第8話 下原千里
「ちっ、なんなんだ、あいつは。」
生協横の自動販売機でコーラを買って一気に飲み干しながら、夏樹はひとり吐き捨てるようにつぶやいた。
永村のことがなぜこんなに気になるのか、なぜやつの声を聞くと胸がざわつくのか、夏樹は自身の心の動きが信じられなかった。
「おや、大橋、なんだか険しい顔してるねえ。なんかあったの?」
夏樹が声をかけられて目線を上げると、そこにはリクルートスーツを着た下原の姿があった。
「あ、下原さん。」
夏樹が声を上げると、下原は唇に人差し指を当てるしぐさをした。
「しずかに。ここ、部的にはたむろすの禁止エリアだから。食堂にでも行こうか。」
下原はニコニコと笑って、夏樹を食堂へといざなった。
「あ、それから、上級生に遭ったら、挨拶、ね。」
下原は軽くウィンクをして夏樹に注意した。夏樹は小さな声で、はい、失礼しました、と答えた。
十五時を過ぎた食堂はさすがに閑散としている。
「それで、少しは慣れた?部活。」
下原は食堂に併設している自動販売機で買った缶コーヒーを二つ、テーブルに置いた。
「ええ、まあ。」
「とんでもないところに入っちゃったなあ、って思ったでしょ。」
下原はそう言って、悪戯っぽく笑う。
「正直、だまされたって思いました。なんですか、あの『えんぶの歩き方』って。」
「ああ、バイブルね。ははは、あれはまだまだ序の口。この先驚くようなことがもっとたくさんあるから。」
「これ以上何があるんですか。」
「それはその時まで内緒。」
下原はそう言って、自分の手元の缶コーヒーを飲んだ。
「まあ、大橋に最初に声かけたの私だからね、ちょっとは心配してるんだよ。ちゃんとやってけるかなー、って。」
「ぼく…あ、いや、私はこういう部活だって始めから教えていただきたかったです。」
「そんなことしたら、誰も入ってこなくなっちゃうでしょ。永村とか大口みたいに内部生ならともかく。」
「内部生?」
聞きなれない言葉に、夏樹は聞き返した。
「うん。光海の付属学校から進学した人たちのこと。あの二人は付属校の吹奏楽部出身だからね。うちの部のだいたいの実情は知ってたと思うよ。」
そう言って下原は、どこか遠くを見るような目をした。
「まあ、なんというかさ、不公平感じちゃうよね。私たちはそれなりに頑張って受験を潜り抜けて光海に入ったっていうのに、私たちが受験勉強に必死にいそしんでいる間、エスカレーターで大学に上がってこられる彼らは部活に趣味に一生懸命だったわけだよ。そりゃあ、中学だか高校だかの受験は大変だったんだろうけど、まあ、ある意味人生の勝ち組よね、内部生って。」
「はあ。」
内部生。あのどこか世の中を見下したような視線と口調は、その背景ゆえのものなのだろうか。
―東京には、住む世界が違う人間っていうのが、いるもんだよ。
夏樹は、東京の大学を卒業した叔父がいつだったか言っていたのをふと思い出した。
「で、そんな内部生の永村のことが気に入らないわけだ。大橋は。」
唐突に、それまでの会話と同じ調子で下原が口にした言葉に、夏樹はぎょっとした。
「いや、そんなことは…。」
「あはは、見てればわかるって。この子たち、仲悪そうだなーって。」
下原は笑って言った。
「まあ、同期は大事にした方がいいよ。これからそれもいやって言うほど分かると思う。それからね、」
下原は急に真顔になって、夏樹の顔を真っ直ぐに見つめた。
「大橋が誰かを好きになったり、嫌いになったりする自由があるのはもちろんだけど、それは永村にも、ほかの誰にでも言えること。人のことを嫌いになっておいて、自分だけ好かれようなんて、そんなこと思うのは傲慢だよね。」
そう言って下原は、ニコリと笑った。
この一見無害な先輩がなにを言おうとしているのか、夏樹にはピンとこなかったが、なにかを見透かされているような、落ち着かない気がして、冷たい汗が一筋、夏樹の背中を流れた。
「じゃあ、またあとで演奏練で。」
下原は言うだけ言って、席を立って食堂を去っていった。
「し、失礼します。」
夏樹は小さな声で去っていく下原に挨拶をした。
後に残された夏樹の手元には、すっかりぬるくなった缶コーヒーがあった。
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