第4話 楽器に触れる会

 続く二曲も、夏樹の感想は変わらなかった。星出尚志作曲『丘の上のレイラ』、磯崎敦博編曲『ユーロビート・ディズニーメドレー』。一曲ずつ指揮者は変わっていったが、音楽の作り方は変わらない。全体的に大きな音量と、個々の技術よりは全体の縦のズレを極力排除することに注力した演奏。コンクールで演奏したら間違いなく地区大会銅賞。だが、ヘタウマというのとも異なる、独特の迫力を持った演奏だった。

 ふと隣に座る園崎を見ると、彼女は第一音が鳴ったその瞬間から、顔を輝かせていた。

 三曲の演奏が終わった時、園崎は惚けたような表情で、ぼそりと言った。

「これが、吹奏楽。」


 三曲目の指揮者が指揮台を下りて一礼すると、新入生のあいだからまばらな拍手が起こる。そのうち、クラリネットの座席からまた原島が出てきた。

「以上で、私たちの演奏は終わりです。このまま、楽器に触れる会に移りたいと思います。新入生の皆さんは、どこでも好きな楽器のところに行ってみてください。経験者の人も、いろんな楽器を回ってみて下さいね。あ、ちなみに私はクラリネットのところで待っています。では、どうぞ。」

 原島はそう言って座席に戻った。

 パイプ椅子に腰かけていた新入生たちは恐る恐る立ち上がり、思い思いのパートの座席に向かう。

「それじゃあ、私はユーフォニアムのところに行ってきますね!」

 園崎は嬉しそうに言って、一番上手側に座る楽器のところに歩いて行った。―そこはユーフォじゃなくてチューバの席だ。夏樹は思ったが、特に呼びかけもしなかった。

「大橋くん!」

 さて、どこに行こうかと夏樹が考えていると、ふいに声をかけられた。目を上げると、そこにはつい先日夏樹に声をかけた下原が立っていた。入学式の日はフラッグを持ってドリルの際の衣装だったが、今日は白のチュニックに細いデニムを履き、腕にはホルンを抱えている。

「あ、えっと、下原…さん?」

「おお、名前覚えててくれてる。いいねえ、いいねえ。」

 下原はニコニコと笑った。

「あの、今日はホルンなんですね。」

 夏樹は下原の抱えている楽器を指さした。

「ん?あ、そっか。こないだはガードの衣装だったもんね。そうそう、私演奏の時はホルンなの。」

 そう言って下原はにへら、と笑い、ホルンのベルのあたりをそっと撫でた。

「大橋くんはどの楽器に興味あるの?やっぱサックス?」

 ええ、まあ、と夏樹はサックスのほうを見たが、そこにはすでに数人の新入生が集まっていて、先輩部員から音の出し方を教わっている。部員の中には、先日説明をしてくれた水上の姿もあった。

「ありゃ、サックスはいっぱいだねえ。まあ、あそこは毎年人気あるからねえ。」

 下原もサックスの方を見て、つぶやいた。

「大橋くん、せっかくだからホルン吹いてみる?」

「いや、僕は金管は全然音出ないんで。」

「大丈夫だって。初心者から始めた先輩だっているし、私だって高校まではクラリネットだったんだから。」

 下原はそう言って、夏樹の腕をつかんでぐいぐいとホルンパートの方へ引っ張っていった。―デジャヴュだ。夏樹はあきらめて下原に連行されていった。


 ホルンパートの座席では、数人の先輩部員が手持無沙汰にしていた。夏樹が現れると、部員たちは目を輝かせて夏樹のそばに寄ってきた。

「おお、ホルンに来てくれた。下原、でかした。」

 どことなく熊のプーさんを思わせるようなフォルムの男子部員がそう言って、夏樹にフレンチホルンを手渡した。

 うねうねと曲がりくねった管と、大きなベル。シャープな形状をしたマウスピース。中学時代に吹奏楽部でよくつるんでいた同級生がホルン担当だったから何度か触ったことはあるが、夏樹にとってはじつに久しぶりの感触だった。

 夏樹はそっとマウスピースに口をつけ、音を出してみる。

 ブフォ、プ、プオーーー

 と情けない音が鳴った。

「なんだ、音出せるじゃん。」

 プーさんが嬉しそうに言った。

「よし、じゃあ、音階を教えてあげよう。」

 プーさんはそう言って、夏樹にB-durの指遣いを教えようと、自分のホルンを持ってきて構えた。


「山出、ちょい待ち。その子、ぜったいトロンボーンも似合うから。」


 大きな声が聞こえて、夏樹もそちらの方を見ると、身長百七十センチはあろうかという、すらりとしたスタイルのよい女子部員が立っていた。手にはテナーバストロンボーンを持っている。

「きみきみ、トロンボーン、興味あるよね。さ、こっち来ようか。お姉さんが教えてあげるから。」

 背の高い女子部員は、夏樹の腕からホルンをもぎ取って、プーさん―山出というらしい、に手渡した。

「ちょっと、おい、浜名ぁ。」

 山出が引き止めかけたが、ちょうどそのとき、ホルンの集団に声をかけた新入生がいた。

「あの、ホルン吹いてみたいんですけど…」

 壁と同化してしまうのではないかと思うくらい色の白い新入生の女子学生が、か細い声で言った。

 山出は声のした方にくるりと向きかえり、ようこそ、と営業スマイルを浮かべた。

 夏樹の腕をつかんでいた浜名はその隙に夏樹をトロンボーンのところへ連れていった。


「だめだよー、下原や山出なんかに捕まったら。ほい。」

 と言って、浜名は夏樹にところどころめっきの剥げた金色のテナーバストロンボーンを渡した。

 浜名の手元にあるトロンボーンは、私物なのだろうか。よく手入れされた銀色のトロンボーンだ。スタイルがいいだけではない。後ろで束ねた艶やかな黒髪、誰が見ても綺麗と表現するであろう整った顔立ちの浜名に、銀色のトロンボーンはよく似合っていた。夏樹は浜名の顔にしばし見とれてしまっていた。

