2:鴻毛コウモウ

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「中学生二名、フリータイムで」


 学校にほど近い、他の生徒も利用するような古いカラオケ屋。

 古いわりに防音設備がしっかりしていることで有名なそこで入店手続きを取り、案内された角部屋でそれぞれ選んだソフトドリンクを口にする。


 俺はコークで、少女はアイスティー。


 特に曲を入れることもなく、少女は冷房の音に耳を澄ませながら呟いた。


「カラオケなんて一年ぶり。私、あまり音楽聴かないから」

「へえ、何か歌うか?」

「だから曲を知らないってば。良いよ勝手に歌って」

「俺も周りに合わせるばっかりで、持ち歌とかないんだよなぁ」


 手に持っていた緑のリングつきハンドマイクを黄色のリングつきハンドマイクの隣に並べて、それから部屋には沈黙が訪れた。

 ボリュームを落としたテレビの広告が明滅を繰り返し、部屋を賑やかそうと必死である。


 先に静かな空気に耐えられなくなったのは俺の方だった。

 実は少女に対して聞き足りない疑問がある。都合が良いので今の内に聞いてしまおうと、口火を切った。


「なあ」

「なあに仲原さん」

「なんで遠回りな自殺なんだ?」


 ピクリと眉の端が跳ねる。気に障っただろうか、デリケートな問題だろうとは思っていたが、案の定の反応に俺は口を噤む。


 出口に近い席に座っている彼女はいつでもこの部屋を出て行ける――こちらから無駄に話しかけるとこの関係が終わってしまいそうだった。


 少女は焦げ茶の目を揺らしながら、アイスティーに添えられた黒いストローを銜える。


 一口分、嚥下の音が聞こえた。


「よくある話ではないけれど。」少女は潤った舌を回す。「私はお母さんの代わりで、でも私はお母さんじゃなくて、私はお父さんに愛されて、でもお父さんは私を見ていなくて、お父さんを取られたと思ったお母さんが怒って、お父さんはいなくなって、私はお母さんの代わりになったの」


 一息でいい切った少女は、無表情だった。感動の様子もない。


「担任の先生は話を聞いてくれない。保健の先生は好きになれない。生徒指導の先生も乗り気じゃない。赤の他人で話したのは貴方が初めてかも。そもそも聞かれなかったし」


 くああ、と大きな欠伸をしながら少女は言う。

 まるで何でもないことを話しているようだった。


 俺は、先ほど聞いた内容を必死に思い出しながら、聞き取る側からすれば謎ばかりの言葉を咀嚼していく。

 それでも短期記憶容量は非情で、話の半分も理解できなかった。

 今のやり取りで飲み込めた情報といえば、少女は難しい家庭環境にあって、誰にも相談もできなかったことから「遠回りな自殺」とやらをしていたということだけだ。


 俺は小説の主人公のように探偵ごっこや何でも屋をしてはいないので、目の前にぽっと出た大層な悩みにどう対応したものか頭を悩ませる。


 百面相の様子が可笑しいのか、対面する少女は目元を細めて飲み物を口に含んだ。


「必死に打開策を考えなくて結構よ、貴方の問題じゃないもの」

「目の前で提示された時点で十分問題だって」

「この問題は解かなくていいのよ。無理に解こうとしたところで、貴方には何もできない」


 声音に、傷口を舐め上げられた心地がした。


「言ったでしょう、遠回りな自殺だって。別に今すぐ死ぬわけじゃないの、はっきり言ってしまえば、そもそも生きること自体が遠回りに死へ向かっているようなものだから、別に普通のことじゃない? なんで大人はこうも問題があるように考えるのかしらね」

「いや、普通今の話を聞いた大人がほっとくはずがないだろう」

「そう? 家庭のいざこざってよくあることじゃない。私のような子どもは厨二病扱いで良いのよ、それが正解」

「中三で厨二病っていうのもちょっと痛い女の子かもしれないけど良いのかよ」


 俺の脳内で、目の前の少女が眼帯と包帯を嬉々として身につけ学校に現れる様子が再生される。

 きっと、その包帯や眼帯の下には普通に怪我とかしているんだろう?

