第7話 合同練習室B
晴れて、応援指導部吹奏楽団に入部した夏樹のそれからの日々は、実に応援団的で、前時代的な生活に一変した。
週に二回、火曜日と木曜日に行われる演奏練習は、経験者の夏樹にとっては特に問題ない。
だが、『えんぶの歩き方』に書かれた事細かなルールは、夏樹たち部員の生活をがんじがらめにしていた。
上級生の前や中庭などで通信機器をいじることは禁止なので、落ち着いてスマホも見ていられない。
キャンパス内で上級生を見かけようものなら立ち止まって、大きな声で挨拶をする。それも「こんにちは」でもなければ「ごきげんよう」でもなく、「ちはっ」だ。当然、同じ授業を受けている政治学科の知り合いたちからは奇異な目で見られる。
日吉キャンパスは一般教養と基礎科目の授業が行われるキャンパスなので、基本的に日中は三年生以上の部員がいないかと思っていたら、そうでもないらしく、しょっちゅう三年生や四年生の姿を見かける。
夏樹は大学生協で弁当を買って、晴れている日の昼食は中庭のベンチで食べることにしていたのだが、部のルールで中庭での飲食は禁止。しかたなく食堂で食べようと思っても、昼の時間は混んでいる。むろん、上級生と遭遇する可能性も高まるわけで、ここでもまた「ちはっ」だ。
夏樹が漠然と思い描いていた華の大学生活は、わずか二週間ほどで具体的な形をもって幕を閉じた。
「なんだか、とんでもないところに入っちゃったよね、私たち。これじゃ、今までと変わんないよ。」
いつの間にか敬語のとれた同期のハルカは、そう言ってため息をついた。
「今までと変わらないって?」
夏樹は首をかしげた。
「私、高校までバレー部だったって言ったじゃない?けっこう上下関係厳しくて。挨拶しないと先輩にぶん殴られるし、下級生はパシリみたいなことばっかりやらされるし。」
「けっこう、壮絶な部活生活だったんだね。」
「まあね。大して実力もない先輩に限って、上級生になったら威張り散らすんだよね。あーあ、吹奏楽ってもっとみんなでワイワイ切磋琢磨、ザ・青春!って感じだと思ってたのに。」
「いや、ふつうの吹奏楽部でもそんなにいいもんじゃないよ。人間関係なんかだいたいどこもドロドロ。」
「あー、そういうのはアニメで見たかも。アニメの演出かと思ったけど、実際にそうなんだねえ。」
そんな話をしながら、夏樹とハルカは学生会館地下の合同練習室Bに向かっていた。合同練習室B、通称合練Bは、部室でもないのになぜか応援指導部吹奏楽団が終日確保している部屋で、一年生、二年生のたまり場となっている部屋だ。
夏樹は防音の扉を開けて、息を大きく吸い込んだ。
「ちはっ!」
挨拶をして中に入ると、そこには一年生しかいなかった。窓際のテーブルではパーカッションの山本とフルートの剣崎が、なにやら二人とも履修しているらしい授業の課題を進め、部屋の端ではアルトサックスの永村とクラリネットの大口がふざけあっている。彼らの手元には、それぞれケースから出された楽器が転がっている。
「おっす。いい挨拶だな。」
山本が手元のノートから視線を上げてにやにやと笑う。夏樹は、うるせえ、と不貞腐れた。
山本は、ハルカと同じく吹奏楽初心者だ。高校までは野球部一筋だったらしい。
山本の座るテーブルのそばにはパーカッションの練習用のパッドとスティックが置かれている。
「山本、練習しないの?」
夏樹がスティックを指さして尋ねると、山本は、ああ、と言って首を横に振った。
「先に課題片付ける。剣崎がノート見せてくれるって言うから。」
山本の言葉に、ハルカが反応した。
「あ、真希ちゃん、もしかしてそれ、商法基礎のヤツ?私も見せてー。」
山本、剣崎と同じく商学部のハルカは剣崎を下の名前で呼び、剣崎はいいよ、と答えた。
ハルカはいそいそとカバンから自分のノートを取り出し、剣崎の隣に椅子を引っ張ってきて、ノートを写し始めた。
「真面目に課題なんかやって、偉いねえ。」
部屋の隅で大口とじゃれあっていた永村が、ぼそりと呟いた。
その男子にしては高い粘着質な声と、人を小馬鹿にしたような言い方に、夏樹はなんだかイラつきを覚えた。
山本、剣崎、ハルカは特に気にしていない様子だ。
永村と夏樹は同じサックスパートで、しかも同じ法学部政治学科だ。よく言えば要領の良い、悪く言えばずる賢い永村は、早くも出席を取らない授業をサボり始めていた。
夏樹が永村にノートを見せたり、見せてもらったりすることは、まずない。というか、パート発表のときに初めて見かけてから、夏樹はどうもこの永村が苦手だった。
ウマが合わないと言ってしまえばそうなのだが、永村の声を聞いていると、たとえば電車の中で自分と同じ服を着た人を見かけてしまった時のような、なんだか嫌な気分がするのだ。
同族嫌悪…?まさか。
夏樹には、なぜそんなふうに感じるのかよく分からない。
永村はふと思い出したように、椅子の上に置いていたアルトサックス―おそらく私物なのだろう、学校の備品では見かけないような最上級品、Y社製のカスタムモデルだ―をネックストラップにかけ、おもむろに息を吹き込んだ。
ビオラかチェロか、とにかく弦楽器を思わせるような、つややかな音色と、響きに豊かさを加えるビブラート。低音から高音まで、無駄のない息遣いと滑らかな指遣い。
「おお。」
剣崎のノートを写すのに夢中になっていたハルカが、その手を止めて、永村のほうを見る。
そう、永村はサックス奏者としてはかなり高い技術を持っているのだった。そして、それがまた夏樹の癪に障る。
「やめろよ、こっちは課題をやってるんだから。少しは配慮したらどうだ。」
そんなつもりはなかったのに、つい夏樹は永村をとがめてしまう。
「は?大橋は別に課題なんかやってないよね。…そもそも、政治学科なんて緩い学科にやんなきゃいけない課題なんかないけどさ。山本、邪魔だったらやめるけど。」
永村は口の端を持ち上げるようにして山本に向かって言った。
「いや、別に気にならない。」
山本は朴訥とした調子でそう言って、手元のノートに視線を落とした。
山本の言葉に永村はニヤリと笑って、そのまま演奏を続けた。
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