「どしたの?さっきホルンの音出てたから、吹き方は分かるでしょ。」

 そう言って浜名は自分の持っているトロンボーンのマウスピースを口に当て、ブウォーーウォーーンとグリッサンドをやってみせた。

「あの、持ち方がわからないです。」

「え?もしかしてトロンボーンは初体験?嬉しいなあ、お姉さん、君の初めてをもらっちゃうわけだね。」

 そう言って浜名はおもむろに夏樹の左手を取った。

「おい、浜名、言い方。新入生が引くだろうが。」

 そばに立って別の新入生の相手をしていた学生―さっき一曲目の指揮を振っていた今梨だ―が、呆れた顔で言ったが、浜名は全く気にしない様子だ。

 モデル顔負けの美貌が顔に近づき、その指が夏樹の左手の指を一本ずつトロンボーンに巻き付かせていく。夏樹は妙に高鳴る胸の音が気になって仕方なかった。

「はい、できた。このまま楽器を担いで、そうそう。ベルはまっすぐね。」

 初めて構えたトロンボーンは、ずしりと重い。てっきり肩に乗せているのだと思ったら、そうではなく、世のトロンボーン奏者は左手だけで、そこそこ重量のあるこの奇妙な形をした楽器を支えているらしい。夏樹はマウスピースに唇を当て、息を吹き込んだ。

 ぶぉーーーー

 なんだか情けない音が鳴る。

「おお、音は出るね。よしよし。じゃ、B durだ。」

 浜名は今度はスライドを掴んでいる夏樹の右手を持って、シ♭、ド、レ、ミ♭、ファ、ソ、ラ、シ♭、と歌いながら、夏樹の手と一緒にスライドを動かしていく。

 浜名の首筋からふわりといい匂いがする。夏樹にとっては、音階を覚えている場合ではなかった。

「あ、あの、僕、サックスも吹いてみたいんで、し、失礼します!」

 夏樹はそう言って、トロンボーンを近くの椅子の上において、浜名の前から逃げた。

「ちぇっ、やりすぎたかな。」

 浜名がそう言ってうなだれているところに、今梨が軽くチョップをかました。


「あの、サックス、吹いてみたいんですけど。」

 夏樹はテナーサックスを首から下げている女子部員に近づいて言った。

「ん?」

 女子部員は振り向いて、夏樹を見下ろした。先ほどの浜名に続き、またしても身長百七十センチ超え、そして浜名よりもずいぶん痩せている女子部員だった。

「あ、大橋くんじゃないか。来てくれたんだねー。」

 すぐそばで別の新入生の指導をしていた水上が、夏樹に手を振る。

「坂井、ごめん。アルトの方、手が離せないから、ちょっと教えてあげて。大橋くん、たしか経験者だから、サックスの。」

 水上がそう言うと、坂井と呼ばれた目の前の背の高い女子部員は、わかりました、と答えた。

「どうも、テナーサックスの坂井です。経験者って、アルトの?」

「はい。あとはソプラノも吹いたことあります。」

 夏樹が言うと、坂井は困ったような目をした。

「ごめん、いまあるのはテナーとバリトンだけなんだ。アルトはほら、先に来た子たちが使ってるから。とりあえずテナーでいいかな。」

 坂井はそう言って、ネックストラップを夏樹の首にかけ、テナーサックスをそこに吊るした。アルトよりは少し重量のある管体が、ずしりと首筋にのしかかる。

 夏樹は、マウスピースを加えて、とりあえずB-durの音階を鳴らした。

「おお、ふつうに吹けるね。とくに教えることもないか。好きに吹いてていいよ。」

 坂井はそう言って、近くの椅子に腰かけた。

 夏樹はいくつかの音をぱらぱらと出してみてから、ゆっくりと『スターダスト』のフレーズを吹いた。

「ジャズ、好きなの?」

 夏樹が吹き終えると、坂井が尋ねた。

「はい。」

「そうかー。なら、うちのバンド向いてるかもね。ジャズとかポップスやるのうちだけだから。私は苦手なんだけどね、ポップス。」

 そう言って坂井は、自分の首から提げているテナーサックスを構え、『ボレロ』の一節を演奏した。落ち着いた音色だった。


「はい、ではそろそろ時間になりますので、一年生の皆さんは席に戻ってください。はい、部員も自分の席に戻って。」

 パンパンと手を叩いて、今梨が指示を出した。

 夏樹は坂井に礼を言って、テナーサックスを丁寧に椅子に置いた。席に戻るとき、坂井は笑ってこちらにひらひらと手を振っていた。

「じゃあ、一年生は今から配る紙に、第三希望まで、やりたい楽器を書いてください。楽器を決める時の参考にするので。」

 原島がそう言って、紙を配布した。

 夏樹の隣に座る園崎は、紙を受け取ってすぐに記入を始めた。園崎の手元をちらりと横目で見ると、第一希望から第三希望まですべてユーフォニアムと書いていた。

 夏樹は苦笑し、自分もカバンからペンを取りだし、しばし考えた。

 第一希望、アルトサックス。第二希望、トロンボーン。第三希望、特にありません。なんでもいいです。

 夏樹は結局そう書いた。

 記入欄の下には、「いまのお気持ちを選択してください。」とあり、入部を希望する、希望しない、考え中、の三つの選択肢があった。

「希望する」に印をつけて、夏樹は紙を原島に手渡した。

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