 何となく想像できる辺り、反応に困る。


「馬鹿ねぇ、目に見える位置に怪我するわけないじゃないの」

「リアルは非情だな」

「現実なんてそんなものよ」


 いつの間にか空になっていたプラスチックのカップを手に取り立ち上がる少女。このままいなくなってしまうのかと思いきや「一緒に来る?」と聞く始末。思い返せば彼女は今日、日が落ちるまでは家に帰りたくないといっていたのだ。


 少し残っていたコークを飲み干し、一緒に席を立つ。


 飲み放題のドリンクバーには、様々な飲み物を飲めるというだけで六五〇円の価値がある。少女はアイスティーを入れていたカップにイチゴみるくを投入し、俺は二杯目になるコークを注いだ。


「まだ聞きたい? 私の話」


 部屋に戻ると開口一番少女は言った。

 俺はゆるゆると首を横に振る。


「いつものように、君が話したい話題で時間を使おう。その方が有意義だ」


 現実の前に、子どもの俺はただただ無力だった。


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 ソフトドリンクを何杯か消費して三時間半を潰し、俺たちはようやくカラオケ屋を後にした。外は曇り空で、傘をさす必要はなさそうだ。西に傾いた太陽が海岸線を橙に染めている。


「あはは。今日も太陽が死んで、月が産まれるのね」


 詩人のような台詞を口にしながら帰路を行く少女。


 あの後、同じカップにコークを注いだ挙句、最後ウーロン茶でしめてくるとは。ドリンクバーで飲み物の順番を考えない人を俺は初めて見た。


 ともかく、舌の機能が疑われるような飲み方をしていた少女はカラオケに行く前よりも血の気が抜けているように見えた。誘ったのは間違いだっただろうか。


「大丈夫か、ふらついてるように見えるけど」

「いつも通りよ」

「普段は傘を杖代わりにしないだろ」

「ふふ。私のこと、何でも知ってるような口をいうのね」


 少女は家の近くまできてこちらを振り返った。


「ねえ、一つ意地悪なこと、聞いても良い?」

「ん?」


 少女の方から聞いて来るとは何事だ。この半月の交流で質問することはあれど質問されることはなかった俺は、珍しくて聞き返してしまった。


 少女はこともなさげに「ただの気まぐれよ」と返答する。


「貴方、私が一緒に死にたいって言ったら、自殺してくれる?」


 生唾を飲んだ。


 彼女は墜ちる太陽を背に、悪魔に似た笑みを浮かべた。

 血が凍りそうな、魔性の微笑み。


 俺は一拍を置いて。なるべく感情を出さないように、答えた。


「ごめん、無理」

「あは、やっぱりそうよね。そりゃそうだ。まあまあ、顔を上げて頂戴、謝るのはこっちよ。気にしないで」


 少女はふんにゃりと年相応の笑みを浮かべて――少女のそのような表情を見るのはこの日が初めてのことだった――こちらへと駆け寄る。


「不快にさせたから、これはその分のお代」


 視界が冷たい掌で遮られて、頬に柔らかい感触。柔い熱が瞬く間もなく離れていく。


「じゃあね、夏休み明けに会いましょ。仲原さん」

「お、おう」


 果たして指を頬に触れられただけなのか、それとも幻触か。


 加速する思考回路と共に夏休みはモーメント。四十日弱あった夏の連休は俺に宿題をする余裕を与えることなく過ぎ去った。


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 夏休み明け、始業式の日。


 外は生憎の快晴で体育館は蒸し返るように暑かった。休み明け早々に六時間まである授業を終え、明日提出する分の宿題に取りかかろうと思った俺は、放課後になる合図があった後も教室に居残っていた。


 公民の穴埋めと数学の連立方程式、漢字の書き取りプリント。


 溜めていたつけを払おうと机に身を寄せたとき、帰宅部の一人であるクラスメイトが一人、教室に駆け込んできた。

 忘れものでもしたのだろうと誰も見向きしようとしなかったが、その人は短い髪を振り乱しながら何故か俺の方へと向かってきた。


「よっす仲原」

「なんだ宮良」

「……掃除したときにクラスの用具入れに入ってたんだけどさ」


 そうして手渡されたのは青い洋封筒だった。


 表には「仲原」の文字と、今時にしては珍しいシーリングスタンプ。

 しかし開封防止のそれは無残にも真ん中から千切れていた。咄嗟に、目の前にいる彼が開封してしまったのだと思いああたる。


「ごめんごめん、人づき合いの薄いお前に手紙を出すなんてしゃれてやがると思って、面白半分に開けちまった。けどさ、中を覗いちまった俺が言うのもなんだが、意味不明でよく分からんかったから、早めに見せた方が良いんじゃねえかと思って」

