第3話 演奏

 大学生活が始まって最初の週の金曜日。夏樹の携帯には応援指導部からのLINEメッセージが届いていた。

『来週の火曜日、午後6時から学生会館二階の大ホールで「楽器に触れる会」を開催します。私たちの演奏を聴いてもらったあとで、吹奏楽で使ういろいろな楽器に実際に触ってもらおうと思っています。都合がよければ、ぜひ来てみてくださいね!』

 応援指導部のブースで水上の説明を聞いた際、水上から渡された用紙に、夏樹は自身のLINEのIDを書いた。それ以来、新歓担当の原島という人から応援指導部の紹介や今後の新歓イベントを紹介するメッセージが時折送られてきていた。

「楽器に触れる会、ねえ。」

 夏樹はメッセージをじっと見つめて少し考えた。そろそろ所属するサークルなり部活なりを決めねばならない頃なのだろう。

 入学式の日以来、夏樹は応援指導部のほかにもいくつかのサークルを回ってみた。

 もとより、運動系の部活やサークルに入るつもりはない。通りがかりに声をかけられた合唱団は、部費と遠征費が高いというのでやめた。入学前から目をつけていたビッグバンドサークルは、夏樹にはレベルが高すぎた。法律サークルというのも覗いてみたが、結局なにをするところなのかよくわからなかった。

 まだまだ知らないサークルはいくらでもあるはずだが、すべてを回ってみる訳にはいかない。

『楽器に触れる会、参加します。』

 夏樹は一言だけ書いて、原島からのメッセージに返信した。


 翌週の火曜日。

 夏樹が学生会館の入り口そばの階段を上がると、大ホールはすぐそこだった。ホールの扉は半分開け放たれていて、中からチューニングや音階練習をする管楽器の雑多な音色が聞こえる。

 夏樹が扉の前で立っていると、中からポロシャツ姿の男子学生が一人現れた。

「えーと、もしかして新入生?楽器に触れる会に来てくれた?」

 男子学生は夏樹を見つけるとそう声をかけた。夏樹は、はい、と返事をした。

「来てくれてありがとう。新歓担当の原島です。さ、どうぞ中に入って。ほかの子も何人か来てるから。」

 なるほど、この人が原島さんか。小柄だが、整った顔立ちと落ち着いた声は、さぞかし女子学生にモテるだろうという印象を抱かせた。

 原島に促されてホールの中に入ると、合奏隊形に並べられた椅子にそれぞれの楽器を手にした部員が座り、後ろの方にはティンパニやバスドラム、スネアドラム、グロッケンやシロフォン、ウィンドチャイムなど各種さまざまなパーカッションが並べられていた。

 ここに座って、と原島が指さした先にはいくつかのパイプ椅子が並べられ、何人かの新入生と思われる学生が腰かけていた。

 夏樹はとりあえず、スマートフォンを眺めている女子学生の隣の椅子に座った。

 夏樹が腰かけると、隣の女子学生はスマホから目を挙げて、軽く夏樹に会釈をした。

「こんにちは。新入生の方、ですよね?」

 女子学生はスマホをカバンにしまいながら夏樹に言った。

「あ、はい。」

「応援指導部に入るんですか?」

 顔が小さい割に、いやに目が大きな女子だ。その大きな目をくりくりさせて、彼女は夏樹に問いかけた。

「いや、まあ。まだ決めてないですけど、吹奏楽をやりたいと思って。」

 よく考えたら、大学に入学以来、同学年の異性と言葉を交わすのはほとんど初めてのことかもしれない。夏樹は急に居住まいをただした。

「そうですか。私は大学でぜったいにユーフォニアムをやりたいって思って。もう入部するって決めてるんです。」

「はあ。ユーフォの経験者なんですね、それじゃあ。」

 夏樹がそう言うと、彼女はいいえ、と言って首を横に振った。

「高校まではずっとバレー部だったんですけど、アニメで吹奏楽とユーフォニアムのことを知って、それ以来ずっとあこがれてたんです。」

 タイトルにユーフォニアムが含まれる、高校の吹奏楽部を舞台にしたアニメが少し前に放送されていたことを夏樹も覚えていた。

「あ、すみません。勝手に話しかけちゃって。私、園崎ハルカといいます。」

 彼女はそう言って、ぺこりと頭を下げた。

「あ、どうも。僕は大橋夏樹です。宜しくお願いします。」

 あわてて夏樹も、頭を下げた。


「さて、新入生の皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。そろそろ始めますね。」

 気付くと夏樹たちの座るパイプ椅子の列の前に原島が立っていて、開会の言葉を述べていた。

「まずは、私たちの演奏を聴いてもらいたいと思います。三曲ほどお送りします。最初は、ヤン・ヴァン・デル・ロースト作曲の『アルセナール』、指揮は当吹奏楽団本年度指揮を務めます、今梨洋一でお送りします。」

 原島は挨拶と曲紹介を述べると、自身も演奏者の中に戻っていき、クラリネットの席に座った。

 ゆっくりと一礼して、指揮台に上がったのが、今梨という部員なのだろう。今梨は指揮台のうえからぐるりと部員たちを見回すと、軽くうなずいて、指揮棒を振り上げた。


 まっすぐに構えられたトランペットや華やかなシンバルから放たれる、英雄の凱旋を思わせる黄金色の音が、ホールいっぱいに響く。すぐにトロンボーンが後を追い、クラリネットのやわらかな、しかし決意を持った旋律が音楽を前へ前へと進めていく。スネアドラムの軽快なロールの音が、根底を支えるチューバの深みのある音色とともに確固とした地盤を作り、その上をクラリネット、フルート、サックス、トランペットが豊かに、ゆったりと歩いていく。ホルンの対旋律はあくまでのびやかに歌い上げ、ユーフォニアムの暖かい響きが、ともすれば鋭く耳を貫くようなほかの金管楽器たちの音を柔らかく包み込む。

 ―ああ、ここにやっと、帰ってきたんだ。

 夏樹は心が震えるのを感じた。無意識に口元が緩むのを抑えられなかった。また、吹奏楽ができるんだ。そう思うと、なにか言葉にできない感情が胸を締め付けた。

 上手か下手かと問われれば、決して上手な演奏ではない。トランペットはときどき音を外しているし、木管楽器のピッチはところどころ致命的に合っていなかった。吹奏楽コンクールの全国大会で金賞を取るような中学校の演奏の方がこの何十倍も洗練された、「上手な」演奏であることは夏樹にも分かった。

 だが、そんなことは問題ではない。部員一人一人の手を抜かない思いが込められた演奏だった。

 この演奏会はコンクールでもなければ、定期演奏会でもない。入部してくれるかどうかもわからない、そこそこの偏差値が必要な大学に入学したてで生意気な、つい一か月前までは高校生だった新入生数名を前にしただけの演奏。それなのに、部員たちがこの演奏に全力をつぎ込んでいることは、彼ら彼女たちの表情から夏樹にも伝わった。

 その真摯さ、荒々しいまでのむき出しの素直さの裏に何が隠れているのか。夏樹は知りたいと思った。

 我ながら嫌な人間だ、と思う心に、夏樹ののどがくつり、と鳴った。

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