第5話

あの手紙を見つけたのは冬空の朝でした。なかなか起きてこない姉を見かねて部屋に入り、ベッドで横たわる姉を後目にカーテンを開けました。眩しい朝の陽射しに目を細めながら振り向いても姉は身動ぎすらせず、じっと寝ていました。今日はいつもとは少し違うなと感じながら机の上に目をやると、いつも少し散らかっていた姉の机は綺麗に片付いていて、更に何かが書かれた数枚の紙が置いてありました。

1行目を読んだ瞬間に、頭の奥を何かで強く打たれた様な衝撃がしました。指先に力が入らず、頭の奥は衝撃で朦朧としました。

その頭で死について、山について、明智について、谷川について、そして姉の死について読みました。

読み終わり、バッと振り向きました。

姉は静かに眠っていました。頭を上に、仰向けの姿勢で。今にも身動ぎしそうなほど静かに。書き終わりそのまま寝てしまったかのような姿でした。

私は過呼吸寸前のような呼吸の中、姉に声を掛け肩を揺らす為に近づきました。死んでいるはずがない、そう思い、そう行動していました。

お姉ちゃんもう朝だよ、起きないとご飯冷めるよ。そんな事を震える呼吸と共に吐き出し、肩に触れました。

そしてああ、もう手遅れなんだと悟りました。

その肌が濡れた金属のように冷たかったのです。


お姉ちゃん。あなたは死ぬ前に、あの手紙がどのように明智さんの元へ辿り着くと思っていましたか?

まさか、手紙を読んだ誰かが直接明智さんに渡してくれるだなんて思っていたりしませんよね。

本当に直接渡したかったのなら、郵送だったりをすれば良かったはずですよね。なんでそれをせず、何もせずあっさりと死んでしまったんですか?

聞いても仕方が無いですが今もそう思ってしまいます。姉は何故、あんな勝手な死に方をしたんだろうと考えてしまいます。

私はまず、静かにその手紙を3つ折りにし近くにあった封筒に入れ、自分の部屋へ運びました。姉の死体の傍にあると多数の人の目に留まるのでは、そう思ったからです。姉の狙いがどうあれ、出来るだけ目に留まる人数は減った方がいい。そう理性が呟いていました。その後、浅い呼吸と共に階段を降り(姉と私の部屋は二階にありました)父親を叩き起こし、姉が死んでいると報告しました。

父は掠れた声でえ、と声に出し、ドタドタと階段を昇っていきました。

寒さからか、耳鳴りがしました。


姉の死因は睡眠薬の大量摂取ということになり、司法解剖も殆どせずに姉の遺体は遺骨になりました。

冷たい手でその小瓶を握って寝ていたので、恐らくはそういう事だろうというこという推測が立っていましたが、確認をしてやはりそうだったと警察の方から言われました。

そんな事を、ぼんやりと覚えています。姉が死んだ事、そしてその手紙の事で頭がいっぱいで、他の事はあまりよく覚えていないのです。ごめんなさい、あの頃は大きなご迷惑をお掛けました。

転んだり、突然泣き出したり、かと思えば塞ぎ込み部屋の角でじっと時が過ぎるのを待っていたり…。

反省、ではありませんが、後悔…とも違いますが、そこに分類されるはずの何かを父にずっと感じていました。ごめんなさい。


手紙を父に見せたのは葬儀の日の夜でした。腫れた頬に貼った湿布のツンとした匂いを纏わせながら現れた私を一瞥した父は「なんだ、用か」と尋ねました。神妙な面持ちで手紙の入った封筒を差し出すと父は無言で受け取り、封筒から手紙を取り出し読み始めました。

数分、沈黙が訪れました。

読み終えると父は「バカが」と呟き、そのまま押し黙りました。私がどうすると尋ねると腕を組みました。

20秒ほど経ってから

「この明智くんとやらに見せてからにしよう」と吐くように言いました。

悔恨と、憂慮とが、その目にありありと現れていました。

明智さんにその手紙を見せたのはそれから1週間後でした。同じ市内に居た明智さんでしたが、見つけるのに一週間もかかりました。

そこは小さなアパートでした。自分一人で住んでいると彼は言っていて、実際、そのワンルームの部屋には机と椅子、ベッドなどの他には登山道具のナイフや水筒、厚底の靴などしか置かれていませんでした。殺風景な、だけどどこか落ち着くような気配を感じました。

