第6話 えんぶの歩き方

 松木、秦と一年生たちは学生会館を出て、隣の校舎の空き教室に入った。松木と秦が教室前方のホワイトボードの前に立ち、一年生たちは思い思いの席についた。

「さて、今回、みんなが応援指導部吹奏楽団への入部を決めてくれて、私たちは本当にうれしく思います。みんなのことを心から歓迎します。」

 秦がにっこりと笑って言った。新入生たちは、どうも、といった具合に軽く頭を下げた。

「みんなが知っているとおり、この部活は団体名の前に『応援指導部』とついています。ほかにリーダー部、チアリーディング部の二つの部門があって、これから一緒に活動していくことになります。」

 秦はここで言葉を切って、一年生を見渡した。

「でね、ここからよく聞いてほしいんだけど、リーダー部、吹奏楽団、チアリーディング部の三部門を合わせると、百人近い規模の団体になります。つまり、私たちは何よりもまず、集団行動をすることが求められる団体です。」

 秦がここまで言うと、松木が手元の紙袋からホチキスで留めただけの簡易な製本がされた冊子を取り出し、一年生に配布し始めた。

「みんなでいろいろな活動をやっていくため、それから、私たちは光海大学の名前を背負って人前に出ることも多いから、みんなには普段から気を付けてほしいルールがたくさんあります。それをまとめたのが、みんなに今配った冊子です。なくさないでね。」

 夏樹は手元に配られた冊子の表紙を眺めた。いかにもワードで手作りしました、という感じの字体で『えんぶの歩き方』と書かれている。

「少し時間をとるから、一通り読んでみてください。」

 松木が言うと、一年生たちがぺらりと表紙をめくる音がした。夏樹も手元の冊子を開く。

 <はじめに>と書かれたところには、先ほど秦が述べたのと同じようなことが書かれているので、夏樹は読み飛ばして次のページに移った。


 <挨拶と会話について>

 キャンパス内、また、活動中に上級生を見かけた場合は、必ず立ち止まり、男子は「ちはっ」、女子は「こんにちは」と大きな声で挨拶をすること。

 上級生が部屋に入ってきたとき、上級生が部屋を出ていくとき、上級生の前を横切るときは「失礼します」と言うこと。

 部室に入る際は大きな声で挨拶をすること。(室内が無人の場合でも挨拶をすること)

 上級生と話をする際の一人称は私(わたくし)に限る。また、同期や下級生のことは名字の呼び捨てで呼ぶこと。

 上級生と話をする際は、「○○さん(または役職名)、よろしくお願いいたします」と声をかけてから話し始めること。四年生の幹部に、幹部の仕事にかかわる件で話しかけるときは役職名で呼ぶこと。

 上級生と会話をする際に、略語を使ってはいけない。バンド、チアといった部内用語のほか、スマホなど一般的な言葉も同様である。

「すみません」、「お疲れ様です」は禁止。謝罪の際は、「失礼しました」か「申し訳ございませんでした」を使用すること。


 <正装について>

 男子は白のカッターシャツの上に黒の詰襟、ボタン式の学生服、黒の革靴を正装とする。女子は黒のリクルートスーツ(パンツスーツは不可)、ベージュのストッキング、黒のパンプスを正装とする。時期によっては黒タイツの着用を許可することがある。その他服装については吹奏楽団責任者、吹奏楽団女子責任者の指示に従うこと。

 応援活動への参加の際、また、何らかの応援活動が行われている日にキャンパスへ向かう場合は正装の着用を義務付ける。


 <連絡について>

 上級生に連絡を取る際は、原則として電話を使用すること。ただし、二十二時以降に連絡をする際はメールもしくはLINEを使用すること。

 メールやLINEで連絡を取る際は簡潔に用件を述べ、上級生に対してスタンプや文字装飾は使用しないこと。

 また、上級生のいるところや中庭等の目立つところで許可なくして携帯電話、スマートフォンを使用することを禁止する。


「なんだ、これは…。」

 読み進めるうちに、夏樹は何を読まされているのかわからなくなってきた。周囲を見渡すと、ほかの一年生も首をひねったり、唖然とした表情を浮かべ、教室内に少しざわめきが広がる。

 ただ、右端に座る永村、大口はどこかへらへらとした表情を浮かべたままで、夏樹の隣に座る五嶋は表情を変えることもなく、冊子を読み続けている。

 前に立つ秦はくるりと教室を見渡して、静かに、といってうなずいた。

「見ての通り、少し特殊なルールもたくさんあるし、その冊子には書いていないけれど、時期が来たら覚えてもらう必要のあることもたくさんあります。わからないことがあれば、私でも、松木でもほかの二年生でも構わないので、遠慮なく聞いてください。最初は戸惑うかもしれませんが、先輩たちから受け継いできた大切なルールなので、みんな守るようにして…。」

「ふざけるな!」

 秦の言葉さえぎるようにして、教室の後ろの方から大きな声がした。

 夏樹が後ろを振り向くと、掛野が椅子から立ち上がっていた。

「挨拶だの正装だの、全然意味が分かんねえんだけど。冗談だろ。軍隊かよ、ここは。」

 掛野の言葉に、秦は眉一つ動かさず、掛野の目をじっと見つめている。

「ついていけないんで、俺、辞めます。」

 掛野はそう言って、荷物を持って教室から出ようとした。

「まあまあ、ちょっと待って。」

 ひそかに教室の扉を塞ぐ位置に移動していた松木が、にこやかに話しかける。

「どけ。」

 掛野が言っても、松木は一歩も動かない。

「ここで去るのは君の自由だけど、君はその瞬間に多くのものを失うことになるよ。きっと後悔する。」

「そんなことねえ。こんな部活にいるほうがよっぽど後悔だわ。そこをどけよ。」

 掛野の言葉に、松木はニヤリと笑った。

「よそのサークルに行って、楽しく四年間過ごすのもいいかもしれない。でも、そこでなにか残るものがあるのかい?得るものがあるのかい?この部活が君に提供できるもの、いや、この部活でしか手に入らないものはいくらでもある。」

「なんだよ、それ。」

 掛野はいよいよ松木と秦をにらみつける。

「充実した日々、かけがえのない友人や先輩、後輩たち。そして、」

 松木はそこでわざと声をひそめるようにした。

「いい就職先。」

 松木の言葉に、掛野の眉がピクリと動いた。

「掛野、君はたしかブースに来てくれた時に言ってたよね、楽に有名企業に就職したいって。うちの部活の先輩たちは、有名企業の役員だってたくさんいる。そのコネクションをみすみす捨ててしまうのかい?」

 掛野はうつむいて黙ってしまった。さあ、どうする、と松木が腕組みをして掛野を見下ろしている。

 三年前に世界的に流行した感染症のせいで経済は深刻なダメージを受け、まだそこから立ち直っていない。昨今の就職戦線は学生に厳しい状況であると、夏樹たちはいやになるくらい聞かされていた。

「ちっ。」

 ついに掛野は小さく舌打ちをして、さっきまで座っていた座席に戻った。

 松木が秦に目配せをし、秦はにこりと笑って、教室を再び見渡した。

「もう、ほかには何もないかな?」

 色黒の顔の中で白さの目立つ秦の両目が、じとりと一年生一人一人を舐めるように見る。

 三十秒ほどの沈黙を置いて、秦は満面の笑みを浮かべ、腕を広げた。


「みなさん、光海大学応援指導部へようこそ。」

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