第9話 パート練習

 その日の演奏練習のメニューは、最初にロングトーンやハーモニーなど全体での基礎合奏を終えたあと、一時間ほどパートごとに分かれてのパート練習だった。

 いまは特に座奏で取り組んでいる曲があるわけではなく、応援活動で使う応援歌やチャンスパターンと呼ばれる一連の応援曲を練習している。基礎合奏が終わると、夏樹はテナーサックスの先輩である坂井から渡された応援曲の入った譜面ファイルと譜面台を持って、パート練習場所に向かった。

 移動しながら、まだ体になれていないテナーサックスの重みを首筋にぐっと感じる。

 パート練習場所は楽器を容易に動かせないパーカッションが練習場と決まっているほかは、各パート好きな場所で行う。今日のサックスパートのパート練は学生会館二階の広い廊下だった。

 アルトサックスの水上、河嶋、田上、永村、テナーサックスの坂井、大橋、そしてバリトンサックス(ただし応援時はアルトサックス)の荒井の七名が輪になって座るのにちょうどよい広さの廊下だ。

 夏樹が坂井とともに廊下にたどり着くと、先に着いていたアルトサックスの水上が、譜面をぱらぱらとめくっていた。

「いやー、すっかり葉桜になったねえ。」

 水上が廊下に面した窓の外を見ながらのほほんと言うと、隣に椅子を持ってきた河嶋がくしゅん、とくしゃみをした。

「お、河嶋、風邪?」

「いえ、花粉症です。」

 河嶋はそう言って、譜面台にぶら下げている小さな巾着からポケットティッシュを出して、鼻をかんだ。

「河嶋は毎年大変そうだよね、花粉症。」

 譜面台に譜面ファイルを置きながら、三年生で河嶋と同期の坂井が言った。

「うん。いっつも鼻声だから、さっきも基礎合奏仕切るの大変だったよ。」

 河嶋は鼻をずずっと言わせながら言った。指揮サブという役職に任命されている河嶋は、基礎合奏の際に前に立って合奏の指導をすることがある。ちなみにほかの指揮サブはテナーサックスの坂井とクラリネットの原島、ユーフォニアムの高岩の三人で、それぞれ交替で基礎合奏を仕切っている。

「んじゃあまあ、練習前に、雑談たーいむ。」

 全員の準備が出来たところで水上がにこにこと笑って言い、永村がぱちぱちと無意味に拍手をした。

 今年入部した夏樹と永村の二人はサックス経験者であり、いま取り組んでいる課題曲も特になしということで、根詰めて練習に取り組まなければいけないわけでもない。ここ最近のパート練習は軽い雑談から始まるのが恒例だった。

「では、なにか話したいことがある人ー?」

 パートリーダーの河嶋が、雑なフリを投下する。

「そういえば。」

 ずっと黙っていた二年生の田上が、声を発した。

「私の弟が今年大学受験でして。」

「へえ。弟さんも光海目指してるとか?」

 水上が尋ねた。吹奏楽初心者でこの部に入部したという水上は、だいたいにおいて雑談の時が一番輝いている。

「いえ、それにはちょっと偏差値が足りないかもですね。」

 田上はそう言ってはにかむように笑った。その言葉の裏には、私学の雄と呼ばれる光海に入学したことの自負が薄く透けて見えた。

「でも、弟は地元の公立大学に行きたいみたいで、センター試験の模試を初めて受けたとか言ってたので、なんだか懐かしいなと思いまして。」

「ああ、センター試験ねえ。」

 水上が遠い過去を懐かしむような視線で天井を見上げた。

「俺ももうちょっとセンターがよかったら、帝都を受験してたんだけどねえ。」

 水上の言葉に、サックスパートの面々は、永村を除いて、どことなくしんみりとした表情を浮かべた。日本最難関の国立大学と言われる帝都大学。そこを目指していたが、途中であきらめたり、受験したものの不合格だったりして光海に入学した学生は多い。それぞれ、自分の大学受験を思い出していた。

「なんか、大橋とかめっちゃセンター無双してそうだよね。」

 バリトンサックスで三年生の荒井が、唐突に話を夏樹に振った。

「え?私ですか?あ、いや、まあ。」

 夏樹は急に振られた話題にうろたえながら答える。

「まあ、国語と英語と世界史は満点でしたけど…。」

 夏樹はできるだけ自慢に聞こえないように、しかし自信たっぷりに言った。この話をすれば、だいたいの人間は「すごい」と称賛してくれる。

 受験生時代の夏樹はセンター試験では三つの科目で満点を取り、外国語学部の最難関と言われる帝都外国語大学欧米第一課程と、私学では光海と双璧をなす増世田大学の法学部の合格を蹴り、この光海に入学した。それは、夏樹の自尊心に心地よい刺激を与えてくれる話題だった。


「へえ、センター試験て、私は受けたことないんすけど、けっこう簡単なんですね。だって、大橋が三教科で満点取れるくらいのレベルってことでしょ?」


 なんの悪気もなく、ただの感想として発言しただけの永村の言葉は、しばらくふわりと不安定に空中に浮かんだままだった。

 夏樹は、思いもかけない反応に一瞬混乱した。頭にかっと血が上り、目の前が一瞬真っ赤になるような錯覚に陥り、頭の奥底がくらりとした。

 夏樹と永村以外のサックスパートの面々は、互いに目配せするようにして、うすら寒い雰囲気をどうにかしようとしたが、学生会館二階廊下に漂う空気は、致命的に硬直していた。

「あ、はは…。そうだよね、永村は、大学受験してないんだもんね。さすが、内部生は感覚が違うね。」

 水上が場を立て直そうと発言したが、それには誰も反応しなかった。

「まあ、そろそろ雑談は終わりにして、まずはもう一度パートでチューニング、しましょうか。」

 河嶋が鼻声で言う言葉に、皆うなずく。

 そして始まったチューニングでは、いつまでも永村のアルトと夏樹のテナーの音色が噛み合わなかった。

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