明智さんに渡すと彼は僕が読んでもいいのか、と戸惑っていましたが、やがて受け取るとポツリと呟きました。「ごめんなさい」と。

読み終わり彼は覇気のない声で僕もどうしていいか分からないんですけど、この手紙はどうするべきでしょうか、と聞いてきました。

私は少し考え、「処分してしまおうかと」と言いました。

「それで大丈夫ですよね?」

「そうですね…。よろしく、いえ、申し訳ないです」

彼はそう言い切らぬうちに頭を下げ、一度小さく僕のせいなのに、と呟きました。

私はその言葉に微妙な違和感を感じ、あなたのせいでは無いでしょう?と聞き返しました。

彼は1度体を震わせ、えっといや、とどもりました。

「僕のせい、というのはどういう意味なんですか?」

静かに、自分では静かに聞いたつもりでしたが語気が荒くなっていたかもしれません。

彼は私のその態度を見て小さくなり、ぽつりぽつりと話し始めました。

「僕はあの、山に遺体を埋めた後、彼女から自殺の事を聞いたんです。」

「山がもう好きではなくなってしまった事、それを彼女は僕に正直に打ち明けてくれました。」

「僕は、そんな彼女に向かって冗談交じりに、自殺でもしてみたら?と言ったと思います。死はとても綺麗で健全なんだから。そんなような事も言った覚えがあります。」

「僕はそれをとても後悔しています。何故、あんな所でそれを言ってしまったのか。彼女の心境を思えばそれを本気に捉え、そして実行してしまう事なんて分かるはずでした。なんで…僕はあの時…。」

私は頭が真っ白になり、そこで佇んでいました。

姉が死んだのは、姉のせいでは無かったのか。この男にそそのかされて、その言葉に乗っかって死んだのか。姉が死んだのは、この男のせいなのだ。この男は姉の仇だ。この男だけは許してはいけない。

そう思いました。

私は激高し、詰め寄りました。近くにあったナイフを手に持ち、大股で彼に近づきナイフを掲げました。

心臓が早鐘のように脈打っていました。

彼は椅子から崩れ落ち必死の形相で何かを叫んでいました。

「違う、僕じゃない、僕は悪くない!悪いのは僕じゃなくてあんたの姉だろ…!」

彼のその、姉に対する侮辱を聞いた時、私の中の何かがちぎれ弾け飛びました。


彼は、テーブルのさらに向こう、テレビ台の辺りの床に突っ伏し背中を丸め倒れています。血は既に黒くなり固まり始めていて、もう既に呼吸をしていない事は遠目で見ても分かります。

血のついたナイフは私の手を離れ転がり、死体の傍に落ちています。


私が、殺してしまったんだと思います。


お父さん。あなたは、死とはなんだと思いますか?

私は、別れだと思います。

姉の死を理解した時、姉との別れを知った時に、私は壊れてしまったんだと思います。

あなたの手のひらの痛みで、壊れたテレビが一瞬だけ元に戻るように私は戻ってきましたが、また元の壊れた私に戻ってしまったみたいです。

今は、姉の死の原因があの男性だとは思ってはいません。今はそう思います。ですが何故、あの時そう思わなかったのでしょうか。私にも分かりません。ですが起きてしまった事は取り返せません。


私は今日、今から死にます。この小さなアパートで死のうと思います。死の責任を取らなければならないから。死を選ばなければ、殺した罪は消えてなくならないから。

なにより、私は姉と違う事が怖いのです。とても、とても怖いのです。生まれてからずっと姉の傍で暮らし、姉を想い暮らしてきた私ですが、姉と違う自分に抱く恐怖がこれ程だとは思ってはいませんでした。

私は今日死にます。姉と違う自分が怖くて、それがなによりも苦しいから。


お父さん、お別れです。さようなら、そしてごめんなさい。

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