「中身は抜いてないよな」

「まさか」


 目の前の彼は幼稚園から長いつき合いのある友人である。このときばかりは信頼し、俺は既に開いている封筒に指を掛けた。


 中には、持ち手に黒いカバーのついた小さな鍵が一つと、可愛らしいパセリのシールが貼りつけられた白いメッセージカードが入っていた。


 本文はなく、白紙である。


「確かに。よく分からん」


 俺に手紙を出して来るような人にも心あたりがない。けれど、嫌な胸騒ぎがした。俺は廊下に先公がいないのを見計らって、校則違反になるスマートフォンの使用を決行した。


 空気を読んだ友人は俺の手元が廊下から隠れるように移動して、こちらの手元を覗き込む。


「おうおう、指導を嫌うお前がそれを学校で使うなんて珍しい」

「うるさい、今は話かけんな。集中させろ」


 汗で滑る画面に指を擦りつけながら検索ワードを打ち込む。


『封蝋 不吉』目ぼしいヒットはなし。


『青い封筒 不吉』国保の封筒? そんなものは求めていない。


『白いメッセージカード 不吉』インクが滲むから色づきの方が良いとかどうでもいい。


『パセリ 不吉』鳥には毒、ネガティブな花言葉……これか。


 そのまま検索を続けて、息が詰まった。


『祝祭』『勝利』『お祭り気分』『不和』『役に立つ知識』『――。


 最後まで見てから検索アプリの履歴を消し、携帯を鞄の中にしまおうとした。それを取り落として、教室に「がしゃん」と金属のかち合う音が響く。ガラスカバーは粉々だろう。けれどそれがどうでもいいほどには動揺していた。


 顔をあげれば、あの雨の日、水筒を取ろうとして屈んだときに見えたのと同じ光景が広がっている。

 あの日と違うのは今日が夏休み明けで、空が晴れ渡っているという点だけだ。


 清々しい風景と現実との違和感から、余計に不安を駆られ気分が優れない。


 落ちたスマートフォンを拾い、鞄ではなくズボンのポケットに流し入れる。冷房が効いているはずなのに額には大粒の汗が流れていた。張りつく白シャツが気持ち悪い。

 それでも俺は探さないといけなかった。この手紙の差出人を今すぐに。


「大丈夫か仲原?」


 できた人間である友人は、俺の挙動不審を気にして背をさすってきたが、それをやんわり振り払って席を立つ。


「宮良、ここで待っててくれ。何かあったら電話する」

「なんだ、そのラノベの主人公っぽいフラグたっぷりの台詞は」


 友人の声を背に俺は教室を飛び出した。驚きと焦りの混じった声が続いて聞こえたような気がしたが、気がしただけで聞こえはしなかった。


 校庭を駆け、すっかり昇るのに慣れたフェンスに足を掛ける。金網越しには誰の姿もなかった。それでも誰かきているんじゃないかと思って、もしかするとあの少女がいるんじゃないだろうかと思って。

 一息吸い込んで乗り越えた。


 けど。


 干上がった川を一望できる護岸工事済みの河原には、果たして誰もいなかった。


「……まさか、だよな」


 ポケットに入れていたスマートフォンを取り出して、先ほどの友人に連絡を入れようとして手を止める。

 空の青と混ざるようにして、見覚えのある青色が視界の端に入ったような気がしたのだ。


 辺りを見回した俺は、町の中を流れる細い川と目の前の本流とが繋がる用水路の入り口に、開いた青いビニール傘が詰まっているのを見つけた。

 長い間雨風に晒されたのか、骨組みの一部が茶色く変色してしまっている。


「誰がこんなところに」


 いいながら、無意識の内に否定する。違う、そうじゃないだろう――この傘を持っていた持ち主は、どうしてここに投棄したのだろうか、と。


 しかし理由はどうあれ、不法投棄は駄目だ。ましてや冬になればこの辺りはまた水の底。せめて護岸の上に引き上げようと、俺は傘の骨子に触れた。


「   あ」


 アルミの骨は、青いフィルムと共にその場を退いた。


 そしてそれらに隠れていた、隠されていたものに声を失う。


 パセリの花言葉。

 忌避される内容の一つに、神話になぞらえたおぞましい意味が並んでいたのを思い出す。


 俺は手にしていたスマートフォンを落とした。単純に持っていられなかった。灰色の護岸を滑り落ちた平成最大の文明の利器は、乾いた川底の泥へと突き刺さった。



 白い軽石のようになった人一人分の骨。

 青い傘の下で座り込むようにして、前兆は現実に。




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