのか。


 確たる確信も情熱も無く。「惰性」で演奏を続けているだけなのではないか、と。


 ……最近ニュースで、イベントやコンサートが中止になりミュージシャンやアーティストたちが経済的も精神的にも苦境にたっていることが伝えられるたびに、私はこの小説の、この部分を思い出します。

 そして、想像せずにはいられない。

 自分のパフォーマンスに対して、あったはずの反応がなかったら、ライブやコンサートで演奏していた彼らは、今、どんな心境にあるのだろうか、と。

 映像配信など最先端の技術で活動を続けながら、しかし。

「誰が聞いているのだろう」

そんな、虚無感に襲われたりはしないだろうか、と。


 目の前にいたはずのオーディエンスたちと引き離されて、スタジオに閉じ込められた彼らは、今、どうしているだろうか、と。


 小説ですので『山の上の交響楽』の登場人物たちは答えを見出し、それぞれの悩みや葛藤、軋轢を乗り越えて、物語は完結します。

 その答えは彼らの答え、あるいは作者中井紀夫氏のたどり着いた答えであって、今の、こんな過酷な状況の答えにはなりえません。


 それでも、次第に物語が速度を増し緊迫感を増し焦燥感が増す中で、『八百人楽章』へとなだれ込んでいくところが、本当に面白い。

 演奏の熱狂と興奮の中で、周りに振り回され未来も現在も見失っていた音村が、自分の現在地を、確認(再確認?)するのが、たまらない。


 言葉にできないけれど、何か今の自分の閉塞感に突破口を与えてくれるような気がして。


 私は折に触れて、この物語を読み返しています。


◇◆◇


『山の上の交響楽』を読んでいると、音楽を取り扱った小説には必要不可欠な、ある視点。勿体つけないで言えば『聴衆』の存在が非常に希薄だという事に気づきます。


 誰かが演奏を聞いていて、どんな感想を持った、という視点や描写が少ない。ほとんどない。

 300年目にして訪れた『八百人楽章』という山場に、奏楽堂がある街が大いに活気にあふれる――という描写はあるのですが、あくまで舞台背景の域を出ない。もちろん名前を与えられた聴衆の立場のキャラクターもいない。


 実は非常に印象に残る『名無し』の人ならいるのですが、この人はただの通りすがりです。(私は個人的にこの人を自分自身の分身のように感じてさえいますが)


 これは先にも述べたように、作中で『山頂交響楽』と呼ばれるこの無限の長さを持つ楽曲が「誰のために演奏されているのか?」という問いかけを浮き上がらせるための作為であろうと思います。

 うっかり印象に残るオーディエンスを登場させたりすると「音楽は演奏家と聴衆の絆が云々」みたいな方へ、結論がズレかねないからではないか。とも思います。 


 1987年にこの作品が世に問われた時、今日のような危機が『音楽』に降りかかるとは誰も予想だにしなかったことでしょう。未来予知の能力を持たない限り、

「一生懸命力の限り演奏したとしても、誰も聞いていないかもしれない」

という不安を読者に想起させようなどとは、流石の中井紀夫さん(実はTVシリーズ『世にも奇妙な物語』においてお茶の間を理不尽の迷路に突き落とした原作者の一人で、かつノベライズ担当者の一人)といえども、想定していないはずです。


 しかし。今の一変してしまった世界を見た後では、

「誰のために演奏しているのか? なぜ演奏するのか?」

という問いかけが読者である私自身に、のしかかるような重さを感じさせるのです。


 このあたりは私の入れ込みすぎ考えすぎでもありますので、誰もが感じることではないと思います。


 ただ、もし何かの機会にこの小説を手に取られた時。

 読まれた方の心の中において、この問いかけから現実を連想し、登場人物の問いかけが『重く』感じられたのなら、この物語はコロナの時代を迎えて新たな意味をもつ物語になったのではないか。


 そんなことも、思うのです。


 正直なところ。

 もう少し軽い感じでお気に入りのSFを紹介したかっただけなのですが、妙に深入りすることになりました。


 思えば「私たちは何を読むべきか」という「アオリ」にうかうかと乗ったためか もしれません。読み返してみると、応募した方の感想文(紹介文?)は、力が入りすぎて空振りしたような手ごたえがあります。


「気楽に面白いから読んで的な書き方をすればよかったなあ」

 そんな気持ちも感じています。


 だからといって、こっちはこっちで、SFオタ趣味全開で、星雲賞の説明までしているんですから、これが『山の上の――』の紹介として正しいかどうかも、はなはだ不安なのですが、ともかくも。


 ここまでお付き合いいただいてありがとうございました。

 

 なお。


『山の上の交響楽』は、これ自体を表題作とする短編集であり、他のお話も面白いのでぜひにもご一読ください。


 僕はコレが一番好きです。もちろん異論はみとめます。





 追伸


『復活の日』はこれの三倍くらい、あります。

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